心做し

第41話




その日、私はバイトをクビになった。



理由は、体調を崩して仕事中に倒れたから。



だが、実際はただの口実に過ぎなかった。



何故なら、他の子達は無断で仕事を休んでも、楽天家な店長は怒りもせずに黙認している。


それが当たり前だったからだ。



いつも笑顔で、誰にも分け隔てなくて優しい。



職場の人たちからは、人格者だと評判だった店長。



しかし、実際はーーというより、私にだけは別だった。



当時、まだ高校生だった私を深夜まで働かせてくれる場所なんてなかなかなかった。



だけど、おばさんに頼りたくない一心で、いずれ家を出たかった私にはお金が必要だった。



そんな私にとって、人手不足で規律なんて殆ど存在しないその店は都合が良かったんだ。



店長も最初は優しかった。



それなのに、私が大学生になるとそれは一変した。





『なあ、いいだろ?』




店長は次第に、私に関係を迫るようになった。



最初はただの冗談かと思っていた。



『星宮って綺麗になったよな』


『彼氏いるの?何なら俺と付き合わない?』



と、軽い言い方だったから、調子の良い人だと軽く受け流していた。



だけど、それは段々とエスカレートしていき。



‥‥たまに、体を触られるようなった。



そこでようやく店長が本気だと気づいた。



でも、それは私がどうとかっていうよりもただ単に体目当てといった感じで、不快で仕方がなくて。




『やめてください!』




この仕事を失えば、収入が極端に減り生計を立てることが難しくなってしまう。



だから我慢して我慢して、我慢し続けていたのに‥‥。



ある日、ついに耐えきれなくなった。



制服のスカート越しにお尻に触れてきた手を振り払ってしまった。



その瞬間、店長は怖いくらいに無表情になって、やがて見たこともないような怖い顔をした。



自分の過ちに青ざめたタイミングで、客が入ってきたので何とかその場をやり過ごすことはできた。



けれど、その時にはもう大学と掛け持ちしていたバイトの両立が体力的に厳しくて。その上、店長へのストレスで精神的に弱り切っていた。追い討ちをかけるように店長を拒絶してしまったことで、相当なプレッシャーに襲われそのまま耐えきれずに倒れてしまったんだ。







『お前のような体調も管理できないような奴にいられては迷惑だ』




目覚めた私に店長は、冷え切った目で、吐き捨てるように言い放った。




外に出ると、雨が降っていた。



通り雨なのか、傘を持っている人は少なくて、行き交う人々は足早に歩き、雨宿りしている人も沢山いる。



そんな中を、一人傘を持って歩く私。



不幸中の幸いとでも言うべきか、以前に持って帰るのを忘れていた傘のお陰でこうして濡れずに済んだ。



それに、こうして傘を差していれば、心を捨てて泣くこともできない姿を誰かに見られることはない。



そう思うと、少しは気も晴れる‥‥訳もなく。



何もかもがどうでも良くなってしまった私は、行き場もなく街を彷徨う。



これからどうやって生計を立てよう。



また、何個かバイトを増やす?



しかし、そうするとただでさえギリギリな学業が疎かかなってしまう。



それは駄目だ。絶対に駄目だ。



それじゃあ、大学に通う意味がなくなってしまう。






目の前が一気に真っ暗になって、ドロドロとしたものが溢れてくる。



‥‥いっそ、こんな体差し出してしまえば良かった。



どうせ誰にも必要とされず、無価値なんだから。



嫌がる意味なんてないじゃないか。




体だけではない。




私という存在すらも、無意味で無価値なものだ。




例え、今この場で死んだとしても、悲しむ人どころか気にかける人すらいない。



寧ろ、喜びそうな人の顔が浮び自嘲する。



私は、一体何のために生きているのだろう?




誰かのため?


ーー馬鹿げてる。私を必要とする人なんて、この世にいないのに。



なら、自分のため?


ふざけないでよ、私はこの世で一番自分のことが嫌いなのに。



もういい。もういいだろうか。




自分で言うのもあれだけど、私は私なりに頑張ったつもりだ。



希望もないのに、頑張って生きてきた方だと思う。



だけど何も変わらなくて、寧ろ状況は悪くなってしまった。



こんな思いをしてまで生きる意味が、この世界にはあるの?



いっそ、この雨が私の存在ごと洗い流してくれればいいと、そう思った。



ふらふらとした足取りで彷徨っていると、いつのまにか家路に着いていたことに失笑を浮かべた。



そうだ、私の居場所は家しかない。



古くて、みすぼらしくて、カビ臭くて、狭くて、隙間風の入る、まるで私みたいな家。



家といっても数少ない荷物を置いたり、仮眠を取る程度にしか使っていないので、慣れ親しんだ場所ではないが。



傘を目元まで下げていた私は、遠くで高そうな黒靴が視界に入ってきたことで顔を上げた。



そして、その人物を無言のまま眺めた。



傘も差さずに佇んで雨に打たれる男。




不確かで、不透明で、虚無感に染まった瞳で、空を見上げたもま微動だにしないその男は、帝王と呼ばれている男。



何を、しているのだろうか。



誰からも慕われ、憧れられて、怒れられている男は、私とは無縁の存在で、一生関わることもない。



一度たりとも話すことはおろか、その瞳に映ることもない。



放っておこう、私とは無関係な人だ。



目の前を横切り、通り過ぎようとした。



だけどーー。




『ーー傘、使う?』




無意識のまま立ち止まると、自分が濡れることすら厭わずに、彼に傘を差し出していた。




虚無感に染まった瞳に私が映ると、何故か驚いたように息を呑んだ。



無理もないだろう。



見知らぬ女が、ずぶ濡れになりながら、ずぶ濡れの自分に傘を差し出してきたのだから。



頭がおかしいのかと思われるのも当然だろう。




『‥‥お前、俺が誰だか分かってるのか?』




その声は、どこか戸惑っているようにも聞こえた。



妙な感覚だった。



会ったことはないが、芸能人とでも話しているように非現実的で、全く現実味が湧かない。





『一之瀬時雨』




初めてその名を口にすると、やはり驚いたような顔をする男。





『‥‥分かっていて、声を掛けてきたのか?』


『そうだけど』


『正気か?』






何が?と、言いそうになったけれどそんな気安く話すような間柄ではないと言い淀んだ。



そもそも、彼が私の存在を認識しているわけがない。





『あなたは私のことなんて知らないだろうけど、同じゼミでしょ。‥‥それくらい、知ってる』




自分への皮肉を込めながらそう言った。



‥‥というより、あなたの存在を知らない人なんてこの世にいないだろ。それとも同じゼミの人も知らない間抜けと思っているのか、という彼への皮肉も込めて。



自暴自棄になっているんだ。



そうでなければ、彼に話しかけるような命知らずなことはしなかった。



後悔したところで、後の祭。



彼の中での私は、頭のおかしい生意気な女。



そう印象付けられてしまっただろう。



何をやっているんだろう、私は。



いくら何もかもがどうでもいいからって、よりによってこの男に話しかけるなんて。



しかも、自分から悪印象を与えるようなことをして。



もういいや、この傘はこの男に押し付けてさっさと帰ろう。



そのまま立ち去るんだ。



だけど、背を向ける前に男が私へと近づいてきたのだ。






『知ってる』





一瞬、何を言われたのか理解できなかった。



男は傘を受け取ると、私と自分の間にさした。





『星宮小夜だろ』




驚くのは、今度は私の番だった。




信じられないことだった。



あの帝王と恐れられる男が、私の存在を認識しているだけでなく、名前まで覚えているなんて。



無様で、惨めで、醜い私をーー。



消えてしまいたいと願った。



消えてしまえと呪った。



死ぬだけでは足りない、この存在ごと全ての人の記憶からも消えて、最初からいなかったことにしてほしいと。



そんな時に、出会った彼。




彼からすれば、同じゼミの同級生を知ってることは普通なのかもしれない。



それこそ、私より遥かに頭が良いだろう彼なら一度聞いただけで全員の名前を暗記できるのかもしれない。



それでも、私にとっては意味のあることだった。



本当に、ここに存在しているのか。


そんなことすらも分からなくなった私を、彼は名前で呼び、傘を差し出し、その瞳に映してくれた。



それはまるで、存在を認められたようで。



ここに存在していてもいいと、肯定されたようで。



雨の雫か、瞳から一筋の何かが流れ落ちた。




今になってようやく分かった。



私はあの日、彼に救われていたことを。



それなのに、生まれて初めて何かを期待した彼は、私を連れ去り、監禁して、全てを奪った。



だから、彼も結局は私を虐げるのかと裏切られたような気持ちになったんだ。



それさえなければ私は、彼のことをもっと違う存在として認識できたかもしれないのに。





「‥‥無理よ」



爪が皮膚に食い込むくらいに、自分の手を強く握り締めた。




「今更彼に何かを抱くことも、求めること、あまりにも虫が良すぎる」




私が彼にしてきたことを思えば、〝会いたい〟と思うことさえも憚れる。





「私にそんな資格は‥‥ない」




どれだけ謝ったところで全然足りない。



私は知っている。



一度負った心の傷が、そう容易く癒えないことを。




「共に過ごした日々で、あなたの目には、若はどのように映りましたか?」




それまで黙って聞いていた無名は、私の手を取って起き上がらせると、体を支えるようにして引き寄せた。




「‥‥どうって?」


「何もかもを手にして、何もかもを手にすることのできる力を持っていて、誰よりも恵まれているように感じましたか?」






私の知る彼。



いや、こうして関わる前から遠目で見てきた彼は、無名の言う通りの人物のはずなのに、何故か、ふとした瞬間にーー。





「‥‥まるで、闇の中に一人彷徨っているようで」




それは、初めて会った日や、夜中に帰ってきて明らかに様子のおかしかった日に、より強く感じたことだった。




「居場所を、行き場を、見つけられないような」



かつての私のように。



彼と会う前の私のように。




「酷く、孤独に見えた」


「‥‥若には、誰もいないんです」


「‥‥え?」


「俺には、若がいてくれました。俺を必要とし、大切にしてくださる人が」


「‥‥」


「しかし、若にはいなかった。俺は若の力にはなれても、寄り添うことはできないから」


「‥‥」


「そんな時に、あなたが来てくれた」


「‥‥」


「俺には、小夜さんや若。小夜さんには、俺や若がいた。そして若は、あなたに何かを求めていた」


「‥‥」


「そして、今は若の側には本当の意味で誰もいなくなってしまった。小夜さんも、そしてーー俺も」


「‥‥無名っ」





それが何を意味するか、分かってしまう。



そうなることは、予め予想できていたけれど、こうして現実になると、例えようのないほどの罪悪感に襲われる。





「ごめん、ごめんなさいっ。私の、私のせいでっーー」


「‥‥小夜さん」


「私のせいで、無名は生きる意味をっ」


「本当に失ったのなら、俺はここにいませんよ」



私を見る無名の目があまりにも優しくて。



とても、生きる意味を失い、抜け殻になっているようには見えなかった。




「あなたが、俺を人間にしてくれたから」


「‥‥っ」


「あなたのお陰で、俺はこうして一人になってもちゃんと生きていられる」


「‥‥無名っ」


「ーーありがとう、小夜さん。俺を、人間にしてくれて」




私を包み込んでくれる温かい腕。



見たこともないような、無邪気で無垢な笑顔。



そこにはもう、あの能面のような笑顔を貼り付けていた頃の無名はいなかった。




「あなたが会いたいと、一度でもいいから歩み寄りたいと望むのなら、俺は会うべきだと思います」


「‥‥」


「会わないことには、何も始まりません。終わらせることすらできません。あなたが今日、あの女と完全に決別したように」


「‥‥」


「無理強いはしません。責めることもしません。だけど、どうか覚えておいてください」


「‥‥」


「今の若には、あなたが必要だ」


「‥‥」


「あなたが歩み寄らなければ、若は永遠に独りのままだ」


「‥‥私に、出来ることなんて」


「俺を信じてくれるのなら、どうか俺の言葉も信じてください」


「‥‥」


「一度、ちゃんと自分と向き合って考えてみてください。‥‥それと、これを」



渡されたのは、何かが入った封筒だった。




「俺にできるのは、ここまでです」




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