第40話




「今、何をしようとした?」



いつもの無名からは想像もできないような低く、地を這うような声だった。




「答えろよ。小夜さんに何をするつもりだったのかを!」



その胸に私を抱き寄せながら、手を振り上げると乾いた音が響く。



「痛い痛い」と無名に平手打ちされて赤くなった頬を押さえながら女が泣きながらに訴える。



「この街には二度と来るなと言ったはずだが?」


「ヒッ、ご、ごめんなさっーー」


「どうやらまだ懲りていないようだな。あの時の情けは、小夜さんを尊重した上でのものだったというのに‥‥。今からでもその息の根を止めてやろうか?」




まるで彼のような口調で狂気じみた光をその目に宿らせた無名は、私の知らない人だった。



「産んでやった?養ってやった?ふざけるなよ、あんたのせいで、小夜さんがどれだけ苦しみ、虐げられたと思っているだ!!」




けれど、痛いほどに強く抱き寄せてくるその体は怒りに震えていて、どれだけの強い感情がその言葉に込められているのかを直に感じる。




「誰からも愛されず、誰からも求められず、誰からも受け入れられず、誰からも存在否定され、情をかけられることもなく虐げられながらも小夜さんが今まで必死に生きてきたのは、ただあんたに愛されたい一心だけだったというのに!!」




怒りのあまり、涙さえ滲ませたその目を見た途端に喉が焼けるように熱くなり、胸が締め付けられるように苦しくなった。





「ただ人の心を守るため、自分に害をなした人間のためでさえも簡単に命を無碍にできるのも、極端に人の好意に疎いのも、狭いところが苦手で、閉じ込められることでパニックを起こすのも、全部全部あんたのせいだ!!」




無名は、ただ私のために怒ってくれている。




「何も悪くないのに、全てはあんたが元凶だというのに、パニックになったことで俺に謝ったり、〝自分がおかしい〟からと決めつけ、何事も自分のせいだと思い込む癖も、育ってきた環境のせいだ!!」




私のために、こんなにも怒鳴ってくれる人がいるなんて‥‥。




「小さな女の子の身を拘束して、何も与えずにクローゼットの中に閉じ込めるようなやつに、母親を名乗る資格なんてない!!そう名乗ることすらも罪深いと何故分からない!!」




その思いの強さに、涙が溢れた。




「小夜さんはあんたを陥れようだとか、復讐しようだなんてことを一度もしていない!!寧ろすることが当然だというのに、小夜さんはそんなあんたにずっと縋っていたんだ!悪夢の中で必死にあんたに助けを求める姿を、今までどれだけ見てきたと思っている!!」


「‥‥ごめんなさい、ごめんなさい」


「そんな小夜さんを抱きしめて、拒絶されようが屈せずに慰めていたあの方を俺はずっと見てきたんだ!」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


「互いが互いの救いで、いつ心を通じ合わせてもおかしくなかった二人が、一緒になるどころが傷付けあって離れることになったのも、あんたの存在が小夜さんに心を捨てさせたからだ!!」


「ごめんなさい、ごめんなさい」


「人から愛情を受けたことのない人が、簡単に人を愛せると思うか!?愛せたところで、それが愛情だと理解できると思うか!?」


「ごめん、なさいっ」


「自分に向けられた好意を、好意だと信じることができると思うか!?何の疑いも持たず、不安を抱えずに、それを受け入れられると!?」


「‥‥ごめんなさい」


「どうしてだよっ!傷付かなくていい相手が傷ついて、元凶のお前のようなやつが、何の罰も受けずにのうのうと生きていられる!!」


「‥‥ごめんなさい」


「許さない?死ねばいい?殺してやる?その言葉、あんたにそのまま返してやるよ!!何なら今ここで殺してやろうか!?」


「‥‥許して、くださいっ」



酷い温度差だった。



涙さえ滲ませながら、叱りつける無名に対し、女はその言葉の意味を理解しようともせずに、ただ自分の身を守るためだけに無機質に謝罪の言葉を言い続ける。



本当、馬鹿みたいだ。



こんな人に、無様にも縋り付いていた自分が、哀れで、滑稽で、惨めで、自嘲する。



「‥‥もういい」



言葉の通り、息の根を止める勢いで女の首に手をかけた無名の腕に触れる。




「もう、いいよ」


「‥‥小夜さん」


「ありがとう、私のために怒ってくれて」



抱きしめてくれたその腕から抜けると、地べたに座り込んだ女の元へと向かう。



相当怖かったのか、充血した目で怯えたように私を見上げる女に目線を合わせて屈む。




「星宮さん。あなたが産んでくれたことに感謝なんてしないし、恨んだりもしない」


「‥‥ごめんなさい」




壊れたロボットのように、同じ言葉を繰り返すその人には何を言っても無駄だ。



だからこれは、自分へのけじめだ。




「私には初めから母親なんていない。産んだからといって、それに感謝しろだなんて言われる筋合いはない。一方的に産んでおいて、産みたくなかったなんて言われても知ったことじゃない。だから、あなたを母親だなんて思わないし、子供だと思われる筋合いもない」


「‥‥ごめんなさい」




また、それか。




「だから、私のことは忘れて。あなたに子供なんていないし、私にも母親なんていない。それで、私達はこの腐った縁を断ち切るの」


「‥‥ごめんなさい」


「さようなら、もう一生会うことはないでしょう。あなたにこの街から出ていけなんて言わない、好きなところで好きに生きたらいい。赤の他人だからどこで何をしていようが関係ない」


「‥‥ごめんなさい」


「行こう、無名。こんな人、放っておこう」




驚く無名の手を掴むと、背を向けた。



暫く歩いていると、錆びれた公園へと辿り着いた。




「無名っ」



心なしか痩せたように感じるその体へと抱きついた。



ずっと、ずっと気がかりだった。


ずっと、ずっと会いたかった。



あの人が無名に何かするわけがないと思っていたけれど、確信が持てなくて不安で堪らなかった。



少しでも気を抜いたら、無名の安否を確かめるためにあの組に戻ってしまいそうになるのを必死で堪えた。



銀先生は問題ないと言っていたけれど、〝何も〟ないわけがないと分かっていたからこそ、心配だったんだ。



でも、戻ってしまえばあの人に逆らってまで私を逃してくれた無名の思いを踏みにじることになるから、そうすることができなかった。




「良かった、無事で。本当に良かったっ‥‥」


「小夜さん、俺は大丈夫ですよ」




いつものように優しく笑うと、抱きしめ返してくれる。




「‥‥でも、どうしてここに?」




まるで、私がここに来ることやあの人がここにいることを知っているかのようなタイミングだったから。



これが偶然なわけがないことは私でも分かる。



それに、あの人の反応を見る限り会ったことがあるようだった。



どうしてあの人は、あんなにも怯えていたのだろうか。



恐ろしい男とは、誰のことを指していたのだろうか。





「あの女がこの街に来たら俺の元に連絡がくるようになっているんです。そして、何があっても会わせないようにと命じられていました」


「‥‥え?」


「‥‥本当は、口止めされていたのですが、俺にはもうその命に従う理由が無くなってしまったので」




目を伏せると、表情を曇らせた。




「実は一度、あの女に会いに行ったことがあります」


「どうして、そんなこと‥‥」


「あなたがあまりにもあの女に執着していたので、可能なら引き合わせると言い出しました」


「‥‥一体、誰が」


「そんなの、一人しかいませんよ」


「でも、だって、そんなことをする理由がないじゃない‥‥」


「理由なんて、必要でしょうか?」



「あの女をこの街から追い出し、あなたから遠ざけて、絶対に会わせないように俺に監視するように命じたのはーー若です」



耳を、疑った。





「あの女があなたを恨んでいることを知った若は、もしこの事実を知ったら、あなたが完全に壊れて、生きること放棄してしまうと考えたのです」




それは、私には知る由もなかったことだった。




「そのためにあの女をこの街から追い出しました。けれど、あなたが肌身離さずに大事に持っていたメモの住所にあの女がいないことを知ってしまったら、唯一の縋るものを失うことになる。それを回避するために、その事実を知られないようにしろと厳しく言いつけられていました」




あの人は、私が逃げる度に母の元に向かおうとするのを引き戻しては、酷い言葉を浴びせた。




『ああ、そうか母親のところか。確かに、いい口実だよなぁ?』





無名の話が本当だとするなら、母のことであの人が私を苦しめようとなんてするはずがない。






もしも、あの人の真意が別にあったとしたら。



もし、自分が母親から引き離す悪役になることで、その事実から目を背けさせるためにらわざとあんなことを言っていたとすれば。






「‥‥どうして、どうしてっ」





それではまるで、私のために自分を犠牲にしていたみたいじゃないか。



傲慢不遜で、冷酷無情で、傍若無人で、唯我独尊な男。



そんな人が、何故そんなことを。





「あなたを、守るためですよ」




そんなはずがないと決めつけていながらも、心のどこかにあったその答えを、無名は当然のように言い放った。




「それだけではありません。あなたが階段から突き落とされた時も、誰かが故意的にやったことは明白だったにも関わらず若は犯人を探し出そうとはしませんでした」


「‥‥」


「いつ同じようなことが起きるかも分からない状況で野放しにする理由が分かずに若に尋ねると、『犯人を炙り出して罰を与えたところで根本的な解決にはならない。それどころが、俺がそうすることを何よりも嫌がってる。無理矢理何かすることは返って逆効果だ。だから、暫くは様子を見る。あいつが俺に助けを求めるようなら即時に手を貸す。そうしなかったとしても危険だと判断した段階で極秘に排除する。だから今は何もするな』とおっしゃいました」


「‥‥」


「勿論、そうならないように最善は尽くしました。若は極力あなたの側にいるようにしましたし、離れざるを得ないと俺を大学に通わせて‥‥」





それなのに、それなのに私はーー。





『何があっても無名の側を離れるなよ』




あの人が私のために配慮してたことなど知ろうともせずに、彼との約束を簡単に破り捨てて、あんなことになって。







『お願いだからももうやめてよ!』


『こんなことをして何になるの!?』


『あなたは一体何を得ると言うのよ!?』


『怒るなら私を怒ってよ!殴りたいなら私を殴ればいい!!』





それでも助けてくれたというのに、責めるようなことを言って悪者へと仕立て上げた。







『あなたの思い通りの人形になる。どんなことでも、絶対に逆らわない。ーーこれでどう?』



そしてあろうことが、彼が守ろうとしていた私自身を差し出した。



最低だ、私。なんて‥‥、なんて罪深いのだろう。






『お前が簡単に命を捨てるのなら、自分を無下にして殺すのなら、俺はお前に、一体何をしたらいいんだよ!!』





悲痛な声でそう叫んだ彼。



私は一体、どれだけあの人のことを傷付けていたの?




「若はあなたの過去のことを殆ど知りません。知っていることは、あの女のことや、あなたが抱えている心の病に喘息持ちであることだけ」


「‥‥そんな」





『あんたに私の気持ちなんて分かるはずないわよね』




ずっと、彼は全てを知っていると思っていた。



私がどれだけ無様に生きてきたかをーー。



それなのに根拠もないのに勝手に劣等感を抱いて、八つ当たりをした。





「あなたが学校で虐められていたことや、引き取られた先で厄介がられたことも、何も知りません。『どんな過去があろうともこいつはこいつだ。それなのに、人の過去を興味本位で探るべきではない』と」


「‥‥なんで。あの人は、そんなに私を?」


「それは俺には分かりません。しかし、確かなことは、若があなたを大切に思っていたということです」




‥‥どうして、気付かなかったのだろう。



あの人は、私が辛い時は必ず側にいて、抱きしめてながら何度も名前を呼んでくれていたのに。




「ーーもしかして」




ずっと、夢だと思っていた。







「毎晩毎晩、悪夢に苦しむ私を、あの人はっーー」






寝つきは悪い方だった。



夢見も悪い方だった。



だけど、彼の元にいることで次第にそれは和らいでいった。



毎晩のように見ていた悪夢。



孤独で、独りで、苦しくて、悲しくてーー。









「そうですよ」


「ーーっ」


「若は、悪夢に苦しんでいるあなたを抱きしめていました」






泣く資格もないのに、いつの間にか涙がこぼれ落ちていた。





「泣き止んで寝付くまで、ずっと、ずっとーー」




『小夜』



普段からは想像もできない優しい声で、それでいて壊れ物でも扱うかのように繊細な手つきで包み込むように抱きしめてくれた温かい腕。



それはあまりにも彼らしかぬ行動で、私の作り上げた都合のいい幻だと思い込んでいたんだ。



私が母のことを忘れていた理由。



母に縋ることを辞めた理由。



母に拒絶されても、正気でいられる理由。



その答えは、彼にある。


元より、縋るべき対象ではない相手だった。



虐げる元凶で、誰よりも私を否定する。



それでも、そうと分かっていても、縋るべき相手が他にいなくて。






『ここにいてやる』


『側にいてやる』


『今も、これからも、お前を手放す気は無い』




そんな私に、ずっと欲しかった言葉を、温もりを、居場所を与えてくれたあの人がいたから。



だから私は、母に縋る必要がなくなった。



ただ、それだけのこと。



そんな簡単なことにすら、私は気付かなかった。



いや、気付こうとさえしなかったのだ。




私の大切な人は、もうとっくに変わっていた。





「改めてもう一度聞きます。小夜さん、あなたは若のことを、どう思っているんですか?今も尚、害悪でしかないと、そう思いますか?」




無名は、力無く地面に膝をついた私と屈んで目線を合わせると、いつかと同じ問いをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る