真実

第39話

〝会わせたい人がいる〟




そう言った先生は、誰とは教えてくれないまま有無を言わせずに私を車に乗せた。



優しい先生らしからぬ行動を不思議に思いながらも、危害を加えられるようなことは絶対にないと信じているから特に警戒することはなかった。








「星宮には、酷な事かもしれないが」



車に乗るなり沈黙を貫いていた先生が、眉を下げながら呟いた。







「この問題を解決‥‥いや、この言い方は違うな。解決も何も、始まる前から終わっている事だ」


「‥‥先生?」



今日の先生は、様子が変なだけでなくどうにも歯切れが悪い。



私に話しかけているというよりは、自分に言い聞かせているようにも聞こえる。







「どんなに真実が非情だとしても、だからこそ星宮の中で完全に終わらせないといけない。

ーー俺も、そうだったように」


「‥‥」


「そうしないことには、この先ずっと前に進むことはできない」


「‥‥」


「近くにいるから、何かあったらすぐに言え。‥‥まさか、このために渡すことになるとはな」




先生が渡してきたのは、真新しい携帯電話だった。







「覚えておいてくれ、何があっても俺は星宮の味方だ」




悲しそうな顔をすると、私の頭をいつものように撫でた。




車から降りた先は、寂れた住宅地だった。



そこに、見覚えはなかった。



強いて言うのなら、私が前に住んでいたアパートの付近に似ているくらい。



確か、電灯のある場所の近くと言っていた。



『もう少ししたら帰ってくる頃だろうから、それまで待っていてくれ』と。



訳もわからずここに連れてこられたから、どんな心持ちでいたらいいか分からずに、辺りを見渡すと電灯の横にベンチがあった。



することもないからとベンチに腰掛けていると、やがて1人の女性がこちらに向かって歩いてくる。



見ところ、知らない人だった。知り合いなんかいなかったから、この住宅地に住んでいる人だろうと思った。



けれど、その人の顔が電灯に照らされたところで私は咄嗟に立ち上がった。



だって、私はその人を知っていたから。



話したこともないその人を、あまりにも知りすぎていたから。



知りすぎていた、というよりもその存在が私の中で大きすぎたとでも言うべきか。



しかし、同時に気付く。



あれほどまでに大きかった存在を、死すら願うほどに、苦しみを与えられてきた存在を、情なんて受けたこともないくせに必死に縋りついていたその存在を、今の今まで忘れていたことに。




どうしてだろう?



一体、いつから?



再会したこともよりも、そのことばかりに気を取られていた私は、無意識に確認するようにその名を呼んでいた。




「‥‥お母さん」



名を呼んだ後になって気づく。



母がこんな場所にいるはずがないって。



だって私は、母の居場所を知っていたから。



おばさんの家でたまたま知った母の住所。




〝時が経てば、いつかは私を受け入れてくれるかもしれない〟


〝引き離されたことで、もしかしたら私への愛情が芽生えたのかもしれない〟





そんな馬鹿みたいな期待を胸に抱いていた愚かな私は、その住所をメモに取り暗記するほどに見返していた。



口実さえあれば、いつでも会いに行こうと思っていた。



実際に私は、彼に支配されてから何度も母の元に行こうとしていたから。



虐げられる日々でただそれだけが生きる糧だったんだ。



しかし、あれほどまでに望んでやまなかった母との再会に、私は心揺さぶられることもなく、酷く冷めた心持ちだった。










「ーー何で、あんたがここに」




憎悪に満ちた目、嫌悪感をあらわにした声。



‥‥どうしてだろう。



こうして母と対面するのも、その目に映されることも初めてのはずなのに、そう思えない。








「ははっ、分かったわ。あんた、さてはあの男に捨てられたのね」


「‥‥」


「蛙の子は蛙。さすがに腐っても血が繋がってるだけはあるわね。全く、忌々しいったらありゃしない」


「‥‥」


「それで?捨てられた腹いせに私を笑いにきたの?」


「‥‥」


「あんた如きが幸せになろうなんてするからよ。ねえ、知ってる?あんたの父親と呼ばれる男は、有名な詐欺師だったのよ」


「‥‥」


「女を誑かし、金を巻き上げ頃合いを見て捨てる。そんな悪の権化みたいな男。それにまんまと引っかかった私は馬鹿な女かもしれない。けどね、確かにあの時まではあの男は私を愛してくれていたわ」


「‥‥」


「初めは偽物だった、けれどいつしか本物に変わっていたの。それなのにっーー」


「‥‥」


「あんたを授かったと知った男は、その日のうちに私を捨てた!!払いきれないだけの多大な借金を残し、私の持っていた物を全て奪って!!」


「‥‥」


「あんたさえいなければ!!あんたさえ生まれてこなければ!!私があの人から捨てられることなんてなかったのに!!」


「‥‥」


「私の失態、私の醜態、私の恥部、その象徴であるあんたを産みたくなんか無かったのに、あいつに全てを奪われた私には堕すだけのお金もなかった!!」


「‥‥」


「何よりも、あんなみたいな醜穢な存在を外部に知られるのが耐えられなかった!!だから産んでからも必死に存在を隠して自然と死ぬのを待っていたのに、あろうことか近所の奴らがあんたのことを嗅ぎつけて警察なんかに連絡しやがった!そのせいであんたに表立って死なれちゃ困るから、顔も見たくない存在すら認識したくないあんたの面倒をみざるを得なかった!!」


「‥‥」


「あんたに分かるの!?出来ることなら殺して、存在そのものを抹消したいほどに忌まわしい存在と共に生活して、借金を抱えながらも養うために働かなくちゃいけない私の気持ちが!!」


「‥‥」


「どうして産まれてきたのよ!!どうしてこの世に存在しているのよ!!何のために、一体誰のために存在しているのよ!!」


「‥‥」


「あんたなんて、あんたなんてっーー」









ーーそれは、夢の中での記憶と同じ言葉だった。






否、あれは夢なんかじゃない。



夢なんかじゃなくて、現実だった。



けれど幼い頃の私はその事実に耐えきれなくて、目を背け記憶を切り離した。






ーーああ、同じだ。



あの時と、何もかもが同じだ。




その姿も、その声も、その目つきも。




「死んでしまえばいい」


『死んでしまえばいい』





夢だと信じ込んだ過去の母と、現実の母、その姿が、その光景が混じり合いーー憎悪に染まった目が、私を射抜いた。





私の母。



ーーいや、〝その人〟は狂っている。






よく電話越しに怒鳴っていた。




初めは、縋るように。



『いつになったら帰ってくるの?』

『どうしたら私を愛してくるの?』

『あいつが死ねば、また私の元に戻ってくるの?』


初めは、縋るように。





『私を騙しやがって!!コケにしやがって!不幸にしやがって!』



やがて、怒鳴りつけながら。









その電話には、電話線は繋がっていなかった。


だけどその人は、無音の電話越しに怒鳴る。





いつからなのか、初めからなのかどうだか知らないけれど、この人は人としての何かが欠落しているんだと思う。



遠い遠い、もはや他人とも呼べるおばさんに私が預けられたのもそのせいだろう。









「ーー許さない」


「‥‥」


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!!」




女の手が伸びてきて、胸倉を掴み上げた。



やがて首へと回り、容赦ない力加減で締め上げられる。

  









「お前が、お前如きが、私を侮辱し、この街から追い出しやがった!」





この人は、何を言っているんだろう。









「あんな恐ろしい男に告げ口して、私を陥れようとした!!」





恐ろしい男?



それは誰?



誰のことを、言ってるの?








「寄ってたかって私を悪者にして、復讐でもするつもりだったの!?私のおかげで生まれたのに!!私のおかげでこうして存在しているっていうのに!!」


「‥‥何をっ」


「死ね、死ね死ね死ね死ね死ね!!今ここで死にやがれ!!」




勢いよく振り上げられた手。



避けようとはしなかった。



避けようとも思わなかった。



殴られる理由はないけれど、殴られない理由もなくて。



それでこの人の気が済むなら、好きにさせようとした。



だけど、その手が私に当たることはなかった。




強い力で何かに引き寄せると、温かく、それでいて懐かしい何かに包まれる。



解放されたことで、急激に入ってきた酸素にむせて涙が出た。



歪んだ視界の中で、女の手を掴み上げる何者かの手が映る。









「ーーお、お前はっ。‥‥い、いやっ」




恐怖に怯え、ガタガタと震え出す。



その目線は、私の背後に立つ人に向けられている。







「‥‥あ、あの男もいるの?どうせ近くにいるんでしょ?い、嫌よ。死にたくないっ、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないっーー」




その場にしゃがみ込んで、その身を守るようにして蹲る。



私に死ねと言いながら殺そうとまでした人は、死にたくないと子供のように泣き出した。



その光景を冷めた目で見ていた私は、やがて顔を上げると、思わぬ人物を前に目を見開いた。



急いできたのか息を切らしながら、女の手を血管が浮き出るほどに強く掴んだその人は、ここにはいるはずがない。




「‥‥無名」





その目は怒りに満ち溢れ、射抜くような鋭い眼光で母を睨みつけていた。



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