第36話





「ありがとう」




いつの間にか雨が降り出していたようだ。





「あなたなら、手伝ってくれると思っていたわ」




小夜さんと別れた時にはもう曇天の空になっていたから、降り出すのは時間の問題だったのだろう。




「でも、本当に良かったの?」





向かいに座る人を前にしながらも、ずっと窓の外を眺めていた。







「あの子は、絶対に許さないわよ」




ーー耳障りだ。



雨の音も、この人の声も。





「私には分かるの、だってあの子はーー」




いっそ、全部聞こえなくなればいいのに。



自分の世界から音を遮断するように目を閉じれば、何も聞こえなくなった。



これでいい、きっとこれで良かったのだと何度も心の中で言い聞かせる。



若は孤独な方だ。



側にいる俺が、誰よりもそれを知っている。



この組で、若が信頼しているのは俺だけだ。



そんな若が、初めて側に置いた女性。



害するまでに大きな執着心を向けた女性。



その女性を奪うような真似をした。



それもこれ以上はほどに最悪な形で。



これを、裏切りと呼ばずに何と呼ぶ。



俺への若の執着心は、憎しみへと変わるだろう。



彼女を害したように、俺を害するのかもしれない。



ーーでも、それでもいい。



あなたのためだなんて、絶対に思わない。



あなたのためにしたとは、口が裂けても言わない。



若は絶対に俺を許さないだろう。



そんなことは、この女から言われなくても分かっていた。



一度でも裏切った俺を、再び側に置くこと絶対にない。



それは若の性格を知っていれば容易に考えられることだった。



それほどのことを、俺はしたのだから。



小夜さん。



これは決して、あなたのためにしたことではない。



若のためですらない。



ただ、自分のためだけにしたことだ。



だから、他の誰でもなく俺だけを憎べばいい。



いつの間にか雨は止んでいた。



二つに並んだ足跡は、やがて一つになって屋敷の外へと続いていた。



どうやら、無事に彼は彼女を連れ出せたらしい。



それを見て、安心した。



安心して、ここから離れられるような気がした。



だからーー。



さようなら、俺の大切な人。




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