白昼夢
第37話
それは、白昼夢のような日々だった。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
「ご飯にしますか、それともお風呂にしますか?」
「なら、まずはご飯を頂こうかな」
「はい。すぐに準備します」
穏やかに過ぎていく時間。
「今日は肉じゃがか〜。楽しみだ」
何かに感情を揺さぶられることも、自分を見失いそうになることもない。
「今日も美味かった。いつもありがとうな、星宮」
私は今、きっと幸せなんだ。
銀先生に頭を撫でながら、そう自分に言い聞かせた。
銀先生のマンションに来て、もう2週間が経った。
遥か上に経つ高層マンション。
先生に連れて来られた時、違和感を感じた。
というのも、人が暮らしているというにはあまりにも生活感がなかったから。
そして、悟ってしまった。
ここが、本当は先生が暮らしている家ではないことを。
私のために一緒に暮らしてくれているのだと。
先生には本当に申し訳なくて、何かお返しをしないと気が済まないと言うと、それなら家事全般を引き受けて欲しいと頼まれた。
恩を返すには足りなすぎる。
それでも、少しでも役に立てるならと引き受けることにしたのだ。
先生は私の作る料理をいつも美味しいと言ってくれて、掃除や洗濯などをするとありがとう言ってくれる。
誰かに感謝されるというのは初めてで、気恥ずかしくもあるけれどそれ以上に嬉しかった。
こんな日々が続けばいい。
ここでなら私は、傷つくことも、捨てられることを恐れることもないから。
きっと、これで良いんだ。
ここにいることが、私にとって良いことだ。
だからずっと、このままーーこの場所で。
◇
「あら、帰ってきてたの?」
「ええ」
「まさか、戻ってくるとはね。何かに追われるように店を辞めて、この街から出て行ったのに」
「店に、忘れ物があったの」
「なら、またすぐに出て行くの?」
「なんでよ」
「‥‥え?」
「なんで私が、そんな逃げるような真似をしないといけないの」
「‥‥」
「私が一体何をしたっていうのよ。それなのに、どいつもこいつも私を悪者にしやがって!!」
「‥‥」
「許せない。許せないのよ、あいつが、あいつの存在が私を惨めにする」
「‥‥」
「存在自体が害悪だって言うのに、私の人生を台無しにしておいて、あいつだけ幸せになるなんておかしいでしょ?不条理でしょ?」
「‥‥」
「こんなの不公平じゃない!あんな醜穢な存在、絶望を味わいながら死ぬのが定めなのよ。そして、生まれたことを呪えばいい」
「‥‥」
「そうよ。そうに違いないわ。ははっ、あはははははははは!!!」
「‥‥狂ってるわ、あなたは」
◇
「星宮って、料理できたんだな」
「できるってほどではないですよ、普通です」
「そうか?俺は美味しいと思うぞ」
3回目のお替わりとなるカレーを食べながら、「何杯食べても美味いな」と感心するように頷いた。
「弁当とか持ってきてるのを見たことがなかったから、てっきり料理はしない主義だと」
「作らなかったというよりも、作る余裕がなかったんです」
いつも早朝まで働いていたから、家に帰ると気を失ったように寝ていたものだ。
「でも、いいですね。自分のために作る料理は面倒でしかなかったのに、誰かに美味しいと言ってもらえると、作ることが楽しくなります」
「俺は幸せ者だな。星宮の手料理を独り占めできるなんて」
「幸せ者って、大袈裟ですよ」
「そんなことはない。俺にとっては特別なことだから」
美味しそうにカレーを食べる先生の姿を見ながら、私は違う誰かの姿を思い浮かべていた。
誰かとご飯を食べることも、手料理を食べてもらうことも初めてのはずなのに、どうもそんなふうには感じられない。
ーーああ、そうか。
そうだった。
『美味かった』
作り置きしていたカレーを黙々と全て平らげると、ぶっきら棒にそう言った彼がいたんだった。
そんなことはすっかり忘れていたのに、どうして今になって思い出したのだろう。
最近はこういうことが多い。
こんなどうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。
今更思い出したところで、無意味でしかないのにーー。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます