第35話




部屋を出たその瞬間、力が抜けたようにその場に崩れ込んだ。



泥に塗れ、ずぶ濡れになった体。



叩きつけるように降り続ける雨は、徐々に体温を奪っていく。








‥‥一体、どこに行けばいいんだろう。



私には行く当ても、頼れる人もいないのに。







何の気力も湧かずに、ただ空を見上げた。



一刻も早くこの場所から立ち去らなければならないと分かっているのに、立ち上がるだけの力はもう残っていなかった。








不意に、視界が黒いもので覆われる。



まるで雨から守るように、差し出された傘。



一瞬、無名かと思った。



けれどそこには、想像もしていなかった人物が立っていた。








「‥‥銀、先生?」




雨の音が遠くに聞こえる。



悲しそうな表情で、私を見下ろす先生。



面識があるとは言っていたが、実際に組の敷地内で見たことは一度もなかった。








「どうして、ここに‥‥」




すると先生は困ったように笑う。











「俺の言ったことを、覚えているだろうか‥‥?」




遠慮がちで、控えめな尋ね方だった。





『耐えきれない苦しみにあった時、俺に星宮を助ける機会をくれないか?』




あの時と、同じように切なげで苦しそうな表情を浮かべて。









「‥‥でも、私には何も無いです」


「それでもいい」


「先生に助けてもらうだけの理由がありません」


「‥‥それでも、いいんだ」


「きっと、迷惑をかけてしまいます」


「‥‥迷惑だなんて、思わない」


「これ以上、先生に何かしてもらうのはーー」




いつの間にか、私と目線を合わせるようにして泥で汚れることすら厭わずに蹲み込んでいた先生が、私の頭へと手を乗せた。



そしていつものように優しく撫でてくれる。







「俺が、したいんだ」


「どうして‥‥ですか?」




そう尋ねると、いつかのように傷ついたような顔をする。



けれど先生がそんな顔をする理由は、今になっても分からなかった。












「‥‥それしか、出来ないからだ」



自嘲するように笑う先生を見ていると、胸が痛くなる。



私のせいでそんな顔をさせてしまったことに負い目を感じる。








「俺が星宮にしてやれることは、これだけだから」


「‥‥」


「こんなことしか、してやれないんだ」


「‥‥」


「あいつの言う通りだ。俺には何もできない」


「‥‥」


「誰よりも側で、ずっと見てきたはずなのに」


「‥‥」


「俺には、何もできなかった‥‥」


「‥‥先生」





独り言を漏らすようにして力なく喋り続ける先生は凄く苦しそうで、見ていられなかった。



「‥‥星宮は、どうしたいんだ?」


「わたし‥‥は‥‥」





そっと見上げれば、先生は優しい笑みを浮かべた。



その笑顔は私にとっての救いだった。



この世で、私に微笑みかけてくれるのは先生だけだったから。



学校でも家でもバイト先でも孤独だった私。



そんな私をいつも気にかけて話しかけてくれた。



勉強とバイトの両立が難しく、何ども挫けそうになったけれど、今の今までやってこれたのは紛れもなく先生のお陰だった。



どんなに辛くても、苦しくても、『頑張ったな』と先生が頭を撫でてくれるだけで報われるような気がしたんだ。



先生は私にとって、ずっとお父さんみたいな存在だった。



そんなに歳は離れていないと先生からは怒られてしまったけれど。



そんな先生が、いつもと変わらない眼差しで笑いかけてくれている。






私を取り巻く環境は、今では何もかもが変わってしまった。



元凶は全て私にあるけれど、淋しくないかと言われれば嘘になる。



それなのに先生だけは変わらない。



それどころか何もかもを失って途方に暮れる私の前に現れて、こうして救いの手を伸ばしてくれている。







「言ってくれ」


「‥‥」


「頼む」





懇願するように、冷えた身体を抱きしめられる。



その身体は震えていた。










「ーー俺に、星宮を救わせてほしい」




暗闇の中に灯る一つの光。



今となっては、私に温もりを与えてくれる、たった一つの存在となった。







いけないと分かっていても、



駄目だと分かっていても、



これはきっと先生を傷つけてしまう選択肢だとどこかで気付いていても、弱り切った私は藁にもすがる思いで、その手を取ってしまった。









「お願い、私を‥‥」






私はどうしようもないくらいの卑怯者だ。










「ここから、連れ出してっーー」





そして、どこまでも愚かだった。

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