想い

第30話






近頃、どうも体調が良くない。



ずっと寝てばかりいるせいで、元から無いに等しい体力が底をついているようだ。



今日は特に喘息の発作が長く続いている。



吸引器を握り締めて蹲るがいつまで経っても治らずに、気力までもを根こそぎ奪っていく。



かといって、寝ようにも咳が出るせいですぐに目が覚めてしまう。



生理的な涙が流れる。



苦しさの中で、私はずっと窓の外を見ていた。



小さなその窓からは、母屋付近が少しだけ見えるため、偶に時雨の姿を見ることができる。



週に1度、共に食事を取ること、朝には必ず顔を出すこと。



それが、この離れに住うための条件だったらしい。



この話を教えてくれたのは無名だ。



理由は知らないが、時雨が両親の話や組の話を私にしたことは一度もない。



話を聞く限りは普通に良い人そうだと思ったが、時雨はそうは思っていないようだ。



その辺りの話は、私が口を出すような事では無いので尋ねたことはないが、何故こんな離れに屋敷を作り、無名一人に護衛を任せて人の出入りを最小限にさせているのかは謎だった。



そんなことを考えていれば、いつの間にか時雨が母屋への道を歩いていた。



あれ以来、私を見る時雨の目が怖くて、こうして遠くからしか見ることが出来なくなってしまった。



ここから見る時雨の様子はいつも通りだった。



まるで血の通っていないロボットのように、無我夢中で私を抱く時雨とは違う。



ようやく落ち着いてきたと思えば、再び喘息の発作が始まった。



呼吸をする度にヒューヒューと音がする。



激しく咳き込んだ際に、持っていた吸引器を落としてしまった。



取ろうとベットの下へと手を伸ばしたすと、その拍子に足枷が絡まり落下すると、床に体が叩きつけられる。



その痛みに悶えながら、手を伸ばすが遠すぎて届かない。



呼吸困難になっていくと、視界が歪み意識を持つことが出来なくなっていく。



苦しさからか、涙が溢れた。



発作が出ると思い出してしまう。



母を待っていた時や、学校で発作が出て苦しむ私から吸引器を奪い笑っていた彼女たちを。



その記憶は、まるで闇の底へと突き落とすかのように私を蝕み、その度に消えてしまいたいと願うのだ。



時雨はもう出掛けてしまった後だろうか。



最近はここに来る回数も減ったから、組にいるからといって部屋に来るとは限らない。



こんな無様な姿を見られなくないから、来なくて逆に良かったかもしれない。



もう手を伸ばすだけの気力はない。



必死に這いつくばって吸引器を使ったところで、何か意味があるのだろうか。



私が生きようとするだけの理由も、そんな価値もないのに。



我慢することは慣れている。


耐えることは造作もない。



このままこの苦しみを受け入れれば、少しは楽になれるのだろうか。



私という存在から、解放されるのだろうか。






私はこの世界で、自分が一番嫌いだった。



無力で、無意味で、無価値な自分の存在が忌々しかった。



どれだけ普通にしようとしても、過去の経験が足を引っ張ってしまう。



まともに人と会話することすらできない。



大学に通う前に、私は普通になる努力をした。



身なりを整えて、出来るだけみんなと変わらないような振る舞いを身につけたつもりだった。



けれど、真似事は所詮真似事でしかない。



もう2年目になるというのに、同じゼミの人とまともに話した覚えがない。



今までと変わらずに、ずっと一人。



それが当たり前すぎて、何かを思うことはなかった。



そういえば、1年の時も時雨と同じゼミだったけど、一言たりとも会話したことはなかった。



だから私の存在なんて知らないだろうと思い込んでいたのに、初めて会ったあの日の口ぶりだと、まるで今までも認識していたようだった。



同じゼミだったし、名前くらい覚えてるのは当然か。





‥‥何を考えているんだろう私は。



そんなことを考えたところで、無意味でしかないのに。



死にそうだというのに、そんなどうでも良いことを考えている私は、本当に頭のおかしい異常者だと自嘲する。



私みたいな人間は、嫌われて当然だろう。



我ながら客観的に見ても、気持ち悪いと思う。



もしも生まれ変わって、自分の望むような人間になれるのなら、誰からも愛されて、人に囲まれて、無垢な笑顔を浮かべられるような可愛らしい女の子になってみたい。



夢でも幻でもいいから、一度くらいそんな幸せを味わってみたかった‥‥。



ふわりと、温かい何かに包まれる。



朦朧とした意識の中、吸引器を口に含まされると、反射的に息を吸い込んだ。



それを繰り返すと、急激に入ってきた酸素に何度も咳き込んでしまう。



吸引器が勝手に動くわけもなく、かといって私に動くだけの気力はなかった。



この部屋に入ってくるのは時雨と無名だけ。



しかし、今は無名はいない。



膝をついて私の体を引き寄せて、吸引器を握らせる誰か。



宥めるように、背中を上下する大きな手。



そして何より、鼻を掠める、心地が良くて安心するこの香りの持ち主は一人しかいないだろう。



過呼吸になりながらも、その体にしがみ付いて息を整えようとする。



ずっと触れたくて、けれど鎖が邪魔をして触れることができなかった。



苦しみではない涙が頬を伝う。



発作が収まっても、その熱が離れていくことはなかった。



出来ることなら、

もし叶うのならば、

ずっとこうしていたいと思う。



何のしがらみもなく、ただこの温もりだけを感じていられればどれだけ良いだろう。



これは夢だろうか、それとも現実だろうか。




どちらでもいい。



どちらでも構わない。





この温もりを再び感じることができたのだから、これ以上に望むことなんてない。









ーーねえ、時雨。



いつか、あなたと添い遂げる人は、きっと笑顔の似合う素敵な人だろう。



花が咲くように笑う、愛らしくて心の綺麗な人だろう。



幸せな家庭を築いて、笑顔の絶えない毎日を過ごすんだろう。



その時にはもう、私はあなたの側にはいない。



穢れた異分子の私のことなんて、綺麗さっぱりに忘れてしまっているだろう。







捨てられるその日まで、

必要とされなくなるその日まで、

鎖を繋ぐほどに、大きな執着心が薄れるその時まで、一体どれくらいの時間が残っているんだろう‥‥。







‥‥でも、きっとそう遠くない未来だ。







時計の針が時を刻むように、その日は確かに近づいている。









ーーその日、時雨の横を歩くその人は、花が咲くように、明るくて無垢な笑顔を浮かべていた。





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