第29話
◇
一人取り残された部屋の冷たい布団の中で、声を押し殺して泣いた。
その理由が、乱暴に抱かれたことなのか、それとも最低限の配慮すらされずにピルを飲まされたことなのか、電話が鳴るなるとまるで何もなかったようにすぐに出て行ってしまったことなのか、定かではない。
そのどれもが原因で、そのどれもが違う気がする。
自分に泣く資格が無いことなんて分かってる。
この状況を作り出したのが私で、時雨をあんなふうにしたのも私だってちゃんと分かってる。
けれど、それを理解しながらも張り裂けそうな胸の痛みが消えることなく、増していく一方で泣かずにはいられなかった。
しわくちゃになるほどに、シーツを握り締めた。
臓器でも外部に突き出そうなほどに痛い胸を抑える。
鈍い痛みに襲われる体。
船酔いするようにガンガンと痛む頭を抱えるように体を丸めると、自分で自分の体を抱きしめた。
この胸の痛みの正体も、時雨が最後に一瞬だけ見せた苦しそうな顔の理由も、何一つとして分からない。
けれど、一つ分かることがあった。
それはーー。
私と時雨の間に出来た大きな溝が埋まることは無いということだ。
それだけは、確かだった。
◇
廃人にでもなった気分だ。
足枷は、部屋の中を歩き回れる程度の長さはあるが、到底動く気にはなれなかった。
精神的にも、肉体的にも疲れ切っている。
時雨は部屋に来るなり、気を失うまで私を抱く。
寝ていようが何していようが、強制的にベットに押さえつけられて抱き潰される。
最後に会話という会話をしたのがいつだったかも思い出せない。
‥‥今の私は、ただの性玩具でしかない。
「‥‥無名」
縋るように名前を呼んだ。
「無名っーー」
私のせいで、長期間の仕事を与えられた無名を。
ふらふらと立ち上がると、おぼつかない足取りで無名の部屋を開けた。
当然ではあるが、そこには無名の姿はない。
‥‥独りだ。
独りぼっちだ。
私を物としか見ていない時雨。
光の入らない部屋に閉じ込められている現状。
これではまるで、あの時とーー。
瞬時にフラッシュバックした、かつての記憶。
まずい、そう思った時にはもう遅かった。
「出して!!ここから出してぇっ!!」
悲鳴を上げるように叫んだ。
「お願いっ!!早く出して!!」
正気を失った私の意識は、もうここには無かった。
「嫌っ、嫌だ!」
意識が過去に囚われる。
「暗いの!!狭いの!!苦しいの!!怖いの!!」
狂ったように無我夢中で扉を叩いた。
「もう嫌なの!!
ーークローゼットの中はっ!!」
やがて、大きな音を立てた開いた扉。
けれど、その時にはもう意識を手放していた。
◇
目が覚めた時、私は何故か無名の部屋にいた。
敷布団に横になっていた私を、傍にいた中山先生が悲しそうに見つめる。
「大丈夫かい?」
眉を下げて、心配そうに私の顔を覗き込む。
何度もお世話になった先生は、とても悲しそうな目をしていた。
「‥‥体は、問題ないんです」
「それはちゃんと分かっているよ」
「本当に大したことないんです。私がおかしいだけなので」
「‥‥小夜さん」
「パニック障害、みたいなものです。小学校に通う前、私はずっと鍵の付いたクローゼットの中に閉じ込められていました。断片的に覚えているのは、息苦しかったことと、暗闇が怖かったことと、世界に一人取り残されたようで叫びたくなるような孤独感に襲われていたこと」
「‥‥」
「同情されたくて言っているわけではありません。ただ、偶に同じような状況になるとその時のことを思い出して、叫び出したり暴れ出したりすることがあるんです」
「‥‥」
「だから、体に異常があるわけではありません。ごめんなさい、こんなことで来ていただいて」
「‥‥こんなこと、なんかじゃないよ」
「分かっています。私が精神異常者だって。ちゃんと自覚があります。周囲からもよく言われていましたから」
黙り込んでしまった先生に、大丈夫だという意味も込めて笑いかけた。
けれど、余計に表情が暗くなってしまった。
どうやら、失敗してしまったらしい。
『いい加減にしてよ!』
おばさんはよく、電話越しに怒鳴っていた。
私の前では普通を装っていたが、本当は私といることがストレスで仕方がなかったんだ。
『また今日、学校で問題を起こしたわ!ただでさえ喘息持ちで迷惑してるのに、精神面にも問題があるのよあの子は!』
虐めの一環で掃除用具入れに閉じ込められたり、トイレの中に閉じ込められたりしたことがあった。
その度に発作を起こしてしまい、随分と色んな人に迷惑をかけてしまった。
『虐められてんのか何なのか知らないけど、いつも傷だらけで帰ってくるのよ!これじゃあまるで私が虐待しているみたいじゃない!』
おばさんは私に気を遣ってか、いつも寝たのを見計らって電話していたんだろうけど、狭くて壁の薄い部屋だから全てが丸聞こえだった。
『あんたのところで面倒をみなさいよ!私に押し付けるのはいい加減にして!これだから虐待されたような子供を引き取るのは嫌だったのよ!精神科に行かせたところで何の改善も見られないし、あんな頭のおかしい子といたらこっちまで変になるわ!』
おばさんを責めたことは、一度もなかった。
『虐待児だけじゃ飽き足らず精神異常者なんて御免なのよ!いっそ施設にでも押し付けたいわよ!でもそうしたら、まるで私が悪者みたいじゃない!』
だって、おばさんの言い分は全て事実だったから。
「‥‥貴方は何も悪くない。今だってそうだ。枷なんて付けられて部屋に監禁されなければ、発症することはなかった」
「時雨は何も悪くないです。悪いのはわたしです。いい加減、克服しなくてはならないのに、いつまで経っても引きずってしまっています」
「当たり前だよ、そんなの。貴方が一体、どれだけ酷い事をされてきたのか」
「こうなることを望んだのは私です。だから、どうかそんな顔をしないでください。私は、大丈夫ですから」
「‥‥大丈夫じゃない人ほど、繰り返し大丈夫だって言うんだよ」
「本当に、大丈夫なんです。前にも同じような状況で発作が出た事があります。けれど、その時だけで、今まで一度も出ませんでした」
ここに連れてこられた当初に発作してからというもの、必ず時雨か無名のどちらかが側にいるようになった。
長時間、誰もいない場所に一人で閉じ込められる状況にならないでおけばいいだけ。
今はいないけれど、必ず無名が戻ってくる。
そう自分に言い聞かせれば、きっと大丈夫だ。
薬を打ってもらったお陰か、深く眠りにつくことができた私が次に目が覚めた時には、時雨の部屋のベットにいた。
誰が運んだのかは知らないが、ここにいるということは、まだ時雨の執着心が無くなったわけではないという証拠になる。
それに窓がある、小さな窓が。
気を失う前にはなかったそれ。
僅かにだけど光が入り、風を感じることもできる。
それだけで十分だ。
ーーだから。
『貴方の母親と、今のあの方。私からすれば、どちらも同じように思える』
先生の言い分は、間違ってる。
確かに、こうして監禁されている状況は似ているかもしれないけれど、決定的な違いがある。
時雨はお母さんのように、私の存在を否定しない。
母の鎖が、私を否定するためのものだとしたら、時雨の鎖は執着心を表している。
この鎖がある限り、時雨は私を捨てない。
‥‥だから、大丈夫。
大丈夫よ、小夜。
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