施錠
第28話
◇
「‥‥もう、限界です」
薬品の匂いが鼻につく。
ここに来るのは、一体何度目だろう。
もう二度と、この場所で彼女を見たくないのにーー。
そんな気持ちとは裏腹に、これで3度目だという事実に目を背けたくなる。
1度は目は俺を庇おうとして、2度目は階段から突き落とされて、そして3度目は‥‥。
未遂だったのが不幸中の幸いと言っていいのか頭を抱えるほどに、彼女は酷い有様だった。
「限界?」
重々しく口を開いた俺に、医者である男が眉間に皺を寄せた。
「はい。これ以上はかえって彼女を危険に晒すことになります。それはあなたも同じです」
「医者として、こんな状態の患者を見過ごすことは出来ません」
「『傷はもう塞がったのだろ?なら今すぐ俺の元に返せ』とのことです」
「‥‥返せって、この子は物じゃないんですよ。ようやく症状が治まったのに、あの方の元に引き渡すなど」
病院の無機質なベットで、死んだように眠る小夜さん。
ここに来た時は、本当に危険な状態だった。
無理に動いたせいで、治療したはずの頭の傷が開いて出血していたし、内臓が傷ついていて手術までした。
全身は男達に乱暴をされて痣や切り傷だらけ。
元々体の弱い小夜さんは、毎日高熱に魘され嘔吐していた。
爪が皮膚に食い込むほどに握り締められたその手に触れると、縋るように手を繋がれた。
弱り切ったその姿からは想像ができないほどに力が込められている。
その力加減が彼女の苦痛を何よりも物語っていて、胸が苦しかった。
確かに傷は塞がっている。
熱も下がった。顔色が死人のように青白いくらいで目立って悪いところはない。
だが、体力が致命的に足りていない。
最近になってようやく起き上がれるようになったくらいで、健康とは言い難かった。
元より彼女は不健康ではあったが、それに加えて命を脅かすほどの重症まで負ったんだ。心配しないという方が無理だった。
「引き伸ばせて精々3日です。その3日で、出来るだけ元の状態に戻してください」
「‥‥非情ですね」
「私は若のモノです。若の命令に背くことは出来ません。例えそれが小夜さんが対象であったとしても」
軽蔑するような目で俺を見ると、諦めたような顔をして男は部屋を後にした。
「守りたいですよ」
「‥‥」
「俺だって、小夜さんを守りたい」
冷たくて、華奢で、細いその手をそっと握る。
この状態の小夜さんを、若の元に戻すのは危険だ。
今の若では何をするか分かったものではない。
側に居られればせめて、心の支えくらいにはなれるかもしれないが、罰として長期間の仕事を与えられている。
「ごめんなさい」
若を裏切ることは出来ない。
それは、俺という存在を否定することと同じだ。
「何もしてあげられなくて、ごめんなさい」
もう元に戻ることは出来ないのだろうか。
少なくとも、最近の2人は違う関係性になろうとしていたように見えた。
それなのに今は、悪化しているように思える。
‥‥それも、救いようのない最悪な形で。
まだ完治していないと訴える俺に、『生きていさえいればどうでもいい』と言い放った非情さに耳を疑った。
「‥‥俺は、どうしたらいい?」
「‥‥」
眠っている小夜さんに話しかけても無意味だが、言葉に出さずにはいられなかった。
「一体、どうしたらっーー」
小夜さんの本質が変わることはない。
自分の経験上、そう断言出来てしまう。
確かに俺は、小夜さんの前では人間になれる。
自分の意思を表に出すこともできる。
しかし、今だ自己犠牲払うことは出来ず常に付き纏う。
彼女の前では人間のように振る舞えても、他人の前では呪縛のようにあの笑顔を浮かべて、機械的な態度を取ってしまう。
異常なまでの自己犠牲。
自分を物ともしない行動。
また、繰り返すのだろうか。
同じようなことがあれば、また簡単に命を捨てようとするのだろうか。
その度に反発して、若の小夜さんに対する、執着心の強さ故の憎悪にも似た感情が肥大化していくのだろうか。
‥‥それでは、悪化する一方ではないか。
このままでは、いずれ憎悪に染まった若が小夜さんに害をなしてしまう。
ーー無力だ。
今の俺は、救いようのないくらいに無力だった。
無気力感に襲われ、冷たい床に膝をつく。
所詮は人間の真似事をしているだけの俺では、誰かを救うことはおろか、変えることなんて
ーー無理だ。
◇
長いこと、病院の無機質な白い天井を見上げていた。
かつてないほどの苦痛のせいで記憶が曖昧だけど、夢現に無名に面倒をみてもらっていたことは覚えている。
ぼうっと見慣れた天井を眺める。
久しぶりの時雨の部屋。
けれど、いつものような安心感はない。
一見変わらないように思える時雨の部屋だが、よく見ると違和感がある。
薄暗いと思えば、カーテンが隙間なく閉められていた。
風が通るように少しだけ開けられていた窓も同様だ。
そして、体を動かせば聞き覚えのある金属音に、慣れた右足の違和感。
確認しなくても、それが何だか分かってしまう。
初めて連れてこられた時も付けられたそれとは比べ物にならないくらいに、頑丈なもの。
それこそ、足を切り落としでもしない限り外すことは不可能だ。
深く息を吐く。
別に逃げたりしないのに‥‥。
けれど、今までの自分の行動を振り返れば仕方のないことかもしれない。
ベットと右足を繋ぐ足枷。
その鎖が、時雨と私の現状を表しているようで重く心にのしかかった。
「気分はどうだ?」
ベットの上で膝を抱える私を、長身の男が見下ろす。
静寂に包まれていた部屋が、一気に張りつめた空気に変わる。
私は、見慣れたその男の声色に侮蔑が含まれていることにすぐに気づいた。
言葉だけなら気遣っていると勘違いするかもしれないが、この男は別の意図を持って口にした。
「何だ、不満なのか?」
「‥‥」
「得意のだんまりか。それとも、言葉すら捨てたのか」
嘲笑を浮かべているその顔を見たくはなくて、膝へと顔を埋めた。
ベットの軋む音、近づく気配。
強い力で腕を掴まれると、強制的に顔を上げらされた。
「偽善の次は被害者気取りか。自分の立場が分かっているのか?自分から首を突っ込んでその身を差し出しておいて、その態度は何だ」
ーーああ、だから見たくなかったのに。
「鳥籠の鳥にでもなった気か?自分から飛び込んできておいて、錠を掛けた俺を恨むのか」
冷め切った声で、侮蔑の眼差しを間近で受けた途端に、体から血の気が引いていく。
「意思のないやつに自我は必要ない」
感情が読み取れないほど黒に染まった瞳にとらわれて震え出した体は、恐怖と似て異なるものを感じていた。
「自滅へと向かうだけの手も足も要らない」
鎖に触れると、そのまま繋がれた足へと指先を滑らせる。
掴まれた手も、足に触れる指も、ゾッとするほどに冷たくて、鳥肌が立つ。
「いっそ、二度と馬鹿な真似が出来ないように手足をへし折ってやろうか?」
まるで、刃物にでも触れられているようだ。
少しでも力を入れれば、言葉通りに壊してしまいそうなほどに危うい。
「そうすれば、必然的にお前はここにいるしか選択肢が無くなる。他に行き場もなく、頼る相手もいない。かといって、自分だけでは身動き1つとれない」
時雨がどこまで本気で言ってるのかは分からない。
‥‥いや、時雨は嘘は吐かない。
まだ実現するかは決めていないだけで、そうするだけの可能性は十分にあるのだろう。
そんな狂気に歪んだ時雨の提案に対して、不思議と恐怖はなかった。
〝時雨がそれをもし実行したなら、私はずっとここに居られるのだろうか?
思考すら捨て去り、都合のいい人形に成り果てれば、私への執着心が冷めないでいてくれるのだろうか?
我ながら、頭のおかしい、救いようのないやつだと思う。
だけど、そんな狂気に縋りたいほどに孤独を恐れていた。
もう自分で自分を騙すこともできない。
気付かないふりも、知らないふりもできない。
私は怖い。孤独が怖い。
慣れないようにしてきた。
気を許さないようにとしてきた。
‥‥でも、もう無理だ。
誰とも関わらない日々。
バイトと勉強を、命を削りながら必死にこなすだけの日々。
静まり返った部屋で、1人静かに暮らす家。
寂しい。
虚しい。
悲しい。
そんな日々はもう耐えられないーー。
「‥‥好きにして」
自分でも驚くくらいに低い声が出た。
掴まれた腕により一層力が込められる。
これ以上私を蔑む時雨を見ていたくなくて、目線を外す。
「お前はただ、俺の元にいればいい」
「‥‥」
「要らないんだろ?だから俺が貰ってやると言ってる。俺の元でただ息をするだけだ。一生な。それが、お前の存在価値ってやつなんだよ」
「‥‥」
「いい加減、分かれよ。いくら抗ったところで自滅するだけ人生だ。だったら思考なんて捨てちまえ。そんなもの、お前には必要ないだろ」
「‥‥」
「だから、受け入れろーー俺を」
ベットに縫い付けられた体。
私に覆い被さる時雨。
‥‥何もかもが、どうでもいいと思った。
諦めにも似た感情が浮かぶ。
そうよ。
どうせ誰にも必要とされないのだから。
私でさえも、私を必要としないのだから、いっそのこと全てを捨てて時雨だけのものになってしまえばいい。
時雨のためだけに存在する、ただ息をするだけの人形に。
そうすれば、きっと楽になれる。
何のしがらみもなく、ただ求められるだけだ。
それでいい。
それでいいんだ。
そう、自分自身を納得させようとした。
ーーけれど。
「嫌っーー」
思わず出てしまった拒絶の言葉と一緒に、反射的に時雨の体を押し返していた。
途端に空気が凍りつく。
一瞬だけ、動きを止めた時雨。
そして、感情のない瞳で私を見据えると、口角を上げる。
「嫌、だと?」
「ち、違っーー」
嫌だったわけではない。
決して時雨を拒否したわけでは無かった。
ただ、あの男達に乱暴された時のことがフラッシュバックしただけ。
だけど、狂気の光をその目に宿した時雨には、もう何を言っても無駄だと悟った。
「初めて会ったばかりの、それも毛嫌いしていた俺に易々と体を差し出しておいて、今更嫌になったか?」
「違うのっ」
「何が違うんだよ。あの日、出会ったのが俺ではなく、他の誰であったとしても平気でお前は抱かれたんだろ」
「時雨、話をっーー」
「何しろ、自分を犯そうとした奴らを庇ったくらいだもんなぁ?」
誰でもよくなんかないっ。
だって、あの男達に触られただけで吐き気を催すほどに嫌だった。
どれだけ暴力を振るわれても抵抗をやめられないくらに、嫌で嫌で仕方なかった。
ーーでも、時雨は違った。
初めて会ったあの日、拒絶どころか、私は時雨に対して自分でも驚くほどに警戒心の欠片も抱かなかった。
『警戒心がなさ過ぎるんじゃないか?』
あの時雨に、そう言わせるほどに。
「それだというのに、その安い体すら抱かせたくないくらいに、俺が嫌なのかよ」
「嫌なんかじゃないっ」
「戯言を。取り繕ったところで、根っこの部分では嫌がってんだよ。だからこそ、反射的に拒絶が出たんだろ」
「そんなことないっ」
「黙れ。そうすれば全ての辻褄が合うんだよ。お前が俺に深入りしようとしないことも、少し近付いたと思えば、まるで何も無かったように離れていくことも、何もかもがな」
「嫌だなんて思わない!だって私は、時雨のことがっーー」
突発的に声を上げたが、続く言葉が浮かばずに口を閉ざしてしまう。
‥‥時雨のことを、何?
私は今、何を言おうとしたの?
私にとっての時雨って、一体何なの?
分からない。
分からないよっーー。
胸が張り裂けそうなほどに痛いのに。
ありもしない心が、悲鳴を上げるかのように苦しいのに。
この苦痛を、言葉にすることが出来ない。
私の時雨に対する〝何か〟が、喉元まで出かかっているというのにーー。
それでも、必死に言葉にしようとした。
時雨が完全に心を閉ざしてしまう前に、伝えなければと思った。
それなのに、どれだけ言葉にしようと息を吸い込んでも、割れるように痛い頭で思考を働かせても、私がそれを言葉にすることは出来なかった。
脱力するように、体の力を抜いた。
虚無感に襲われながら、意味もわからない涙が頬を伝う。
「‥‥もういい」
酷く冷たい声だった。
「もういいよ、お前」
氷のように冷たい声で、吐き捨てるようにそう漏らした。
「お前に何かを求めるのは、無駄だと思い知った」
生まれつつあった何が、失われていく。
「求めたところで、残るのは虚しさだけだ」
満たされていた何かが、溢れ落ちるようにして流れていく。
「こんな感情になるのは、二度と御免だ」
始まりかけていた何かが、
繋がりかけていた何かが、
跡形もなく消え去り、
終わりを告げたーー。
それから時雨は、玩具でも扱うように私を抱いた。
そこに温かさなんて微塵もない。
気が狂いそうになるほどの快楽もない。
体と体が合わさるだけの、それ以上もそれ以下もない行為。
これ以上ないほどに、荒々しい抱き方だった。
抱く以外に私に価値がないことを教え込ませるような、酷く残酷な行為。
私を抱いてるのは本当に時雨なのか。
本当に、血の通った人間に抱かれているのか。
そんな馬鹿みたいな疑問すら浮かぶほどに、一心不乱に揺さぶるだけの時雨から人間味が感じられなかった。
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