第27話






全身を刃物で抉られたような痛みに目を覚ました私の視界に入ってきたのは、見覚えのある天井だった。



頭が割れるように痛い。



少し体を動かしただけで、突き刺すような痛みが走る。



尋常じゃないくらいに汗をかいていて、布団までもが濡れていた。






「起きましたか」




近くに控えていた無名。



だけど私は、その顔を見ることができなかった。



合わせる顔がない。



どんな顔をしていいのか分からない。






呆れているだろう。


軽蔑しているだろう。


もう付き合いきれないと思っているだろう。



当然だと思う。



それだけの事をしたのだから‥‥。










「‥‥あの」




一つだけ気になることがある。








「時雨はーー」




聞きたくない。


知りたくない。



そう思うけれど、頭をよぎる悪い予感から聞かずにはいられなかった。







「‥‥若は」



言うのを躊躇っているのか、言葉を途切らせた無名から大体のことは悟ってしまった。






「‥‥あの人達は、どうなったの?」




尋ねた声は、情け無くも震えていた。



布団を握り締める手に力が加わる。






「それを知って、どうなるんですか」


「‥‥」


「それを知って、あなたはどうするつもりですか」


「‥‥」


「その問いに答えてくれないようでしたら、教えるつもりはありません」




覚悟なんて生半可に決められやしない。



私の予想通りならば、彼女達はもうーー。








遠くから微かに聞こえた音。



何かを殴るような音にはっとする。



まさかーー。








「小夜さん」



身を起こした私を、無名が引き止める。






「どこに行くつもりですか」


「‥‥」


「何をするつもりですか」


「‥‥」


「あなたに出来ることは何もありません」


「‥‥」


「死にかけたんですよ?分かっているんですか。今もまだ安心できる状態じゃない。それなのにあなたは一体、何をしようとしているのですか」


「‥‥」


「今の若は、あなたの知っている若ではない」


「‥‥」


「それは、例えあなたが相手でも変わりません」


「‥‥」


「それでも、行くつもりですか?」


「‥‥私は」


「思い上がらないでください」




咎めるような声は、聞いたことがないくらいに冷たかった。






「ここまで来たら、もうあなた一人の問題ではない。自分なら解決できるなんて、甘い考えは捨ててください」


「無名、私はーー」




なんて、愚かな女だろう。



自分でもそう思うのだから、他人からみればどれだけ救いようのないやつに映るのだろう。








「したたかで、穢らわしい女なの」


「‥‥何を」


「だから、私がどうなろうと何をしようと。

‥‥馬鹿な女だと、見放して」






こんな状況でも微笑んだ私に、目を見開いてた無名。





最後に、「ごめんなさい」と言い残すと、止められる前に部屋から出た。



引き止められる声がした気がしたけれど、決して振り向くことはしなかった。



私の本質は、幼い頃から歪められていた。



黒くて醜い何かは、ずっと胸の内に秘められていた。



虐められたのは、周囲がそれを察したからかも知れない。







普通になんてなれない。



なれるわけもない。




普通?正気?

そんなものどうやったらなれるの?



どうしたら手に入れられるの?



誰が私にそ教えてくれるの?



私の知っている普通が普通でないなら、私の根本にあるものが異常なら、どうやったらそれを正せるの?



今までの私を全て否定すればいいの?



そうしたら私には何が残るの?



器だけの残骸?



私を形付けていたただの肉体?



‥‥馬鹿らしい。



こんなの、ただの屍だ。



死んだほうがマシだ。







生まれてから物心がつくまで、ずっと薄暗い家に閉じ込められていた。



抱きしめられた記憶も、名前を呼ばれた記憶も、母親という存在を実感した記憶もない。



同じ家にいるのに、唯一の家族なのに、私の小さな世界にいるただ一人の存在なのに、母は私の全てを否定する。



だけど私は、それが当たり前だと思って育ったから。



それが普通だと思っていたからこそ、絶望はしなくて済んでいた。



それなのに、外の世界に出ると非情な現実を突きつけられた。



多くの人間が、小さな部屋に集まって騒いでいる。



何を話しているのか、何でそんなに表情を変化させるのか分からない。



そんな恐ろしいところに一人で取り残された絶望感は、その行為を善意だと信じて疑わなかった大人達には到底理解できないだろう。



生まれてから今まで誰とも話していなかった人間が、他の子達と変わらずに話せると思う?その輪に入っても問題ないと思う?




そんなわけがない。



その子達は、すぐに私が異分子だと勘付くと寄ってたかって拒絶し迫害した。



助けてくれる人なんていない。



頼れる人相手もいない。



それでも耐えた。



これが普通なんだと、自分で自分を騙し続けた。



だけど、母の元から引き離した大人達は私が普通ではないと、異常だと口を揃えて言うんだ。



精神科に通う私を、おばさんは世間体が悪い。そんな異常者と一緒に居たくないと言う。



大学に通うと決めたのも、勉強がしたかったとか、いい企業に就職したいからとか、そんな理由ではない。



高校ですら奨学金を借りて必死にバイトをしてやり過ごしていたんだ。



それでも、大学に通えば何かが変わるなんて心の奥底で馬鹿げた期待があったんだ。



地元を離れて遠くに行けば、私を受け入れてくれる人が現れるような気がした。



普通の生活を送れるような気がした。



けれど結局、それは全て願望に過ぎなかった。








このザマが何よりの証拠だ。



今からしようとしていることも、これまでしてきたことも、〝普通〟の人間がすることか?






狂っている。



根本から捻じ曲がった私は、修復不可能なほどに壊れてしまっている。



こんなの、救いようがない。



見慣れた庭の中心に、原型を留めていない人が数人倒れている。



辛うじて生きはあるのか、時折血を吐いたり嘔吐したりしていた。



痛々しいを通り越し、ただ壊されるだけの哀れな玩具と成り果てた人達。









「‥‥時雨」



息をするだけでもやっとな女を殴り続ける男は時雨だった。



砂や血、吐瀉物に汚れた長い髪から、辛うじて女だと言うことだけを見てとれる千穂の顔は、ぐちゃぐちゃで顔の原型をとどめていない。



目を逸らすことなんてしない。



そんな資格はない。



ーー小夜。



しっかりとその目で見るのよ、あなたがこの状況を作り出した張本人なのだから。











報いを受けるべきなのは、私だ。




「時雨」


「‥‥」


「時雨っ」


「‥‥」


「時雨っ!」




内臓が傷ついているのか、叫んだ拍子に嘔吐感に襲われて血を吐き出した。



でも、そんなことに構っている余裕なんてなくて、腕で拭うと前へと進む。








「お願い、やめて」


「‥‥」


「もうやめて!」


「‥‥」


「やめてよ!!」



痛覚すら残ってるのか怪しい千穂を殴り続けるその腕を掴む。



しかし邪魔だと言わんばかりに振り払われた。



いや、振り払われたなんて生易しいものではない。



薙ぎ払われた、とでも言うべきか。



その拍子に地面に叩きつけられ、傷口が開いたのか血が滴り落ちた。



こんなことで引き下がるわけにはいかない。



私には、止めらる力はないかもしれない。



だけど、時雨を止めようとする命知らずはの他にはいないでしょう?



なら、私がしなければ。



これは千穂のためでも、穢らわしい男達のためでもない。



ただ、私のためだから。







「お願いだからもうやめてよ!」


「‥‥」


「こんなことをして何になるの!?」


「‥‥」


「あなたは一体何を得ると言うのよ!?」


「‥‥」


「怒るなら私を怒ってよ!殴りたいなら私を殴ればいい!!」





何度も突き放され、その度に血を吐いた。



それでも、必死にその腕にしがみ付いて離さなかった。







「小夜さんっ、もうやめてください!死ぬつもりですか!?」


「離して無名!お願いだから止めないで!」




追いかけてきた無名が、私を時雨からは引き離そうとする。



でも、ここで諦めるつもりはなかった。








「ーー若っ!もうおやめ下さい!小夜さんが死んでしまいます!」




無名が叫んだ瞬間だった。




私の言葉には微塵も反応を示さなかった時雨が、ぴたりと動きを止めたのは。







「貴様」




地鳴りのように低く、それでいて刃物のような鋭さを持つその声は、聞くだけで戦慄するほどに禍々しく恐ろしかった。







「逆らう気か?」




前振りもなく、無名の体は遠くへと殴り飛ばされた。



力無く倒れた体を見た途端、言い表せないほどの罪悪感に襲われた。



‥‥時雨が無名に手をあげるなんて、絶対にあり得ないことだ。



容赦のない力加減は、計り知れないほどの時雨の怒りを表している。







「おい」




自分へと向けられた声に反応するよりも早く、急激な圧迫感を感じ、息苦しさに襲われた。








「何のつもりだ」




‥‥首を、絞められている。






「何故庇う」


「し‥ぐれっ」


「お前を殺そうとした奴らだ」


「わかっ‥‥て」


「分かってない」


「な‥に‥‥をっ」


「ーーお前は、何1つ分かっていない!!」







吐き捨てるように叫んだその声は、怒りに染まっているようで、どこか悲痛さも含んでいた。




「身勝手もいい加減にしろ!!自己犠牲も大概にしろ!!」




次第に力が強くなっていき、言葉を発することすらできなくなる。








「お前を殺そうとしたやつだぞ!!そんな死にかけの体で、命を懸けてまで救うべきものか!?」




こんなにも感情を露わにする時雨を目の当たりにするのは、初めてだった。







「そんなに死にたいのか!!そんなに安い命なのか!!こんなゴミ共にくれてやるほどに取るに足らないものなのか!!」




不思議と恐怖はなかった。



ただ、刃物で抉られたような痛みが胸に走る。







「俺の忠告も、無名の誓いも、簡単に放り投げてしまうほどにどうでもいいものか!?」




‥‥どうして。







「お前にとって、俺や無名は何だ!!ただ側にいるだけの人形か!?感情などあってない都合のいいものか!?」




どうして、泣いてるように見えるのだろう。







「好意も感情も汲み取ろうともしないくらいに些細なものか!?気にも留めないほどに小さなものか!?」





‥‥時雨の心が、泣いている。








「分かっていないからそんなことができるんだ!分かってないからそんなことを言えるんだ!」





胸が張り裂けそうなほどに痛い。





「お前が簡単に命を捨てるのなら、自分を無下にして殺すのなら、俺はお前に、一体何をしたらいいんだよ!!」



分かってあげたい。



時雨を理解したい。



そう思うのに、いくら考えても、どうしてそんなに辛そうな顔をしているのか、何が時雨をそこまで言わせるのか分からなかった。



私が普通だったら、異常じゃなかったら、理解することができたのだろうか。



ちゃんと時雨と向き合えれば、こんなことにもならなかったのだろうか。






首に回された腕の力が抜けると、地面に力無く崩れ落ちる。



急激に入ってきた酸素に、何度も咳き込み、その息苦しさに涙が滲む。



時雨はもう私なんて見ていなかった。



今までの出来事なんてなかったかのように、再び女に手を伸ばそうとする。








「お願い‥‥します」




羞恥心も自尊心も、とうの昔に捨てた私は、躊躇うことなくその足にしがみ付いて必死に止める。








「殺さないでください」




時雨には分からないだろう。



否、他の誰にも分かりはしない。



時雨が彼女達を殺せば、私は生きる資格すら失われる。



存在する価値もない私のせいで、誰かの命を奪ってしまうのなら。時雨を巻き込んでしまっただけでなく手を汚させてしまうのならば、私はとてもじゃないが生きていられない。




申し訳なくて、罪深くて、耐えきれない‥‥。











私は誰かを不幸にするために生まれてきたの?



私は誰かの命を奪うために生まれてきたの?









‥‥なんてしたたかで、穢らわしいのだろう。



私は正直なところ、彼女達のことなんてどうでも良かった。



対象が誰でも変わらなかった。



ただ、私のせいで誰かに人生に影響を及ぼすのが怖いだけ。



何もない、空っぽの私に、背負いきれないほどの罪だけが残るのが恐ろしいだけ。







「これはお前だけの問題ではない。一之瀬組の威厳にも関わる。ここでこいつらを見逃せば同じような奴らが再び現れて、同じようなことをする。俺はそんなの御免だ」


「‥‥」


「それとも、お前が何か代償を払うのか?」


「‥‥代償?」




私の前にしゃがみ込んだ時雨は、嘲笑を浮かべて軽蔑するように見下した。








「お前は俺に何を支払う」


「‥‥お金は、持ってない」


「俺が金に困っているように見えるのか」


「私が持ってるものなんて‥‥」




何もない。そう続けるようとしたその時、いつかの時雨の言葉が脳裏に過ぎった。









『なあ、いつになったら俺の言うことを聞くんだ?』





これは、賭けだ。



それにどれだけの価値があるかなんて、私には分からない。



だけど、これしかないから。




「私」


「あ?」


「私自身を」


「‥‥何を馬鹿げだことを。お前は元から俺のものなんだよ」


「順応になる」


「‥‥は?」


「あなたの思い通りの人形になる。どんなことでも、絶対に逆らわない。ーーこれでどう?」





目を見開いた時雨は、やがて笑い声を上げた。



それは吐き捨てるように乾いた、虚しいものだった。








「自分が何を言ってるのか分かってるのか?」


「分かってる」




ギラギラと危ない光を放つ獰猛な瞳目。



やがて、私が本気であることを悟ったらしい時雨が立ち上がった。









「いいだろう」





もう、限界だった。



意識を保つ余裕なんて、最初からなかったんだ。



命すらも削って時雨と対峙していたせいで、その言葉を聞いた途端に意識が失われていく。






「望み通り、飼い殺しにしてやるよ」





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