第31話




誰かが、何かを言っている。



この部屋に来るのは1人しかいないけれど、私はその人を認識することができなかった。



頭にモヤがかかったようにぼんやりとしている。



不透明感な意識の中、何かを強制的に食べさせられた。



しかし、喉を通った瞬間から異物を体内に押し込まれたような嫌悪感に襲われて、その誰かがいなくなると、全てを吐き出した。



そうしていると、いつしか起き上がることすら出来なくなった。



糸の切れた人形のように、その場を動かない私は、さながら生きる屍だった。










「‥‥小夜さん」





 

私を呼ぶ声がする。



聞き慣れた、耳障りの良い声だ。



遮断していた視界に、1人の青年が現れる。










「‥‥無‥名」





久しぶりに会った無名は、今にも泣き出しそうな顔で、私を見ていた。



「ねぇ、こっちに来て」


「‥‥」


「お願い。私、起き上がれないの」




思い詰めた表情で黙り込んでいた無名が、一歩ずつ頼りない足取りで近付いてくる。








「‥‥会いたかった」



暗く沈んだ様子の無名を抱きしめた。







「ずっと、あなたの顔が見たかった」




頬へと手を添える。



少しやつれたように見える無名の目は、私を映しながら悲しげな光を宿す。







「そんな顔しないで」


「‥‥小夜さんっ」


「私は、大丈夫だから」


「‥‥どうして、どうしてこんなに弱ってしまわれたんですかっーー」




少し体を動かしただけで疲れてしまった私は、労わるように抱きしめてくれた無名の温かい胸へと身を任せた。






「‥‥大丈夫よ。大丈夫だから」


「何が、一体何が大丈夫なんですか!こんなっ、こんなにも細くなられて!」


「‥‥無名」





肩が震えている。



声が掠れている。



無名に抱きしめられている箇所が涙で濡れている。







「‥‥泣かないで」




優しい無名は、心が綺麗な無名は、こんな私を哀れんでくれていた。



いつからだろう。



いつから無名は、こんなにも人間らしくなったのだろう。



私なんかとは、比べものにならない。



否定するかもしれないけれど、私からすれば無名はどこにでもいる普通の人だ。



心優しい、ただの人間だ。



いつまでも、いつまでも泣き続ける無名。



その体を宥めるように撫で続けると、やがて震えが治った。







「‥‥少し、外に出ましょうか」


「外?」



私を抱きしめたまま、呟く無名。






「はい、外です」


「‥‥でも」



目線を下げた先に、私を縛る枷が映る。






「大丈夫ですよ」



私に見えるように、鍵を持ち上げた。







「お借りしました。‥‥一時的にですけど」






誰に、とは聞かなかった。



それを察したのか無名も誰に、とは言わなかった。



ガチャンと音がして、長いこと付けられていた枷が外される。



歩けないことを知っているのか、そのまま私を抱え上げると外へと足を踏み出した。



久しぶりの外。



太陽の光、全身に浴びる風。



しかし、何の感動も感じない。



私を抱えたまま縁側に腰掛けた無名の腕の中から、辺りに広がる日本庭園を眺める。



以前はとても綺麗に見えていたけれど、今では色を失ったように灰色に映る。



でも、無名の温もりだけは健全だった。



私に触れる、優しくて温かい手、感じる体温、心地の良い声。



彼とは違い胸が高鳴ったりはしないけれど、ずっとこうしていたいと思うくらいに、安らぎを感じる。





‥‥けれど。












「ねえ、聞いた?あの話」




私には、そんな安らぎの時間さえも許さないというように。








「聞いた聞いた!」




「若様の婚約者の話でしょ?」




耳障りな甲高い声が、やけに頭に響いた。





頭上から聞こえた息を呑む音。



びくりと跳ねた体の振動が直に伝わる。



無名の動揺は、間近にいる私には筒抜けだった。







「あの佐伯組の一人娘なんですって!そんな方とご結婚だなんて、これで一之瀬組も安泰ね」




彼の部屋を掃除している使用人達の声。



誰もいないと思い込んでいるのかもしれないが、部屋から大して離れていないこの場所には丸聞こえだ。






「この前見かけたけど、凄く素敵な方だったわ」


「私も見たわ!私たちみたいな使用人にも笑顔で挨拶してくださって」


「そうそう!若様と歩く姿がこれ以上ないくらいに絵になっていて、まるで映画のワンシーンでも見ているようだった」





‥‥何がそんなに楽しいのだろう。



何をそんなに、興奮したように盛り上がっているのだろう。



人のことで、そこまで騒げるなんて幸せな人達だ。









「でも、それはそうとあの人はどうするおつもりなんでしょう」


「ああ、あの無表情で無愛想な人ね」


「婚約の話が出て暫く経つというのに、いつまで経っても手放す素振りがないのよね」


「愛人にでもされるのかしら」


「滅多なことを言うものではありません。一之瀬組の若頭ともあろうお方が愛人だなんて」





くだらない。



心底、くだらない。



彼が私をどうするかなんてこと、あなた達には関係ないでしょ。








「無名様とも随分と仲の良いご様子だから、そちらと一緒になるのでは?」


「一時的にでも若様のお側におられた方を、無名様が迎えるはずもないわ」


「そうね。なら、捨てられるのも時間の問題ね」





そんなこと、言われなくても分かってる。







「あらあら、可哀想なこと」







『可哀想。あなたは本当に可哀想な子ね』




黙れ。






『どうしてお父さんさんがいないの?可哀想ー』




黙れ。






『あまり星宮を揶揄ってやるな。家でも学校でも独りぼっちな、可哀想な奴なんだよ』




黙れ黙れ。







哀れるな。



同情するような目で見るな。




「黙りなさい」




聞いたこともないような厳しい声色だった。



叫んだわけでもないのに、この場を支配するくらいの凍てつくような低い声。








「その話は一切他言するなと言ったはずだ」




私を柱に寄りかからせると、襖を開けた。







「む、無名様!」


「ち、違うんです!今の話はっ」


「一之瀬組の恥晒しが。お前達のような者は、この組には必要ない」




わなわなと震える使用人達を冷たく見据える。










「全員ここから追放する。二度とこの敷地に入ることはないと思え」




私の知る無名とはかけ離れた口調で、想像もできないようなことを告げた。




「小夜さん、今の話は‥‥」




言いにくそうに、言葉を紡ぐ。








「大丈夫よ」


「大丈夫って、何が‥‥」


「知っていたから、大丈夫よ」


「知って‥‥いたんですか?」





驚いたように目を見開く無名。



そう、私は知っていた。



あれは、いつだっただろうか。



時間の感覚を失ってしまったから、正確には思い出せない。



だけど、今でも鮮明に覚えてる。








彼の隣で、無垢で可愛らしい笑顔を浮かべる女性。



誰からも愛されるような、そんな雰囲気を持つ女性。



‥‥そして、誰に対しても無関心で仏頂面な彼は、私の見たこともないような笑顔で何かを話しかける女性に答えていた。



その姿を見て、察した。



2人がただならぬ関係であることに。









〝婚約者〟



そう聞いて、納得した。



なら無理もないと、頷けた。









「どうしたの?」


「‥‥っ」


「どうしてそんな悲しそうな顔するのよ」




肩を竦めると、励ますように無名の頭に手をのせた。







「ほら、平気だよ」



そのまま優しくと撫でると、その手を強く掴まれた。







「‥‥無理をしないでください。そんな顔をして、笑わないでください」


「無理なんかしてないよ。だって、私には関係のない話だから」




ーーそう、関係のないことだ。








「あの人が誰とどうなろうが、私には関係ない」




無名が傷ついたような表情で、血が出るくらいに唇を噛み締めた。




「だって、私は彼の〝もの〟だから」




所有物が、所有者に感情を持つなんておかしいでしょ?あり得ないでしょ?



所有物は所有物でしかないんだ。



どう扱うかなんて、所有者が決めるもの。



所有物の意思なんて必要ない。

























「‥‥ものでしか、ないのよ」





だから、関係ない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る