第23話





近頃、時雨がいないことが多い。



大学に行く頃には帰ってくるが家に戻るとすぐに出かけてしまう。



理由は知らないし、聞く気もなかった。



時雨がどこで何をしていようと、私には関係のないことだ。



ただ、時折初めて会った時を思わせるような虚無感を時雨から感じることがある。



それだけは少しだけ気がかりだった。










その夜、眠いわけでもないが特にすることもなく布団の中で目を閉じていた。



目が冴えているのか、一向に眠気がやってこない。



時雨がいる時は決まって気を失ったように眠るから、寝方を忘れてしまったのかも知れない。




何かが足りない。



何かが欠けている。



そんな気がしてならない。




意味もなく天井へと手を伸ばした。



もう随分と長いこと抱かれていないせいか、体中に色濃く主張する赤い痕は消えかけている。



前は服を着る際に煩わしくて仕方がなかった。



執着心を押し付けられているようで不快だった。



だけど、いつからか付けられることに対する対抗心はなくなっていた。



自分の白くて細い腕が何だか気に入らなくて、無意識のうちに抓るとその箇所が赤く染まる。



それに満足すると、今度こそ寝ようと目を瞑った。



不意に目が覚めた。



僅かな間だけ眠っていたのか、意識がぼんやりとしている。



何か音がしたわけでも気配がしたわけでもないが、無意識に視線を向けた先に時雨がいた。



何をするわけでもなく、ただ静かに立っている姿は明らかにおかしかった。



何より、気配がまるでしない。



正気が感じられずに、まだ夢の中にいるのかと疑ったほどだ。







「‥‥時雨?」


「‥‥‥‥」




寝起きの掠れた声で名前を呼ぶが返事がない。



聞こえていないのだろうか?



とりあえず身を起こそうと体に力を入れたのと同じタイミングで、置き物のようにびくともしなかった時雨が動いた。



真っ直ぐにベットに向かってくると、布団をめくり上げて中へと入ってくる。







「時雨っ」


「‥‥‥‥」


「ね、ねぇっ!」




言葉を発することもなく、無表情のまま早急に行為を初める時雨にぎょっとする。



嫌なわけではないが、その異変さに反射的に止めようとするが力で敵うわけもなく頭上に束ねられた。








血が通っているのかと疑うほどに冷えた手が、身体中を這う。



そのあまりの冷たさに鳥肌が立った。



何も映さない虚無な瞳。



感情を読み取ろうと見つめるが、焦点があっていない。








「時雨」


「‥‥‥‥」


「私を見て」


「‥‥‥‥」


「私の目を見て」




名を呼ぶと、僅かに和らいだ拘束から逃れて死人のように青白い頬に手を添えた。








「どうしたの?」


「‥‥‥‥」





おかしい。



こんな時雨は見たことがない。



黒く染まった瞳と見つめ合うと、次第に体の力が抜けていくのが分かった。



そのまま私の体へと倒れ込むと、胸元へと顔を埋めてしまう。



その冷え切った体に少しでも熱を送ろうと、その体を抱き締めた。



頭を撫でながら何度か名前を呼んだ。






「‥‥疲れた」




聞き逃してしまいそうなくらいに、小さな声だった。



息を吐くように小さく呟くと、そのまま動かなくなった。



暫くすると寝息が聞こえ始めた。



どうやら眠ってしまったらしい。



ようやく緊張が抜け、安堵の息を吐く。



乱れた服装を整えると、起こさないように最善の配慮をしながら足元の布団を引っ張る。



体を包み込むように布団を被せるとその顔を覗き込んだ。



血の気の引いていた顔色は元に戻り、穏やかな

寝顔をしていた。





視界に広がる穏やかな寝顔。



いつもならとっくに起きている時間だが、未だに起きる兆しはない。



今日は休日だから起きる必要はないけれど、そろそろ解放してくれないかと思う。



強靭な腕に僅かな隙間もないくらいに閉じ込められているから、寝返りすら打てやしない。



溜息を吐くと同時に、時雨の携帯が鳴った。



一向に鳴り止む気配がない着信音に、死んだように眠っていた時雨も流石に目を覚ましたようで、眉間に深いシワを寄せたまま手を伸ばす。



そして、あろうことか掴んだ携帯を遠くへ投げ飛ばした。



その行動にぎょっとする私を何もなかったように抱き締め直した。



時雨が電話に出ないなんて、珍しいこともあるものだ。



どんな時でも3コールと経たずに出るのに、今日は本当にどうしたのだろう。



無名から聞いた話では、若頭である時雨に直接電話が掛かってくるのは緊急の案件がある時だけらしい。



切れてもすぐに掛かってくるくらいだから、何かあったに違いないのに身動き一つしない。







「‥‥無名」



地を這うような低い声を直で感じながら、颯爽と現れた無名を見た。








「黙らせろ」


「承知致しました」




床に落ちた携帯を拾うと、そのまま外へと出ていった。










「出なくていいの?」



再び眠ろうとする時雨に思わず尋ねた。








「お前が気にする必要はない」


「そうだけど‥‥」


「お前は、俺のことだけを考えておけばいい。他のことなど全て放っておけ」




相変わらずの横暴な言い分に、いつもの時雨だと安心した。










「ーーお前だけは、俺だけを見ろ」





切なさを含ませたその声に、感じたことのない感情が溢れてくる。



そして、思いのままに時雨を抱き締めた。




逆転する視界、縫い付けられる両腕。



熱情が込められたその瞳に囚われた瞬間、私は身を預けるように力を抜いた。



白い肌に赤い華が咲いていく。



触れる指が、吸い付く唇の感触が、私を絶頂へと誘う。








『一之瀬組は恐ろしいところだ』




銀先生に言われた言葉が、一瞬だけ脳裏に過ぎっては消えていく。




耐え切れないその快楽に、生理的な涙が伝う。



必死にその引き締まった背へと手を回してしがみ付いた。









『星宮が思っているより、ずっと』




視界がチカチカと点滅する。









『一之瀬時雨も例外ではない。帝王という名は伊達ではないんだ』





制御を失ったこの体は、もはや私のものではない。








『星宮、俺はーー』




時雨の思いのままにされるただの人形だ。










『一之瀬の異常なまでの執着心が、いつかお前に害をなしそうで怖いんだ』





‥‥どうでもいい。



感情なんて、そんなものに一体何の意味があるというの?










この温もりに比べてしまえば、何もかもが無意味で無価値だ。



求められている、それだけで何かが満たされていくのを感じる。






身を焦がすような熱にさらされながら、このまま溶けてしまいたいと思ったーー。











意識が定まっていないまま、何を探すように手を伸ばす。



しかしそこには、もはや温もりすら残っていなかった。



溜息を吐くと、目を開けて確かめることなく背を向けて布団を被った。









「〝ここにいてやる〟って、〝側にいてやる〟って言ったくせに‥‥」




人知れず、ポツリと呟いた。



布団を手繰り寄せて抱き締める。



しかし、何かが足りない、何かが欠けている。そんな気がして、とてもじゃないが眠れるような気分じゃなかった。



心にぽっかりと穴が空いたような感覚。






これが虚しいという感情なのだろうか?




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