第22話
◇
その日、私はずっと髪を気にしていた。
少しでも乱れようものならすぐに元に戻して、何がなんでも首筋だけは見えないようにとただそれだけを考える。
「おい、何をそんなに気にしている。どこも乱れてないだろ、鬱陶しい」
散々な言い方だと思った。
誰のせいで私がこんな思いをしていると?
「‥‥言ったのに」
「は?」
「‥‥見えるところには付けないでって」
あまりにも私が弄るものだから気になったのか、髪に指を通した時雨があろうことか必死に隠していたその箇所に触れると耳元に口を寄せて意地悪く笑う。
「好きにしろって言ったのは、お前だろ?」
一番首の詰まった服を選んだにも関わらず、首の付け根に色鮮やかに主張する赤い痕。
触れられた箇所から、体中に熱が広がるのを感じて身震いした。
「それにお互い様だろ」
自分の肩を指差しにやりと笑う時雨。
‥‥言い返せないのが本当に腹ただしい。
今日の時雨はなんだか機嫌が良いみたいだ。
朝も普通なら別々で大学に向かうのに、何故か一緒に車に乗り込んでくるし。
驚きすぎて3度見くらいすると思いきり睨まれた。
しかも一度だけではなく、それから毎日。
遅刻、早退、欠席を当たり前のようにしていた頃が懐かしく思う。
ただ、授業中は寝ていることが多くなった。
講義中は殆ど寝ていては、結局のところは前と変わらないのかもしれない。
◇
「銀先生は、時雨と何か関係があるんですか?」
銀先生の研究室で個人面談が終わった後、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
というのも、あの時雨を特別扱いしないのはこの大学では銀先生だけだからだ。
「何でそう思った?」
「あの時雨が無視せずに普通に会話するので‥‥」
「なるほどな。確かに関係性はあるっちゃあるが、一之瀬と、というより一之瀬組と少しな。前に世話になったことがあるんだ」
驚きのあまり言葉を失った。
こんな温厚な先生が極道と、しかもよりによって一之瀬組とってーー。
しかも世話になった?
「あ、違うぞ。俺は見ての通り堅気だ。ただ親がロクでなしでな、借金を残して蒸発したんだ」
それは、いつも明るくて優しい先生からは想像もできないような話だった。
「そん時にちょいと面倒をみてもらってな。一時期通ってたんだ。それで一之瀬と面識があるだけで、別に気が知れた仲ってほどではないんだ」
「そうだったんですね」
「ああ。だから俺が星宮を放っておけなかったのはそのせいかもな」
「え?」
「俺も親やら金やらで散々苦労してきたから、他人事とは思えなくて随分と世話を焼いてしまった。不快に思ってたら悪い」
「いえ、そんなことないです!先生がいなかったら、とうの昔に限界がきてしまっていました。だから、銀先生には本当に感謝しているんです」
先生は目を瞬かせると、優しく目を細めて私の頭を撫でた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。俺は星宮に何かしてやりたいとずっと思っていたから」
「‥‥先生?」
何となく、いつもとは違う様子に不思議に思って首を傾げた。
そんな私に困ったように笑う。
「これは俺の勝手なエゴだが」
感じたことのない雰囲気を漂わせる先生。
その空気感が、どうしてか苦手だと思った。
「星宮には普通の場所で、普通に生きて、普通の幸せを手に入れて欲しい」
「‥‥‥‥」
「その権利が星宮にある。今まで苦労しながらも頑張ってきたんだから」
「‥‥‥‥」
「必ず、星宮を幸せにしてくれる人が現れる。だからーー」
「先生」
続くその言葉を遮るように、私は声を出した。
「私は、幸せになんてなれないです」
「‥‥星宮」
「私みたいな人間が、普通の幸せなんて手に入れられるはずがありません」
そんなもの、とうの昔に諦めてしまった。
多くを望んだことなんてない。
私はただ、普通に生きたかっただけだ。
普通の家庭、普通の生活、普通の人生。
皆が口を揃えて言う、その普通というものが欲しかった。
ーーでも、私はその普通すらも手に入れることはできなかった。
願っても願っても、状況は悪くなる一方で。
絶望は、救いを求める度に大きくなっていった。
それを耐える気力なんて、もう残っていない。
だから、私は心を捨てたんだ。
「星宮、俺はーー」
先生が思い詰めたような顔で言葉を途切らせた。
「‥‥いや、今の星宮に言ったところで無意味か。だが、それでも」
私の目線に合わせて屈むと、両肩に手を乗せる。
「どうか覚えておいてくれ。心の片隅でもいい。‥‥一度だけで、ただの一度だけでもいい」
疑問に思う。
どうして先生は、そんな苦しそうな顔で、私を見るのか。
「耐えきれないほどの苦しみにあった時、俺に星宮を助ける機会をくれないか?」
どうしてそんなに、苦しそうな声を出すのか。
「気まぐれでも、気の迷いでもいい」
どうして、私なんかに懇願するように頼むのか。
「ーー俺に、星宮を救わせてほしい」
引き寄せられた体、慣れない感触。
それをまるで他人事のように感じる。
私には、分からなかった。
何が先生にそんなことを言わせるのか、何故こんな行為をするのか。
「頼む」
抵抗することもなく先生に抱き締められながら、私はただ遠くを眺めていた。
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