予兆

第21話

遠くで声がする。



怒り狂ったかのように怒鳴り散らす女の声は、酷く耳障りだった。



近くに誰かがいるわけでもないから、どうやら電話をしているようだ。



やがて、力任せに受話器を置くと振り向いた拍子に目が合ってしまった。







ーー違う。






私の中で、何かが強く拒絶している。






ーーこんな事実はない。




知ってはいけないと、頭の中で警音が鳴り響く。






ーーただの夢だ。

















『死んでしまえばいい』




憎悪に染まった目が、私を射抜く。




その瞬間、何かが壊れる音がした。



計り知れないほどの恐怖から飛び起きた私は、ここが時雨の部屋であることを確認すると、安堵の溜息を吐いた。



‥‥何だろう、妙に現実味のある夢だった。



内容は思い出せないけれど、その未だに生々しさが消えない。







「‥‥時雨?」




帰ってきた覚えがなく、時雨を探すが姿はなかった。



駄目だ。

頭が痛くて思考が回らない。






「無名」



名前を呼ぶと、1秒と経たずに隣の襖が開く。








「お呼びですか?」




見慣れたその姿を見ると無性に安心した。








「時雨は?」


「仕事です」


「そう。‥‥私、記憶が曖昧なんだけど、今日は何日?」




外を見ると、どうやら今は夜らしい。






「今日は学外オリエンテーションの2日目でしたが。参加せずに、夕方頃に帰ってこられました」


「え、帰ってきた?」


「はい。小夜さんが参加できる状態ではないからと、若から迎えに来るようにとの連絡をいただきました」




釈然としないながらも、とりあえず起きあがろうとして体に違和感を感じた。



それは、毎朝感じているのと同じ感覚だ。



しかも、いつもなら見えるところに付けないでと懇願して何とか妥協してもらっているのだが、今回は首や手首、足首といったところにも赤い華が散っていた。



そこでようやく昨夜の記憶が蘇ると、恥ずかしさのあまり一気に顔が赤くなるのが分かった。



私、何かとんでもないことを口走らなかったか!?



ハイになっていたせいか、はっきりとは思い出せないけれど、あり得ないことを口々にほざいた気がする。







ーー消えてなくなりたい。




ところどころの記憶を頼りに、そんなことを思った。









「時雨はいつ帰ってくるの?」




できれば暫くの間顔を合わせたくない。



どんな顔をすればいいか分からないし、昨夜のことで揶揄われそうな気がするし。








「実は、組員が不祥事を起こしまして、その後始末をされております。そう容易く片付くような案件ではありません。しかし若のことですから、明け方には帰ってこられると思います」




いや、帰ってこなくていいんだけど。



というか、帰ってこないで欲しい。








「用事があるのなら、私の方から連絡致しますがいかがなさいますか?」


「やめて、絶対にしないで」




『寂しいのか?』と勝ち誇ったように言う時雨の顔が浮かぶ。



確かに、側にいると言ったくせに何でさっそくいないのよとは思ったけれど。






「昨日、何かありましたか?」


「な、何もないわよ!本当に、何もっ!」


「小夜さん?」


「‥‥‥」


「顔が赤いですよ」


「‥‥笑わないで」


「笑っていません」


「なら、その口を押さえてる手は何?」


「‥‥申し訳ございません。ただ、顔を真っ赤にして慌てる小夜さんが可愛らしくて」




以前の作り物のような笑顔とは違う、自然で優しく微笑む無名。



そうしていると、年相応に見える。



「あの、隣に行ってもいいですか?」


「当たり前じゃない。おいで」




隣をポンポンと叩くと、無名が側に座る。







「珍しいのね。無名から側に来たいなんて言うの」


「はい。実は少し寂しかったんです」




〝寂しい〟なんて無名が言うとは思っていなかったから、少し驚いてしまった。






「若も小夜さんもいない夜を過ごしたのは初めてではないのですが、昨日は静まり返った部屋にいるとどうも落ち着かなくて」




‥‥そうか、忘れがちだけど無名は年下なんだ。



別にそれが直接関係するわけではないけれど、大人びて見えるせいで意外だと思ったんだ。



肩に重みが加わる。



寄りかかるように頭を置いた無名が可愛くて、その肩を抱きしめて引き寄せた。






「よしよし」




頭を撫でると、目を細める無名。








「小夜さんといると温かい気持ちになれます。母親というのは、きっとこんな感じなんでしょうね」


「年は一つしか変わらないじゃない」


「私は人として扱われるまでに時間がかかったので、精神的には幼いんです」


「それなら私も同じよ?小学校に入るまで、ずっと家に閉じ込められていたから」


「出来ることなら、私がその場所から小夜さんを連れ出してあげたかったです」


「‥‥ありがとう。優しいのね」




想像するだけで、心が救われるようだった。







「少し眠ってもいいですか」


「うん、おやすみ」


「おやすみなさい」




遠慮がちに手を掴まれた。



その手を握り返すと眠りやすいように膝を貸し、背中を優しく撫でる。







「ーーずっと、ここにいてください」


「ずっと?」


「はい。若と、小夜さんがいるこの空間が私はーーいえ〝俺〟は好きなんです」


「‥‥」


「例え、これから何かあったとしても、どうか若のことを信じてください」


「‥‥」


「どこにも、行かないで‥‥」




握られた手の力が抜ける。



どうやら眠ってしまったようだ。











ずっと、この場所でーー。



時雨がいて、無名がいて、そして私がいる日々。





前は苦痛でしかなかった時間。



ーーでも、今は違う。






悪くないと思ってしまった。



この時間が続くことを。








「‥‥無理、だよ」





弱々しい声が、口から漏れた。



‥‥ありえない。そんなことは絶対にない。



そう、断言できてしまう。



終わりは、必ずやってくるだろう。



何も持たず、何も与えられず、拒絶されながら孤独に生きてきた私が、誰かに愛されると思う?



夢物語でもあるまいし、そんな都合の良い話があるわけがない。










ーー執着心。



そんなものが、果たして永遠に続くだろうか?



そんなこと、考えなくても分かるだろう。













「おかえりなさい」




無名の予測通り、時雨は明け方に帰ってきた。







「何かあったのか?」



私の膝を枕にしてベットで眠る無名を見て首を傾げた。







「寂しかったって」


「寂しい?」


「うん。だから一緒にいたの」


「‥‥こいつも、随分と人間らしくなったな」


「そうね」


「ずっと起きてたのか?」


「眠れなくて」


「そうか」





起こさないようにそっと無名を抱えると、部屋へと運んだ。



毎度のことながら、時雨って無名に甘いのね。











「時雨は、永遠って信じる?」




事が終わった後、背を向けられるのが嫌でその懐へと身を寄せた。



いつもなら絶対にしないが、その肩に刻まれた私の噛み跡に比べれば恥ずかしがることでもないだろう。






「信じない」


「そうよね」




信じるわけがーー。






「信じたところで何も生まれやしない、それはものではないからな。だが、本当に求めるのなら何をしてでも手に入れる」


「‥‥」






羨ましいと思った。



そう考えられるだけの力を持っている事が。



私にはそんな力はないから、信じることすらできないのに。









「もう寝ろ」





深く抱き込まれると目を閉じた。



その声が、香りが、体温が‥‥心地よい。



ずっとこうしていたいとすら思う。










『若のことを、どう思っているんですか?』






いつかの、無名の言葉が浮かぶ。



あの時は害悪だとしか思わなかった。



けれど、今はどうだろうか?



私は時雨のことを、

どう思っているのだろうーー。

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