第20話

普通なら敏感なくらいに察しがいいのに、開かれていたせいで気がつくことが出来なかった。



私が大浴場を避けていた理由、それは時雨に付けられた痕のせいだ。



体を覆い尽くすほどのそれは、とてもじゃないが他人に見せられるようなものではない。



恐る恐る更衣室を覗くと、誰も居なかった。



屋上にも温泉があるらしいから、皆そこに行ってるのだろう。



だからといって中に誰もいないとは限らない。



だから、見えないようにタオルを羽織って扉に手をかけようとした瞬間だった。







「あ〜、まじこっち狭すぎでしょ」


「展望台行った後だとショボすぎな」




聞き覚えのある声と共に、扉が開かれる。







「あっれ〜?星宮さんじゃん?」



無駄に明るくしたような声だった。







「帝王はどうしたの?なになに、まさかぼっち?」


「わ、私は‥‥」




長年の経験から、そういう雰囲気をすぐ察してしまう。





「そういやさっき出て行ったところを見たって友達が言ってたよ」


「ほ〜ん?じゃあさ、マジで独りなわけね」



反射的に逃げようとしたが、一瞬で囲まれてしまい身動きが取れなくなる。







「ーーちょっと付き合えよ、星宮」




強引に手を掴まれると、中へと引き摺り込まれた。



床へと投げ捨てられると、そのまま数人から押さえ付けられる。



その中心で歪んだ笑みを浮かべる千穂に、頭を踏み付けられた。



くだらないほどに、見飽きた光景。







「最近調子に乗ってんだろ、お前」




まさに、夢から現実に戻されたと言うべきか。







「捨て子の分際で帝王の側にいるんじゃねぇよ。自分の立場をわきまえろよな?」


「‥‥‥‥」


「ちょっと聞いてんの?」




引きちぎらんばかりの力で髪を鷲掴みにされたまま引っ張られる。



その痛みから、生理的な涙が流れた。






「今日だって、このあたしが誘ったのに相手にもされなかったのにさぁ、何でお前如きが当たり前みたいな顔して隣にいやがるんだよ!」




髪を掴まれたまま体を引き上げられると、近くの水風呂へと放り投げられる。







「このあたしに恥をかかせたこと。身を持って思い知ればいいのよ。いつもみたいに可愛がってやるからさ!」





ーー平気。






「何ならこのまま沈めてやろうか?ああ?」




息苦しさで顔を上げた私の頭を掴み、そのまま水中へと沈める。



そして、わざとギリギリまで苦しめて引き上げると、また同じように沈める。



何度も何度も繰り返されるそれを、私はーーまるで他人事のように見ていた。



苦しさも、痛みも、次第に何も感じなくなっていく。




ーー大丈夫。






「死んじまえよ、お前なんて!クソみたいな父親にも頭のおかしい母親にも捨てられ、親戚のババアにも見捨てられたお前なんて、生きてる価値もないんだよ!」




ーー慣れてる。




わざと心を抉るような暴言を吐く千穂のやり方なんてお見通しだ。



そんな毎日繰り返される地獄のような苦しみに耐えるために、私は心を捨てた。



そうすれば、痛みも、悲しみも、次第に何も感じなくなって楽になれなから。



満足したらしい千穂に解放された時には、意識が朦朧としていた。






「‥‥ちょっと、千穂。これやばくない?」


「は?何言っての?」


「こんなの、一時的な感情でできるものじゃないって‥‥」




妙な沈黙が流れたと思えば、取り巻きの1人が重々しげに口を開いた。



彼女が指差しているのは、私の体だった。



正確には、古いものから新しいものまで体中を覆い尽くすほどの痕。






「やばいって、もし今日のことが知られたらーー」


「何あんた、怖気付いてんの?あたしに口出すなんて何様のつもりよ。こいつと同じ間に合わされたい?」


「ち、違っ」


「なら、黙ってろ。おい星宮、あたしの言いたいこと、分かってるな?」



意識を失う前にと、最後の力を振り絞って頷く。






「あたし、あんたのその順応なところだけは嫌いじゃないのよ。だから、一つ忠告してあげる。今はどれほどあんたに執着しても、いずれは興味のカケラも無くなるわ。だって、あんたは何一つ持ってないんだもの。普通ならあるものすらないただの欠陥品よ。欠・陥・品」




そんなの、言われなくても分かってる。






「欠陥品は欠陥品らしく生きなさい。それが定まってものよ。それなのに、人の物を欲しがったらダメよ?あの人はあたしのもの何だから」





私のことは何を言われてもいい。



だけど、この馬鹿女が時雨を自分のものというのだけは気に食わなかった。






「じゃあね、星宮さん。出る時は何も無かったように、ちゃんと普通にしてね?」




千穂は分かってる。



私が、絶対に時雨に告げ口したりしないってことを。



それを全て理解してるからこそ、こんな大胆なことができるんだ。



千穂はそれを私が臆病ものだからと思っているみたいだがそれは違う。



私はただ時雨に知られたくないだけだ。



こんな惨めな思いをしている、無様な私の姿を。



確かに、時雨に言えば必ず報復をするだろう。



自分のものに対する執着心の異常さを思えば、容易に想像できる。



だけど、私はそんなことを望んでいない。



嫌いな相手に、力を持っているからと都合よく縋る何て真似はできない。



そんなことしたら、私の立場はどうなるの?



ただでさえ価値なんてないのに、それ以下の存在になれと?



ーー嫌だ、絶対に。



それならいっそ死んだほうがマシとすら思う。





暫く放心していると、すぐに脱衣所に向かい身なりを整えて素早く着替えた。



ふと鏡に映る自分が目に入る。



あんなことをされながら、何もなかったように無表情な私。



思わず笑ってしまう。



ーー壊れている。気持ち悪い。普通じゃない。正気だとは思えない。




千穂の言う通り、私は欠陥品だった。






ホテルの部屋に戻ってベットに潜り込んでも、一向に眠気がやってこない。



慣れない場所だというのもあるだろうが、目を閉じれば嫌な記憶が脳内を巡り余計に目が冴えてしまう。



すぐに戻ると言ったくせに、時雨が帰ってくる気配はない。




ーー嫌だ、思い出したくない。



そう思うのに、気持ちとは裏腹にかつての記憶に支配されてしまう。






ーーそれは、濁りきった真冬のプールに落とされた時の記憶。



クラスメートが、プールサイドに集まって私が苦しむ様子を楽しんでいた。





ーーそれは、日常的に行われていた事。



物がなくなるのは日常茶飯で、落書きした上に引き裂かれた教科書、ボロボロにしてゴミ箱に捨てられた体操着、使えないように折られた文具用具。



服や上靴も、すぐに汚れたり破かれたり濡らされてしまう。



無くなったところで、用意することもできないというのに、そんなのはお構いなしだった。



だからいつも、保健室で予備の体操服を借りていた。



上靴に履いてきた靴も無くなった時に、裸足で帰ったことすらあった。



登校したときには、必ずというほどに無くなっている机。





『星宮、机はどうした?』



意地が悪いと思う。



教員たちは私が虐めらていても見て見ぬ振りで、そんな考えなくても分かることをわざわざ聞いてくるんだ。





『‥‥あの、無くなりました』


『机が1人でどこかにいくとでも?誰にも構ってもらえないからって、周りに迷惑を掛けるのはやめなさい』




到底人とは思えない発言だ。



親にネグレクトを受けていることは学校中に広がっていて、私に何をしたところで誰も文句を言わないからと人間扱いすらされない。






『センサー、星宮さんはいつもボーってしてるから、自分で移動させて忘れてるんだと思いまーす』



貧相な身なりをしている私とは違い、髪型も服装も女の子らしく可愛らしい装いをしている千穂は有名企業財閥の令嬢で、学校からも生徒からも特別視されていた。








『もういい。授業を始めるから邪魔にならないように後ろに座ってなさい』




クスクスと嘲笑を浴びながら、私は教室の隅っこで体操座りをした。



どう見ても異常な光景なのに、誰1人として味方をしてくれる人はいなかった。



1番酷かったのは高校の時だ。



私が親元を離れて親戚の家に預けられたと知った千穂から『捨て子』と揶揄われるようになったのだ。







『‥‥お願い‥‥返してっーー』




喘息の発作が出て、吸引器を取り出すと横から引ったくるようにして奪われた。





『はぁ?返して〝ください〟でしょ?何命令してんだよ、捨て子のくせにさ!』


『‥‥返して‥‥下さい』




息も絶え絶えで、意識が朦朧となっている中何とか声を出す。





『いいよ、返してやっても』



ニヤッと嫌な笑みを浮かべると、あろうことか窓から吸引器を投げ捨てたのだ。






『そのかわり、自分で取ってこれたらね。あはははははっ!』




この時の記憶を私は生涯忘れないだろう。



過呼吸になりながらも這いつくばってグラウンドまで吸引器拾いに行った私を、校内中の人達が見ていた。



かわいそーだとか、酷いーだとか、とにかくそんな上辺だけの台詞をかけながら嘲笑う人達。



誰もが手を貸すわけでも、気遣ってくれるわけでもなく、ただ傍観者を決め込んでいた。



何とか取り戻し、吸い込んだ吸引機は砂塗れで器官に入って痛かった。








ーーその時に思った。




私は、何故生きているのだろうと。



こんな思いをしてまで、生きる意味があるのかと。



考えている内に、何もかもがどうでも良くなっていった。



意識が闇の底に沈むように、痛みも、苦しみも、悲しみも感じなくなっていった。











私はその瞬間、心を捨てたのだろう。





ーーガチャンと施錠が解除される音がした。




どうやら、時雨が戻ってきたらしい。







「寝ているのか?」




声をかけられるが、寝たふりをする。



正直、いつも通りに受け答えできる気がしなかった。



態度から異変に気付かれるのも嫌だから、このまま寝たふりするのが一番だろう。



ベットの軋む音と共に、嗅ぎ慣れた香りがする。



頬にそっと添えられた手に、何だか泣きそうになった。








シャワーを浴びる音が止むと、暫くして布団が捲られ時雨が入ってくる。



そして、思わぬ感触を感じて声にならない声が唇から漏れてしまった。






「小夜?」



それに間近にいる時雨が気付かないわけがなく、その上、耳元で名前を呼ぶものだから頭がおかしくなってしまいそうだった。



ーー不思議な感覚だ。



胸の中がムズムズするようで、それでいて切なさを覚える。



背後から抱きしめられただけなのに、どうしてこんなにも満たされたような錯覚に陥るのだろう。










「起きたのか?」




日頃なら煩わしいその声が、優しく感じる。



起きているのか確認するために体を振り向かせようとした時雨を押し倒した。



こうして上から見下ろすのは初めてだ。



私から見下ろされている時雨は怒るわけでも不思議がるわけでもなく、ただ無表情で見上げていた。






「しないの?」



寝巻き用の浴衣の帯を緩めると、わざとはだけるようにして脱いだ。



きっと、今の私は正気を失っているのだ。







「抱いてくれないの?」




こんな台詞は、初めて言う。




頭がおかしいとか、正気を失ったのか、とかいつものように鼻で笑えばいいのに、こういう時に限って時雨はーー。







「どうした」




特別優しいわけでも、気遣うような声なわけでもない、ただ静かに私の返答を待つ。



そんな時雨が、私は苦手だった。







「夢を見たの」


「夢?」


「そう、怖い夢を」




何だろう、この感覚は。







「だから、忘れさせて」




いつかどこかで、同じような感情を抱いたことがあった気がする。



感情なんて、心なんて、とっくの昔に捨ててしまったはずなのにーー。



「そんな夢、忘れさせてやる」




そう言って時雨は、私を押し倒した。







「んっーー」




鼻から抜けるような声が出る。



綺麗な顔が近づいてきたと思えば、そのまま唇を塞がれた。



ぬじ込まれる舌の熱さに、絡めとられる感触に頭がくらくらとしてくる。



いつもは縛られるか押さえられている手は、時雨の首の後ろに回していた。



キスをされたのなんて、初めて抱かれた時以来だ。



角度を変えて何度も何度も唇を重ね合わせる。



気が付けば自分からも絡めていた。



次第に激しくなり貪るような口付けに息が上がってくる。



それを悟った時雨が、最後に濡れた唇を舌で舐めると離れていった。



その際に引いた糸が妙に艶めかしい。






「鼻で呼吸をするんだ」



呼吸を整える背中を、優しく上下に撫でられる。



その体にしがみ付いて、何とか通常の呼吸を取り戻す。







「お前は喘息持ちだからな。苦しくなったらすぐに言え」





今まで誰にも気遣われなかったのにーー。



それどころか、煩いと迷惑がられてきたのに。



そんなこと、言わないで欲しい。



気を抜けば、縋ってしまいそうになるから‥‥。






 



酷い人だ。



いつか私を捨てるくせに、どうして今までずっと欲しかった言葉をこんなにも簡単にくれるのか。



その先に絶望が待ってるのなら、余計な希望なんて与えないで欲しい。







「何故泣いている」



気遣われるように涙を拭われると、押し殺していた涙が溢れ出しそうになる。



これ以上気を許してしまえば、取り返しのつかないことになると私の本能が警告する。








「どうして欲しいんだ」


「時雨の、好きにしてっーー」







早く、早くーー。



いつものように私を無茶苦茶にして。



何も考えられなくなるくらいに、犯して。



気付いてしまう。



知ってはいけないその感情の正体に。



「その言葉、忘れるなよ」




獰猛な光を瞳に宿らせた時雨。



私は全てを委ねるように、全身の力を抜いた。



ーー皮肉なものだ。



私から全てを奪い、支配して、蹂躙して、今度は懐柔なんて‥‥本当、笑えない。



でも、今だけはいいだろうか。



何もかも忘れて、考えずに、彼の温もりだけを感じてもいいだろうか。



いつかは消えてしまう、この温もりをーー。






今だけは‥‥。










体が熱い。



時雨に触れられた箇所が、熱を持ったかのように発熱しているようだ。







「今日はやけに感度がいいな」




耳元で囁かれると、ゾクゾクとした感覚が身体に走った。



‥‥おかしい。



普段とは比べものにならないような快楽に、頭がおかしくなりそうだ。






「お願いっ‥‥抱きしめてっーー」





時雨が中に入ってくる前に、その身体へと腕を回してしがみ付いた。



まるで自分の体が自分のものではないようだ。



意識が朦朧としていて、これが現実なのか夢なのか、今どこにいるのか、何をしているのかも分からなくなりそう。







「好きにしろと言いながら、そんな要望をしてくるとはな」




触れ合う肌の感触、体温、匂い、その全てに酔ってしまいそうだ。



何も考えられないくらいに、思考がドロドロに溶かされてしまっている。







「ここにいるって、言ってっ」




欲しい。


欲しくてたまらない。


この温もりが。


この感触が。


もっと、もっとーー。







「ここにいてやる」


「側にいるって言ってっ」


「側にいてやる」


「私をっーー」





その悲痛な叫び声は、到底自分のものとは思えなかった。









「離さないって、言ってっ‥‥」




夢でもいい。



嘘でもいい。



ひと時の感情でもいい。



感情などなくても、上辺だけの言葉だけでいい。



一度だけでもいいから、その言葉が欲しい。








「ーー今も、これからも、お前を手放す気は無い」




言葉と同時に、時雨が入ってくる。



その瞬間、全身に甘い痺れが走り、目がチカチカとして、自分とは思えないような嬌声が漏れた。






尋常じゃない快楽だった。


感じたことのない感覚だった。





頭が真っ白になって、のけ反った身体は痙攣するとガクンと力を失った。








「まだだ」



強く引き寄せられると繰り返される律動に、どうにかなってしまいそうだ。



意識が遠のきそうになると、時雨が自身の肩を私の口元へと押し当てた。







「嚙め。散々煽りやがったんだ。そう容易く解放されると思うなよ」



いっそう強まる律動に、気が狂いそうだ。



途中で何度も意識を失いそうになりながらも時雨に必死に掴まりながら、肩に噛み付いた。







「‥‥時雨」










意識を手放す寸前、女は男の名前を呼んだ。



無意識の中で、名前を呼ばれたのは初めてのことだった。



何かあると、決まってすぐに口にする母親の名前。



救いようの無い、最低にして最悪な元凶に縋る姿を、女と関わり合ってから一体何度見てきたことか。



そんな女がようやく、自分の名前を口にしたのだ。



それに、何も感じないわけがないだろう。










「小夜」




力尽きて眠る女。



涙を浮かべながらも、穏やかな表情だった。



自分へとすり寄るようにして腕を掴んでいる。







「小夜」



髪を梳きながら、もう一度その名前を呼ぶとまるで子供のように無邪気に微笑んだ。







「お前は俺のものだ。あの日からずっと。そして、これからも」




あれほどまでに感情を露わにしているのを見るのは初めてだった。








「俺だけを見ろ、俺だけを頼れ、俺だけのことを考えていろ」




それは、異常なまでの執着心からくる言葉だった。








「心も、体も、その涙の意味さえも全て俺のものだ。俺だけのーー」




瞳の中に獰猛な光を宿す男。







果たして、この感情は愛か、ただの執着心かーー。




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