第19話




誰かから向けられる負の感情。



それが日に日に強くなっているように感じる。







「延期を繰り返してだいぶ遅くなったが、やっと学外オリエンテーションの実施日が決まったぞー」



元々この大学は遅めの時期に開催しているが、今年は色々あって予定より1ヶ月ほど経過しているため、喜ぶ人もいれば「遅すぎだろ」とか「もういっそ中止にしろよ」と野次を飛ばす人もいた。






「別に休んでも構わんが、単位がどうなっても知らないからな」


「マジかよ!ギンギン酷っ!」


「うわっ、あたし今度休んだら留年だし」




今まで修学旅行や自然教室など、金銭的な問題もあって参加したことはなかった。



参加してみたい気持ちもあるが、友達なんているわけもないし、時雨は絶対に行かないだろうから、単位の都合上行かざるを得ない状況だけに憂鬱だった。



溜息を吐くとチラリと横を見る。



授業中に寝ているところなんて滅多に見ない時雨だが、疲れているのか珍しく眠っているようだ。



試しにツンツンと軽く突いてみたが反応はなく、どうやら熟睡しているらしい。







「時雨、時雨ってば」




授業が終わり皆帰ってしまったが、時雨が起きる気配がない。



最終手段として、肩を掴んで揺さぶっても眉間にシワを寄せるだけだ。



「珍しいな、一之瀬が寝てるなんて」




片付けを終わらせた銀先生が、向かいの席へと腰を掛けた。





「すみません。教室の鍵を閉められないですよね」


「いや、構わないぞ。丁度話したいこともあったからな」


「話したいこと?」


「ああ。すまないが起こしてくれないか?今でなければ話すら聞かないだろうから」






一体、何の話だろう。




「分かりました」




キレられそうで怖くもあるが、用事があるなら仕方がないと何とか時雨を起こす。






「‥‥何だよ」




やがて、この上なく不機嫌そうに目を覚ました時雨。






「銀先生が話があるって」


「あ?話だと?」




いつもの2倍も深く刻まれた眉間のシワ。



機嫌がすこぶる悪く、地を這うような低い声に内心ヒヤヒヤしていた。









「率直に言うが、学外オリエンテーションに参加しろ」




思いもよらない内容に沈黙が流れる。








「は?」


「え?」





やがて2人揃って間抜けな声を出した。








かつてないほど、は言い過ぎだが、それにしてもすこぶる不機嫌だ。



腕を組み、宙を睨みつける時雨。



黒いオーラを漂わせ、周りの人たちは息を押し殺すようにして気配を消していた。







「ポッキー食べる?」


「‥‥‥‥」


「要らないなら別にいいけど」




前もって用意していたお菓子。



いつ食べるべきか迷ったけれど、こういうのは移動中に食べるものだと誰かが言っていた。



こんなの中々無い貴重な機会だ。



学生時代最初で最後の旅行、これを楽しまずにはいられるだろうか?



2袋目を開けて、一口一口を大切に食べる。



せっかく渋々ながらもあげようと思ったのに、人の好意を無視するなんて。



さすがは時雨と言うべきか。






「ねえ、その機嫌の悪さどうにかならないの?みんな怯えてるわ」


「‥‥うるせぇ」





壮大な舌打ちと共に吐き捨てた。



まあ、機嫌が悪いのも無理はないだろう。



こういう場は絶対に嫌いだろうに、銀先生から『星宮と別の学年になってもいいなら休んでもいいぞ』と半端脅しみたいなことを言われていたから。



だからといって、周りに不機嫌さを撒き散らすのは本当にやめてほしい。



「‥‥って、何勝手に食べてるのよ!」




散々不機嫌オーラを撒き散らせ私を無視していたくせに、人が食べようとしたポッキーをあろうことが奪い取りやがった。



最後の一本だったのに。






「たかが菓子を取られたくらいで喚くな。餓鬼か」



恨めしく睨みつける私を、鼻で笑う時雨。



出来ることならその余裕そうな顔を一発殴ってやりたい。






「〝頂戴〟の一つも言えない人に餓鬼とか言われてもね。説得力の欠片もないから」


「1週間も前から念入りに準備をしていたやつに言われてもな。わざわざに無名に頼んで菓子の用意までして」


「ーーっ!べ、別に楽しみになんかしてないしっ!」


「誰も〝楽しみにしてた〟なんて言ってないが」




口角を上げて、嘲笑する顔が憎たらしくてしょうがない。



この男は、この男はっーー。



いつも仏頂面のくせに人を馬鹿にする時だけ生き生きとした顔をしやがる。



本当、いい根性をしてるものだ。



そりゃあ、ほんの少しだけ楽しみにしていたこともないことはないけど‥‥。



でも、決して浮かれてたわけではなく、向こうで何があってもいいように念入りに準備していただけだ。



だから、決してこいつに負けたわけじゃない。



ただ、私の方が精神的に大人だから仕方なく引き下がってあげるだけよ。



「お前の方が精神的にも子供だろ」


「‥‥は?」


「俺が怖くて言い返せなくて、心の中で反抗して満足してるような奴が俺に勝てるとでも?」


「‥‥な、何で」


「口に出さなくても、顔見りゃ何考えてるか分かるんだよ」


「勘違いしないで、別に怖いわけじゃないの。ただバスの中だし人の迷惑になるから大人しくしてるだけ」


「なら、一発殴ってみろよ」


「あんた何言ってんの?」


「いつも殴りてぇと思ってんだろ?だから今ここで殴ってみろよ。そしたらお前の言い分を信じてやる」


「馬鹿じゃないの?こんなところでできるわけないでしょ」


「安心しろよ。今だったら何もしない」


「そんなの信じられるわけないでしょ」


「俺が今まで一度でも嘘偽りを吐いたことがあったか?」


「‥‥‥‥」





悔しいがその通りだ。



なら、せっかくだし少しだけ‥‥。



コツンと、軽く頭を小突いてやった。



地味にジンジンして痛いやつだ。







「ほら、してやったわよ。精々自分の言ったことは守りなさい」




ようやく日頃の仕返しが出来たと、勝ち誇った顔で言ってやった。



ーーたが、瞳の奥でギラギラとした輝きをチラつかせ、不敵に笑った時雨。



しまった嵌められたと血の気が引いた時にはもう遅く、強い力で間近に引き寄せられる。











「ああ、そうだな。〝今は〟何もしないでやるよ」




蠱惑的な声で耳元で囁かれると、ゾクリした感覚が身体に走る。









「大人なら、自分した行動には責任を持てよ?」





悪魔だ。









「ーーなぁ、小夜」






この男は、悪魔に違いない。





「‥‥綺麗」



観覧車の頂上で見える景色、その美しさに自然と頬が緩む。



遠くには海も見える。






「ねえ見て、海よ海」



指差しながら隣にいる時雨に話しかける。







「海がどうした」


「遠いけど見えるの、ほら」




水面に映し出された夕日が、より美しさを際立たせている。



最初はその高さに恐怖心を抱いていたのに、それを忘れてしまうくらいに見惚れていた。







「だから、海がどうしたと言ってる」


「あんなに綺麗なのに何とも思わないの?」


「珍しくもないのに一々海がどうとか思わねぇよ。それよりも座れ、危ないだろ」


「もう少しだけ。だって初めて見たんだし」





ずっと憧れていた。



家族や友達と海水浴をしたとか、浜辺でバーベキューをしたとか、私とは無縁なことだったからいつも羨ましいと思いながら、楽しそうな人達の思い出話を聞いていたものだ。



笑い合う人達。



アトラクションに乗って、悲鳴を上げながらも楽しそうな人達。



友達同士でふざけ合う人達。



その全てが、キラキラと輝いて見える。



そんな場に自分がいることが不思議でならない。



遊園地に行くと聞いてからの時雨の嫌がりようは酷く、ベンチから動かないと一点張りだったところを何とか説得して本当に良かった。



この感動を人と分け合えることが素直に嬉しいと思う。



まあ、時雨には感動なんて無縁なんだろうけど。







「‥‥いいな、行ってみたいな」




誰に言うわけでもなく、無意識に呟いた言葉。







「そんなに行きたいなら連れて行ってやろうか?」


「ーーいいの?」


「ああ」




壁に張り付いていた私は、思わぬ返答に顔を上げて時雨を見た。






「お前がいい子にしてたらな」



体を引き寄せられたと思えば、時雨の腕の中に倒れ込んでいた。



蠱惑的な笑みに、さっきのバスでの出来事が浮かぶ。



この笑い方、何か企みがある時のやつだ。






「お前、言ったよな。『何でも言うことを1つ聞くって』」


「‥‥私に出来ること限定で、ともね」




そうでもしなければ、絶対に観覧車になんて乗ってくれないだろうから仕方なく、だ。






「俺を小突いた代償も支払ってもらわけねぇとな」


「待って、代償って何。あんたが私にやれって言ったのよ」


「それで本当にする馬鹿がいるか」


「‥‥最低」


「何とでも言え。どんな御託を並べたところで、お前は俺の命令を聞く義務があるんだからな、大人ならその義務を果たすべきだろ?」


「‥‥‥‥」


「今晩が楽しみだな」






ニヤリと笑うと布越しに背骨を撫でられる。



その感触に身震いした。







時雨が学外オリエンテーションに参加する際に出した条件、それは私と部屋を同じにするということだった。



2人1部屋とのことで、本来ならまともに話したこともない女子と泊まる筈だった。



それを考えると、時雨との方が遥かにマシだと思ったのに‥‥。



これからのことを思うと憂鬱でしかない。






「狭いな」




いや、十分すぎるくらいに広いでしょ。



あんたの部屋が広すぎるだけよ。



しかもこいつ、ベットを見て言いやがった。






「‥‥せめて、動けるくらいの体力は残して」


「お前の体力の範囲内だと何も出来ねぇだろうが」




〝何も〟って、何をするつもりなんだこの男。






「主導権は俺にある。お前に拒否する権利はない」


「‥‥‥‥」





もう何を言っても無駄だと覚悟を決めようとした時、時雨の携帯が着信を告げた。






「あ?何だと?」



とても不機嫌な声だった。






「今何時だと思ってる。そんなの海にでも沈めろ」




‥‥一体何の話だろう。知りたくもないけど。



壮大な舌打ちと共に携帯を切ると、脱いだ上着を着直す。








「少し出てくる」


「‥‥分かった」




どこに?とは聞きたくなかったし、聞けなかった。







「大人しく待ってろ。うろちょろするなよ、いいな?」


「うん」


「すぐ戻る」





最後にそう言い残すと足早に部屋から出て行った。



あの感じだと、組内で何かあったのだろう。



珍しいことでもない、よくある事だ。



慣れない部屋に1人取り残されるとソワソワとして落ち着かなくて、普段は全く見ないテレビを付けて気を紛らさせた。



そういえば、外泊するのは初めてだ。



特にすることもなくてシャワーを浴びようとすると、不運なことに水しか出ない。



まさかそんな不具合が起こるとは思わずに、思い切り冷水を浴びてしまった。



スタッフを呼んだが、修理が終わるまで少し時間が掛かるとのことだった。





「‥‥寒い」



冷水を浴びたせいで体が冷えてしまった。



着込んだところで体の芯が冷えてしまっているから意味がない。



‥‥仕方ない、大浴場を使うか。



極力行きたくはなかったけど、待つだけの余裕もない。







『うろちょろするなよ』





部屋を出る瞬間、頭をよぎった時雨の言葉。



一度足を止めたが、ホテルの中だし大丈夫だろうと深く考えもしなかった。





ーー私は、浮かれていたんだ。





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