妬み

第18話




ベッドの上で書類に目を通している若。



その膝の上で、安心しきったようにすやすやと眠っている小夜さん。



その光景を見て安堵した。







「ただ今戻りました」


「ああ、悪いな。用があったわけでもないのに」


「‥‥いえ」




小夜さんを若の元に連れてくる際に、組に着いたら席を外すようにと言われていた。



そのため、不安がる小夜さんの元から離れたのだった。






「お前がいると、こいつが縋りついて話にならないからな。普段はそれで構わない。寧ろ、頼る相手がいる方が望ましい。だが、それが当たり前になってしまっては小夜のためにならない」





小夜さんから敢えて離れることを疑問に思っていることを察したのか、事の経緯を伝えられた。






「小夜にはすぐに溜め込む癖がある。偶には吐き出させてやらねぇとすぐに壊れるだろう。その役目は、俺にしかできないからな」


「おっしゃる通りです。自分は寄り添うことしか出来ませんから」


「普段はそれでいい。毎回刺激するようなことをしては返って逆効果だ」




若が小夜さんの頭を撫でると、気持ち良いのか口元を緩めた。



その姿を見て、ふと初めて会った時のことを思い出す。



以前の若は、組には仕事以外では殆ど姿を見せず、自分の部屋にさえもいないことが多かった。



女の元を転々としたり、どこかに姿を消したりと神出鬼没だった。



そんなとある日、今までで一番長い間姿を眩ませていた若から迎えを頼まれた先に、彼女はいた。



服の上から見ても分かるくらいに痩せ細った体、青白い顔、影のある表情。



今にも事切れそうなほどに弱々しい女。



そして、その女をまるで壊物を扱うように抱える若。



一夜と経たずに女を切り捨てる若からは、想像もできないような異様な光景だった。



『その方は‥‥?』




あまりの奇妙さに尋ねずにはいられなかった。



あの若が、家に、ましてや自分の部屋に他人を入れるなんて考えられない。



それどころが、自身のベットに寝かせるなど。



見覚えのない顔だ。



組の関係者というわけでもあるまい。



その類の人間を、若は嫌悪しているのだから。



生死を疑うくらいに、消え入りそうな寝息を立てる女はただの堅気にしか見えなかった。







『今日からここに置く』





告げられた言葉を容易に理解できるはずもなく、返事をするまでに時間が掛かった。







『部屋から出ないように見張ってろ』


『了解しました』




状況が飲み込めないながらも、言われるままに女の住んでいるアパートを解約し、アルバイトも全て辞めさせた。



そのせいもあってか、意識のないまま連れてこられ、挙げ句の果てには部屋に監禁された女は初めの頃は物凄い反発していた。



逃げたところを連れ戻す度に恨めしく睨みつけられて、かなり嫌われていたものだ。



「‥‥無名?」



寝ぼけているのか、とろんとした目で見上げてくる小夜さん。



その眼差しからは、以前のような負の感情は感じられない。







「帰ってきてたの?」


「はい」


「‥‥ねえ、もっとこっちに来て」




身を起こすと、手招きして呼ぶ。






「さ、小夜さん?」




近づくと、何故か抱きつかれた。






「疲れた顔をしてる。ちゃんと休まないとダメよ?」


「あの、この体勢は」





良くないんじゃ‥‥?



ちらりと横目で若を見るが、気にも留めずに書類に目を通していた。







「よしよし。いい子いい子」




‥‥これは、完全に寝ぼけているのだろう。



あやすように頭を撫でられながら、もう好きなようにさせようと身を任せる。







「ねんね、ねんね」




寝かしつけようとしていた小夜さんの方が先に眠ってしまい、自分にもたれ掛かって再び寝息を立て始めた。



どうしていいか分からずに身を固めてその様子を見ていると、隣に座っていた若が低く笑った。






「随分と懐かれたな」


「‥‥いえ、私は」


「今日はもういい。そいつが満足したら部屋に戻って休め。なんならここで休んでもいいが」


「そういうわけには‥‥」



主人のベッドで眠るような失態は、二度と繰り返してはならないだろう。











「別に構わない。お前なら気にしない」


「‥‥‥‥」





中腰のまま抱きつかれていたが、この状態のままでは体勢がきついだろうとベットに腰をかけた。



‥‥温かい。



小夜さんの体温だけでなく、心の中までポカポカとした感覚がする。



若がいて、小夜さんがいるこの空間が自分の〝居場所〟のような気がしてむず痒さすら覚える。



ずっとこの場所にいたいと思ったのは、生まれて初めてだった。







「若も、どうかお休みください。ずっと働き詰めでいらっしゃいますよね?」


「俺は休めるときに休んでいる」


「しかし‥‥」


「人の心配をする暇があったら、もっと自分の体に気を使え。お前、いつも3日で終わらせるような仕事をたった1日でやってくるだろ。急ぎでもないのに、寝る間を惜しんでまでする必要はない。そんなことをしていたら身が持たないぞ」


「‥‥‥‥」


「早死でもする気か?俺より先に死んだら許さないからな」


「‥‥はい」





仕事先で倒れて、若にご迷惑を掛けただけでなく、小夜さんにも看病してもらった時に言われたことが頭に浮かんだ。





『無名。時雨も私も、あなたのことを大切に思ってるの。だから、もしも何かあったら凄く心配するし、何より悲しいのよ』






ーー不思議だ。



2人ともそんなに歳も離れていないのに、大人びて見えるし、言葉に重みを感じる。







『お前はそれでいいのか?その生き方で、本当に幸せなのか?もっと自分を大切にするべきじゃないのか?』





あの、優しいだけの男とは違う。



今まで上辺だけの哀れみをかけてきた人たちとも違う。




「ーー若、私の命はあなたのものです。この身も心も、全て」


「何を今更」


「もし、今後何かが起こって、私の行動が若の望む形ではなかったとしても‥‥」





そっと目を閉じた。






『このままではいられないわ』





分かっている。



それは、若も分かっているはずだ。






『その時が来たらーー手伝ってくれるわよね?無名』





胸にふつふつとした感覚。



これはきっと怒りだ。







「私は、未来永劫死んでも尚、あなただけに忠誠を誓います」


「あの女から何か言われたか?」


「‥‥‥‥」


「まあ、答えなくとも分かるが」






手にしていた書類をしまうと、身支度を済ませた若。







「好きにしろ。お前が誰のものであるのかを忘れない限りはな」





若がいなくなった後、小夜さんを抱えたまま上半身を倒し、天井を仰いだ。





このままではいられない。




それは分かっている。




けれど、この居場所に、この温もりを手放したくないと思ってしまう。






〝このままではいられない〟




その言葉が心に重くのしかかった。

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