第16話





痛い、痛い、痛いっーー。



体中に突き刺さすような痛みが走り、蹲ってなんとかやり過ごした。



どうして体がこんなに痛むのかと思考を巡らせれば、意識を失う寸前の出来事がフラッシュバックして寒気がした。



‥‥生きてる。



死なずに、済んだんだ。



銃で撃たれそうになったあの時よりも、恐ろしいと思うのは何故だろうか。






「おい」




物思いに耽っていたせいで気がつかなかった。







「誰にやられた」




不機嫌な重々しい声。



怒りを押し殺すかのような声色に、視線を合わせることすら躊躇する。







「言え」




辺りの空気が凍り付いたかのようにぴんと張り付く。








「早く言え」




冷気を放つ時雨は、苛立ったように、急かすようにそう続けた。








それに酷くーー腹が立った。




ドロドロとした負の感情が込み上げてきて、爪が食い込むほどに強く拳を握る。



言ってやりたいことは山ほどあった。



怪我をした相手に対する最初の一言がそれなの?


もっと他に言うことがあるんじゃないの?



誰のせいでこんな目に合ったと?



それなのにどうしてそんなに苛立ってるの?



怒りたいのは私の方なのに。







「口は聞けるんだろ?なら早く答えろ。こっちは暇じゃねぇんだよ」




この男は、一体何様のつもりなのか。



どうして私が責められないといけないの?



そもそも、時雨が私に干渉しなければこんなことにはならなかったのに。






「おい、いい加減にしろよ」




私の気持ちなんてつゆ知らず、逆撫でするかのような物言いに自分の中の何かがプツンと切れた。



「〝誰〟って何が?」


「は?」


「〝誰〟にやられたって、何を根拠に言ってるの?」





私の様子が変なことに気付いたらしい時雨が、怪訝そうな目を向ける。



その視線が、余計に私を苛つかせた。







「誰にも何も、足を滑らせて転んだだけなんだけど。それなのに何、何も知らないくせに私が誰かに危害を加えられたと勝手に決めつけてっ!」


「お前、何を言ってーー」


「それに何をそんなに苛々してるの?どうして私が責められないといけないの?私が何か悪いことでもしたっていうの?」





これが本当に私の言葉だろうか。



そんな疑問が浮かぶほどに、自分でも知らずのうちに勝手に喋ってしまう。






「そんなに時間がないんなら私のことなんて放っておけばいいでしょ?そんな面倒くさそうな態度をとるなら、ここにいなきゃいいでしょ?」




話す度に体中が痛む。



だけど、そんなことも忘れてしまうほどに怒りで我を忘れていた。







「‥‥転んだなんてそんなふざけた嘘が通用すると思ってんのか?」


「嘘じゃないからっ」


「仮にそうだとしても、そこまで大怪我するわけないだろ」


「そんなことなんであんたに分かるのよ!現にこうなってるじゃない!」


「戯言を言うのも大概にしろ。どんな転び方したら正面から倒れてそんなに顔に傷が出来るんだ」


「‥‥は?」


「鏡を見ろ、鏡を」






釈然としないながらも近くにあった鏡で自分を見て、言葉を失った。



何箇所も縫ったような跡があるし、顔中が痣やら腫れやらで見られたものじゃない。



自分でも自分だと認識できないほどに、醜いものだった。



今まで自分の容姿を気にしたことはない。



気にする余裕もなかったし、何より気にするだけの価値もなかったから。



だけど、そんな私でさえも思わず両手で顔を隠してしまうほどだった。



醜い、見苦しい、汚い。



まさにーー今の自分自身だ。







「つまらない意地を張ってないで答えろ。誰にやられた」


「‥‥つまらない?」


「ああ、そうだろ?誤魔化したところで何になる」


「そうよね。あんたに私の気持ちなんて分かるはずないわよね」




こんな、取るに足りないちっぽけなプライドなんて。



時雨になんて、到底理解出来るはずがない。







「ーー出て行って」


「‥‥あ?」


「早く出て行ってっ!」




ヒステリックに叫んだ私に、見限ったように溜息を吐いて立ち上がる。







 

「そうかよ。ならもう勝手にしろ」




うざったそうに言葉を吐き捨てた時雨が出て行った後も、暫く荒ぶる感情を抑えきれなかった。




どこかで期待していたのかもしれない。



虐げられる私の様子を外野から嘲笑い、時には同情するかのように見ていた人達。



そんな、酷く滑稽で無様な私を時雨は知らないって。



そんな過去があったとすら思わないだろうって。



けれど、時雨の態度を見て勘付いてしまった。



時雨は私が今までどんな目に合って、どんな惨めな生き方をしてきたのか知っている。



私が虐められていたことも、底辺な存在だったのかも。



それが恥ずかしくて、居た堪れない。




誰かに危害を加えられたと容易に思い付かれ、何の疑いもなく決めつけて、それを追求してくる時雨の全てが屈辱でしかなかった。



時雨みたいに、誰からも慕われて、何でもできて、常に中心にいる人間に情けをかけられることが、私の中で捨てきれなかった尊厳ってやつを見る影もなく引き裂いた。



もしあの時、私が本当のことを答えて犯人を言えば間違いなく何かしらの報復をしただろう。



それが容易に想像できてしまう。



それが嫌だ。嫌で嫌で仕方ない。






私は、大学に来たことで何かが変わった気がしていた。



誰からも虐められることも見下されることもなく、普通の生活を送っていると。



だから無理をしてでも大学に通い、寝る間も惜しんで働いていたのに。



‥‥結局、何一つ変わっていなかった。



彼女達に囲まれただけで、反抗することもできずに虐げられるだけの情け無い自分に戻ってしまった。



そこで思い知った。



私は、ある意味時雨に助けられていたことに。



時雨が側にいたからこそ、彼女達は表立って私を虐めることができなかったんだろう。



だけど、我慢の限界が来たんだと思う。



彼女のことだ、自分よりも底辺の存在に想い人をとられていてもたってもいられなかった。



だから、こんな真似をした。



何故こんな無謀なことを?そんなの、考えなくても分かる。



どうせ私が彼女だと気づくことすらも想定内だったのだろう。



それでも、私が彼女だと言えないことを知っていたんだ。






何よりも嫌だったのは、時雨からの〝大丈夫か?〟の一言を期待していた自分だ。



時雨に守られている環境で、時雨に縋るような心の弱さに吐き気がする。





悔しい。



悔しくて悔しくて堪らない。



時雨に縋ってしまいそうになったことが、無様な姿を見られたことが。



八つ当たりのように、怒鳴り散らしてしまったことが。







ーー分かっていたはずなのに、知っていたはずなのに。




それを時雨に見られたことで、より現実味が湧いてきたんだ。



自分の立場ってものを。








あまりにかけ離れている。



あまりに違いすぎている。





その事実が、私の捨て切れなかったちっぽけなプライドを粉々に打ち砕いた。






「小夜さん」


「‥‥」


「小夜さん、入ってもいいですか?」


「‥‥うん」


「どうしました?痛いですか?医者を呼んできましょうか?」





無表情で一点を見つめたまま、ピクリとも動かない私に、優しく声をかけてくる無名。



どこか諭す様な言い方を不思議と不快に思うことはなかった。



無名は私を無様だとか、醜いだとかは思わないだろう。



そんな確信があったからだ。



無名なら、私がいくら滑稽でも笑ったりしなければ中途半端な同情もしないだろう。



無名の顔を見て、少しだけ気が和らいだようだ。






「ちょっと、来て」


「これでいいですか?」


「もっと近く」


「あの‥‥小夜さん?」




何かに縋りたくて、近づいてくれた無名にそっと抱きついた。




「大丈夫、じゃないですよね?」


「‥‥うん」


「痛かったですか?」


「‥‥うん」


「怖かったですか?」


「‥‥うん」


「今も、痛むでしょう」


「‥‥うん」





本当は、呻き声を上げそうなくらいに痛い。



気を抜けば、泣き出しそうなくらいに痛くて堪らない。









「側にいますよ」


「‥‥‥」


「泣き止むまで、ここにいます」


「‥‥‥」


「小夜さんが望むのなら、いつまでも一緒にいます」


「‥‥‥」


「だから、泣いてもいいんですよ」


「ーーっ」






労わるように優しく背中を撫でる細い手。



包み込むように背中に回された腕。



触れた箇所から伝わる、少し低めの体温。



その全てが、身も心も穢れきった私の全てを受け入れてくれているようで、心地が良い。



ドロドロとした感情が溶け去っていく。



まるで、無名に浄化でもされているようだ。




はらはらと溢れ出した涙。




込み上げてくる嗚咽。




気がついた時には、無名にしがみ付いて泣いていた。



‥‥かつてないほどに泣き喚いた。




全てを曝け出すように、吐き出すように泣き叫んだ。









声を枯らしながらも泣き続ける私を、無名はいつまでも抱きしめてくれた。




無名の優しさに包まれながら、私は深い眠りへと落ちていったーー。



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