第13話





ただでさえ免疫力の低い人間が、付きっきりで病人の看病をしていたらどうなるかなど、考えなくても分かるだろう。


移した無名はすっかり本調子に戻り、逆に移された私はというと、40度近い高熱を出して寝込んでしまっている。



意識が朦朧とする中、私の顔を覗き込んだ無名の顔が忘れられない。



酷く申し訳なさそうで、それでいて心優しい無名は不可抗力ながらも私に病気を移してしまったことに傷付いてるようだった。



何度も何度も謝罪する無名に、〝大丈夫だよ〟と〝気にしないで〟と一言でもいいから声を掛けてあげたかったのに。



今の私には、握られた手を握り返すだけの力も残ってはいなかった。



体温は異常なまでに上がっているはずなのに、さっきから寒気が止まらない。




寒い、寒い、寒いっーー。




大袈裟だと思われるかも知れないが、凍え死にしそうなくらいに寒くて仕方がない。



縋るように伸ばしたその手は、今も昔と変わらずに虚無を掴むものだと決めつけていた。






ーーそれなのに。








「なんで‥‥いるのよ」




こんな弱り切った時に、こいつの相手なんかしたくないのに。








「ここは俺の部屋だが」


「出てってよっーー」





大嫌いだ。



自己中で独善的で、私の全てを支配する傲慢で傍若無人な男なんて。








「なら手を離せよ」




そのくせ、こうして私がいて欲しいと思う瞬間に、して欲しいと思うことを軽々と遣って退ける皮肉なヤツ。




繋がれた手を、握り締めているのは私の方だった。









「ーー嫌いっ、あんたなんて大っ嫌いよっ!」






熱に魘され続け、制御できない感情が溢れ出す。



胸ぐらを掴んで叫ぶと、今度は泣き噦ってその胸に顔をうずめる。







「‥‥どうしたんだよ」




いつもとは違う声色。



威圧するような声ではなく、静かな声だ。







「情緒不安定になるほどに辛いか?」


「‥‥」


「いつもの虚勢を張れないほどに?」


「‥‥」




まるで、幼い子を諭すような言い方だった。









「‥‥なあ、俺の名を呼べよ」


「‥‥」


「呼んだら、楽にしてやる」


「‥‥時雨」




言い終わる前に引き寄せられた体は、そのまま深く抱き込まれた。








「寝ろ」




間近で聞こえるその声に、安心感を覚える。



不意にも、泣きそうになってしまった。








「起き上がっても平気なんですか?」



「うん。もうすっかり治ったから」





3日ほど高熱に魘されていたせいで、無名には随分と心配をかけてしまったようだ。



その間、ずっと付き添って看病してもらっていた。



ベッドから起き上がり大丈夫だと伝えると、安心したように頷いた。








「そういえば、時雨って帰ってきてたの?」


「‥‥いえ」


「いつから?」


「ーーえっと。小夜さんが寝込む前からです」






珍しいこともあるものだ。



どんなに忙しくても絶対に帰ってくるのに、こんなに帰って来ないなんて。






「仕事?」


「ちょっと、野暮用があるみたいで‥‥」





私としては、帰ってこなくても全然構わないんだけど。







ーーどうも、とんでもない醜態を晒したような気がしてならないんだ。




喚き散らして八つ当たりをしたような‥‥そんな記憶がぼんやりとある。




でも、無名が帰って来ていないというのなら大丈夫だろう。



夢で良かったと、胸を撫で下ろして安堵した。







目の前に並ぶヘルシーな料理の数々。




状況が理解できずに、無名と目を合わせて互いに首を傾げる。



いつもは食べきれないほどの見事な季節感溢れる日本料理が出てくるけれど、今日は違った。



量もいつもの半分以下で、全体的に野菜が多い。






「早く食べろ。残したらただじゃおかないからな」




腕を組む時雨が見張るようにして目を光らせている。







「‥‥あの、これは?」


「見て分かるだろ」


「なんか、いつもと違うような気がするんだけど」


「うちには不健康な生活を送り案の定寝込んだ馬鹿が2人もいるからな。特別に作らせた」


「‥‥」


「拒否権はないぞ。最終手段としてはその口こじ開けてでも食わせるからな」






時雨に従順な無名が抵抗なんてするはずもなく、さっそく食べていた。



それを横目で見ながら、ここに連れてこられた当初、反抗心から断食をして倒れて、時雨に無理矢理食べさせられたことを思い出す。



窒息死するかと思うくらいに強引に突っ込まれるから、苦しさのあまり殺されるんじゃないかと思ったくらいだ。



あれは、食事というより息の根を止める行為だった。






「待って、食べるから。ちゃんと食べるから」





抵抗すると思われたのか、立ち上がって近づいてくる時雨を必死で止める。






「なら、早く食べろ」




席に戻り、目を閉じた時雨。



その姿を見て安心した私は、溜息を吐くと近くのスープを飲んだ。







「これから毎日、似たような食事を3食用意させる。一回でも残したらーー分かるな?」




食事を終えたのを見計らい目を開けた時雨は、そんな脅し以外の何ものでもないことを告げると、げんなりとする私を何故か抱え上げて部屋に戻った。



ベットに降ろされた私は、することもなく時雨がシャワーを浴びる音を聞きながら天井を見上げていた。



久しぶりにまともな食事をした気がする。



寝込んでいる時はとてもじゃないが食欲なんて湧かなかった。



それに、過去のこともあり、人一番胃が小さくて食べる量が少ない。



無名と同じで、食べなくても平気な方だ。



というより、自主的に食べることがあまりない。



出されたら食べるとか、言われたら食べるくらいで、正直なところ、食べるという行為の必要性を感じない。



生きていくためには必要だと分かる。



けれど、生きたいと思っていない私からすれば、そんな生理現象すら湧かない。





これでは、まるで廃人だ。



無名にあれこれと言えた義理ではないなと、自嘲した。



濡れた髪を無造作に拭きながらベットに腰掛けた時雨。



毎度のことながら、上半身裸でうろうろするのはやめてほしい。



とはいってもここはこいつの部屋だし、今寝転がっているベットすらもこいつのものだ。



だから、思っても口に出したことはない。







「何見てんだよ」


「‥‥別に」




引き締まった体、整った顔、優れた頭脳、そして絶対的な権力。



そんな性格以外は優良物件な時雨を周りが放っておくはずもなく、常に女性との噂が絶えなかった。



何度か女性といるのを見かけたことがあるが、その全てが目を惹くような綺麗な人ばかり。



それなのに、どうして私みたいなのを囲っているのか謎でしかない。




そんな時雨が、どうしてあの時〝孤独〟に見えたのだろか。



傘も差さずに佇んで雨に打たれる姿は、不確かで、不透明で、虚無感に染まっているように思えたんだ。







だから、





『傘、使う?』





一番関わりたくない人種を相手に、つい声を掛けてしまった。



「ちょっと、何?」




不意に手を伸ばしてきたと思えば、服の中に手を入れて何かを確かめるように触り出す。



時折、ほぼ皮しかない肉を掴んでは眉間に皺を寄せる。





ーー何?何なの?何がしたいの?








「人が苦労してつけてやった肉を減らしやがって」


「‥‥は?」





何故肉付きの話?



私は家畜か?






「鶏ガラは嫌いなんだよ。程よい肉つきにしろ」


「意味が分からないんだけど」


「抱き心地がさらに悪くなんだろ」





‥‥ああ、そういうこと。



というか、〝さらに〟って何よ。



文句があるなら抱かなければいいでしょ?



そもそも、痩せたのは熱のせいで食欲がなかったのと吐いたりしてたせいだから、こいつにとやかく言われる覚えはない。



いつもは無駄に家にいるのに、人が苦しんでる時に限って狙ったようにいなかったくせに。



実際、私がどんな目に合おうがこいつは気にも留めないだろうから、敢えてうつされないように来なかった可能性すらもあるんだ。




「もっと痩せたら、抱く気も失せるでしょうね」




色々と言いたいことはあるが、こいつの場合は逆ギレされて私が酷い目に合うだけだ。



それでも黙っているのは癪で皮肉を言ってやった。






「安心しろ、骨だけになっても抱いてやる」



それなのに、そんな皮肉を軽々と受け流した。



しかも、狂気でしかない言葉と不敵な笑みを浮かべて。






「それ、もう死んでるじゃない」


「例え死んだとしても、離してやる気はさらさらない。だから、馬鹿みたいなことはするなよ」




この男は、どうしてここまで私に執着するんだろう。



自分に興味を向けない女が珍しかったとか、気に入らなくて、意地になって手元に置いているとか、そんな安直なことをするやつではないのに。







「熱は?」


「とっくに下がった」


「そうか」




義務的に告げると、私をベットに押し倒した。



いつもなら再起不能になるまでに抱き潰されるが、今日は珍しく起き上がってシャワー浴びるだけの体力が残っていた。



先に風呂場に向かった時雨と入れ違いで部屋に戻ると、背を向けて横になっていた。



どうやら疲れているらしい。



無理もないか。



長いこと家を空けていたばかりだというのに、また3日も帰って来なかったのだから。



体力が未知数な時雨も、さすがに疲労が溜まるはずだ。







「眠いの?」


「別に」



こんな時でさえも、この男には可愛げなんてものは無縁なようだ。







「無名をお前につける。俺がいない時はあいつの部屋にいろ」


「別に構わないけど、どうして急に‥‥」


「今回の件で、お前も無名も馬鹿みたいに死に急ぐタチだと改めて思い知った。だから、お前に役割を与えることにした」


「役割?」


「無名を人間にしろ」




突拍子もない話に唖然とした。






「あいつには〝個〟ってものがない。全てはあいつの中での普通の人間ってやつのイメージを、見様見真似で演じているだけの〝器〟でしかない。その上、自己犠牲が過ぎるときた。今のままでは、そう遠くない内に限界が来る」


「それで、私に何ができるの?」


「お前と無名は所謂生き写しだ。互いが互いの鏡のような存在。だからこそ、何が必要で何が欠落しているのかを嫌ってほど理解できるはずだ。その連鎖の末に、無名に〝人間性〟を見つけさせろ。それは、お前にしかできないことだ」


「‥‥」


「現に、あいつはお前といる時が一番人間らしくいられるようだしな」


「‥‥」


「俺相手だと、主従関係という前提が壁となる。俺が何を言ったところで、ただの命令と化す。それでは意味がないんだ。あいつがあいつ自身で変わらねぇと」


「大切なのね、無名のことが」





こんなに饒舌な時雨を初めて見たかもしれない。









「当たり前だ。あいつは俺の、唯一無二の直々の部下だからな」








その言葉の裏にある、時雨の抱える闇。



それに今の私が気付くことはできなかった。

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