第9話



よくあることだが、ふとした瞬間に昔の家にいることがある。



いるといっても、本当にそこにいるわけではなく、言うなれば意識だけがそこに取り残されているような錯覚を覚えるのだ。



夢というにはリアルすぎて、現実というにはあまりに不確か。



それはまるで、夢と現実の狭間の世界を行き来しているようでーー。



その度に、私は私という存在が何処に居るのか、一体何者なのかが分からなくなって怖くなる。






『‥‥‥っ』




遠い場所から誰かの声がするが、くぐもっているせいで聞き取れない。





キーンと耳鳴りがした。



それだけではない、息が苦しくて息を吸い込もうとするのに、ヒューヒューやゼイゼイとする音がするだけで一向に呼吸ができない。



時折激しく咳き込み、生理的な涙が溢れる。



冷たい床の上、見慣れた玄関のドア前で横たわる小さな体。



これはーー昔の私だ。



呼吸器を握りしめて、苦しみに耐えながらも私はその場を動こうとはしなかった。



今日も、帰って来ないんだろうか?



最後に姿を見たのはいつだっただろう。



随分と家を空けている母に想いを馳せながら、目を閉じた。







寒いよ。


寂しいよ。


お腹空いたよ。


辛いよ。


苦しいよ。


悲しいよ。






‥‥助けて、助けてよお母さん。







喘息の発作が出る度に、こうして母に助けを求めるように玄関の片隅で待っていた。



苦しく苦しくて、このまま死んでしまうんじゃないかと思うくらいだった。



それでも、〝母が帰ってくるかもしれない〟〝今の私を見たら気にかけてくれるかもしれない〟とそんな馬鹿らしい願望だけが頼りだった。



普段ならまだ我慢できる。



だけど、こうして肉体的にも弱ってしまうとこたえてしまう。



長年培った負の感情が、一斉に押し寄せてくる。







どうして帰ってきてくれないの?



どうして私を独りにするの?





こんなにも苦しいのに、


どうしてここにいてくれないの?







抱きしめてほしいのに、


名前を呼んでほしいのに、


笑いかけてほしいのに、


側にいてほしいのに、どうして?






ーーねぇ、どうしてなの?




『‥‥ヒック。おか‥‥さん。お母さんっ』


『‥‥い』


『‥‥ゲホッ‥‥ゲホッゲホッ‥。‥たす‥けて』


「おい」






子供みたいに泣き噦った。



咳き込みながらも、必死に母を呼んだ。



誰もいない、静まり返った家に私の声だけが響いた。







「小夜」




やけに鮮明に聞こえた声。



その声には、とても聞き覚えがあった。






〝小夜〟



それは、私の名前だ。



母がくれた名前。




それなのに、一度も呼ばれたことのない、私の‥名前。








私を産んだのはお母さんなのに、私に名前をくれたのはお母さんなのに、どうしていないものとして扱うの?



一度だって、一瞬だって、母の視界に入れてもらったことすらない。



抱きしめられるどころか、触れられたことだってない。






要らないの?嫌いなの?私が、邪魔なの?









なら、どうして私を産んだの?




何のために私はここにいるの?




「おい、しっかりしろっ!」





耳を劈くほどの大声に、奈落へと沈みかけていた意識が引き戻された。








「息吸え!」




言われるままに息を吸い込むと、真っ白になっていた頭に酸素が行き渡る。



まともに思考が働かず、聴覚も視覚も定まらず、ここが何処で、夢なのか現実なのかも定かではない。



だが、その声には何故か反射的に従ってしまう。








「まだだ」


「‥‥っ」


「もっと吸え」




何度も何度も繰り返し呼吸をしていると、口に当てられたものが自分の呼吸器であることに気づいた。



落ち着いてくると同時に激しく咳き込めば、大きな手が優しく背中をさする。









「落ち着け」


「‥‥っ」


「もう、大丈夫だ」






諭すように〝大丈夫だ〟と繰り返す声色は、普段からは想像できないほどに穏やかなものだった。



「なあ、小夜」




腕の温かさに涙が溢れた。







「どうして〝あの女〟なんだよ」




不機嫌な声で、責めるような言い方をする。








「どうして俺の名を呼ばない?」




拗ねたように言うと、髪を梳くように撫でた。









「お前の側にいるのは俺だろ?」




温もりを求めるようにしがみ付くと、抱き締める力を強めてくれる。




ーーああ、これが現実だったらいいのに。








「俺を、頼れよ」




意識が‥‥遠退いていく。









「そうしたらーー」





らしくもなく、切なさを含ませて呟いたその言葉を、聞き取ることはできなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る