彷徨う

第8話

時雨から解放されたのは、無名が退院して一之瀬組に帰ってきてからだった。



その頃には長期休暇は終わり、大学は始まってしまっていた。



疲労のため、何日か死んだように眠っていたこともあり溜まっていた課題に追われている。







「おお、早かったな」




研究室に入ると、私を見て感心するような声を出す若い男性。



若い、といっても20代後半だけど。








「課題を持ってきました。すみません、遅れてしまって‥‥」


「ん?期限もないし全然構わないぞ。そもそも出すやつの方が少ないからな〜」





ぎん先生は相変わらずのゆるさだ。



そのゆるさのあまり学生からは〝ギンギン〟なんて呼ばれ方をしているし、基本的にタメ口で完全に舐められているとしか思えない。


出席さえしておけば単位は必ず取れるというのはさすがにどうかと思ったが、それなりに筋の通っているところがあり、一度教室が騒がし過ぎて授業にならなかった際に、雑談を交わす生徒に向かって怒った時があった。






『履き違えるな、単位目当てに適当に授業を受けるのはお前らの勝手だが、それで真面目に授業を受けてるやつの妨害していい理由にはならない。邪魔をするなら出て行け、幾ら成績が優秀だとしてもお前らにくれてやる単位はない』




声を荒げるわけでも、怒りを露わにするわけでもなく、冷淡にそう言い放った銀先生は不意にも格好良くて。



その時のこともあってか、生徒間ではかなり人気があるらしい。



「それにしても肉付きよくなったなぁ、星宮ほしみや。細いのは相変わらずだが、前はほぼ骨と皮だけだったもんな」





一見失礼な言い方に聞こえるかもしれないが、これは私と先生との親しさからだった。



銀先生には随分とお世話になった。



時雨と関わる前、バイトや講義に追われてまともに寝れずに、ご飯を食べるだけの余裕もなくて廃人のようになっていた私を気遣い、よく買い過ぎたなど色んな理由を付けては、昼食を分けてをくれていた。



ゼミに親しい人がいなくて、休んだ時の連絡も個別にしてくれたりと、先生には感謝してもしたりない。



ゼミの先生だからといって、普通ならここまでしてくれないだろう。




私が大学に通ってこれたのは、間違いなく銀先生のおかげだった。









「ああ。それに、雰囲気も少し変わった気がする」


「‥‥気のせいですよ」


「そうか?前はもっとピリピリしてる感じだったけどな」


「あの時は、色々と切羽詰まっていたので」


「そうかそうか。今は違うんだな」





それは断じて認めたくないところだ。



あいつに支配されることで、私に良い影響があるなんてことは決して認められない。









「大事にされてんだな、良かったよ」





一瞬、何を言われたのか理解できなかった。







「‥‥何を、言ってるんですか?」


「一之瀬のことだよ。最初はどうなるかとヒヤヒヤしてたんだが、今の星宮を見て安心した」





大事にしてる?時雨が‥‥私を?



そんなことあるわけがないのに。



先生は勘違いしてるんだ、私たちの関係を。







「ほら、星宮が入学したばかりの頃に、一之瀬とゼミが一緒だからってプリントを渡すように頼んだことがあったろ?あの時に俺に言ったこと覚えてないか?」


「いえ、全然全く‥‥」


「『彼とは関わり合いになりたくないので他の人に頼んではもらえないでしょうか?それに、私が渡したところで彼は受け取らないと思います』って」




言ったような、言ってないような‥‥。







「あれさ、一之瀬聞いてたんだよ」


「‥‥え?」


「たまたま俺に用があって来てたんだ。まあ、星宮は全く気づいてないようだったが」


「‥‥少しも気付かなかったです」


「入れ違いになる時に、思いっきりすれ違ってたけどな」





あれほど存在感のある時雨に気付かないとか、あの時の私はどれだけ追い詰められていたんだろう。



「それが気に食わなくて星宮にちょっかいを出してんのかと思ったが杞憂だったな」





それ、絶対杞憂じゃないと思う。



時雨のことだ、全てを自分の思い通りにしないと気が済まないタチだから、唯一反抗する私を支配することで支配欲を満たしているのだろう。



誰もが己を恐れ、従い、尊敬の意を抱く。



それが当たり前だったからこそ、私のように何の関心も抱かずに反抗する態度がさぞ珍しく、同時に腹立たしかったに違いない。



だが所詮は、その支配欲も独占欲も一時の感情に過ぎない。



時が経つ、あるいは満たされてしまえば消え失せ、残るのは無関心だけ。









「‥‥噂をすればってやつだな。ほら、〝帝王〟のお出ましだぞ」




この大学に〝帝王〟だなんて時代錯誤な呼ばれ方をしているのは一人しかおらず、溜息を吐いた。







「おせぇんだよ」



案の定、不機嫌丸出しの時雨が立っていた。







「私、別に待っていてと言った覚えはないんだけど」


「あ?」


「いや、〝あ〟じゃなくて」





正論を言っているはずなのに、俺様時雨様は眉間の皺を深くしていく一方だ。






「お前もちゃんと課題を出せよ。俺は誰が相手でも贔屓しねぇぞ?」


「ンなのいちいち言われなくても分かってんだよ」


「先生にはちゃんと敬語使えろ」


「俺限定でそんなこと抜かすのは、贔屓ってやつじゃねぇのかよ」


「ったく、冗談が通じない相手だな」







流石は銀先生と言うべきか、あの時雨が口を利くなんて‥‥。



「行くぞ」




散々待たされて痺れを切らせた時雨が、私の腕を引いて歩き出す。



「気をつけてな」と笑顔を向ける銀先生に軽く頭を下げて時雨の後に続いた。



会話もなく歩みを進めていると、不意に騒がしい声が聞こえ数人の学生とすれ違えば、一人の女が私を見た。




ーー否、見たなんて生易しいものではない。



冷たく、それでいて射抜くような鋭い眼差しだ。



だが、ほんの一瞬のことで友人から話しかけられると、何事もなかったように笑顔で答えていた。



時雨といれば、こうして負の感情を向けられることは少なくない。



一々気にしていると身が持たないため見て見ぬ振りをしているが、あの女は例外だった。



いくらその存在を自分の中で消そうとしても、無理だ。



いくら〝無かった〟ことにしようとしても、あの女にされたことは一生忘れることはできない。







「おい、どうした」




突然足を止めて動かなくなった私を不審に思ったのか、振り返って怪訝そうな顔をする時雨に我に返った。









「‥‥別に。早く帰りましょう」





釈然としない様子の時雨の腕を、今度は私が引くような形で歩き出した。

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