第5話
「あらあら、人形が人の真似事をしているようね」
甲高い、耳障りな女の声がした。
はっとして振り返ると、30代後半くらいの派手な装いをしている女が、異質な雰囲気を醸し出す男達に守られるようにして立っていた。
女は嘲笑うかのように醜く顔を歪ませて、蔑む眼差しを無名に向けている。
「10年ぶりかしら、人形の分際でよくも私の手から逃げ出したわね」
〝人形〟という単語といい、無名への態度といい、嫌な予感がする。
ーーまさか、この人が無名の前の主人だった人?
「‥‥無名?」
表情を凍りつかせ、微動だにしない無名の様子は明らかに変だ。
「その小娘はあんたの新しいご主人様ってわけ?落ちたものね。まあ、落ちるほどの地位もなかったけれど。底辺の中の底辺、所詮は玩具として使い捨てられるだけの消耗品だもの」
‥‥この女、一体何様なんだ。
どうしてこんなヤツに、無名が罵倒されないといけないのよ。
「あなたの方が、よっぽど穢らわしいじゃない」
「‥‥まさかあなた、私に向かって言ってるの?」
信じられないとでも言いたげな女の態度に吐き気がする。
「今の自分の顔を見てみなさいよ、あまりの醜さで驚くはずだから」
「‥‥なんですって?」
「無名が穢れてるって?なら、無名を穢したアンタは一生かかっても落とせないほどの頑固汚れね」
自分は穢れてると言った無名の自虐げな笑みが浮かんで、怒りが激しい波のように全身に広がった。
ーー許せない。
無名にあんな顔をさせた元凶であるこの女が。
女が怒りで震え手を上げた瞬間、銃声が響き渡った。
覚悟はしていた。
相手が堅気ではないことは、容易に理解できたから。
だけど、いつまで経ってもくるはずの痛みがこない。
恐る恐る目を開けると、私を庇うようにして覆い被さる無名が視界に飛び込んできて凍り付いた。
「すみ‥ません‥。巻き‥込んで‥」
「どうして‥‥っ」
「早く‥逃げてください」
ポタポタと、血が滴り落ちる。
力尽きたように倒れた無名に、頭が真っ白になった。
「ーーあははははははっ!!分かったわ、あなたそいつと付き合ってるのね!?ごめんなさいね、私のお下がりで!!」
女の言葉になんて耳を貸す余裕はなかった。
崩れ落ちるようにして倒れた無名の体を受け止めて、必死にその名を呼ぶ。
「無名、無名っ!しっかりしてっ!」
血を止めようとハンカチを取り出すが、すぐに血で染まり役に立たない。
「ざまあみなさいっ!その娘を撃つつもりだったけど、丁度良かったわ。私から逃げた罰よ!精々苦痛を味わうといいわ!」
女は私と無名を引き離すと、凶器のような長さのヒールで腹を蹴り上げた。
「いいわ、その表情!覚悟しなさい!私をコケにしたのよ、絶対に楽には殺してやらないわ!」
痛みから蹲れば、女が狂ったように笑う。
「何をしているの、早く私の玩具を回収しなさい。壊れるまで可愛がってあげるんだから」
無名を連れて行かれてしまうというのに、痛みのあまり体が動かない。
それでも必死に手を伸ばそうとする私の手を、女が踏みつけた。
「そう焦らなくても、あなたはあなたで可愛がってあげるから安心しなさい。そうね、まずはどう痛めつけようかしら。私があのおもちゃで今までどうやって遊んできたか1から教えてあげましょうか?その体にね!」
‥‥ 狂っている、この女は。
「きっとアレへの感情なんて一気に冷めるわ。そして後悔すればいいのよ、アレなんかのために私を敵に回したことをねっ!」
踏みつけていた足を振り上げ、骨すらも砕こうと力を入れる。
無名に害をなしただけの自分の行いを恨みながら、その報いを受けようとした。
ーーその時だった。
「うちの馬鹿と阿保が呑気に出掛けたというから来てみれば、案の定厄介事に巻き込まれてやがるな」
女を遮るように声がしたのは。
「人の敷地内で何をしている」
歪む視界の中で、嫌いで仕方なかった男の姿が映り込む。
「‥‥時雨」
皮肉なことにこの瞬間だけは、その憎いはずの男の姿に安堵を覚えた。
同時に、そんな自分が酷く無様に思えた。
「どけ」
放心している女を私から突き放すと、未だに床に伏せっていた体を抱き起こされた。
いくとなく抱かれたその腕に、安心感からか思いがけず泣きそうになった。
「‥‥無名が」
縋るように服の裾を掴む。
「分かっている」
力強く答えると、我に返ったのか怒りを露わにする女と対峙した。
「どこの誰か知らないけれど、あなたまでこの私に逆らうつもり?どいつもこいつも命が惜しくないの?それとも、その命には惜しむだけの価値もないのかしら!?」
「それはお前の方だろが」
「‥‥は?」
「自分の価値も分からないゴミの話なんてどうでもいいんだよ。それよりもーー」
無表情で女に近づく時雨。
「よくも俺のものに手を出してくれたな」
状況が理解できずに呆けて立ち尽くしていた女は次の瞬間、蹴り飛ばされて近くの壁へと叩きつけられた。
「ーー貴様っ!」
今更ながらに状況を察した護衛と思わしき男達が、途端に殺気立つ。
一切に銃口を向けられても、時雨はそれをものともしていない。
「おいアバズレ、起きろ」
痛みや恐怖により身動き一つできない女の髪を、引き千切らんばかりの力で掴み上げた。
「‥こんな‥ことをして、あの人が‥黙っていないわ」
「お前のことは知っているぞ。天霧組の次期組長の女だろ」
「‥‥知ってるなら、どうしてっーー」
目を見開いて驚く女に、悪魔のような笑みを浮かべる時雨。
「天霧組とは交流があってな。こうなることはある程度予測できていたから先に手を回しておいた」
「‥‥何、言って」
「お前、近頃飽きられて相手にされてないんだってな?若いうちは良かったが、今となっては煩わしいだけであっちも迷惑がってたぞ?所詮、愛人などその程度の存在だ」
「うそ‥、そんなの嘘よっ!」
「この件を話したら迷惑料と共にお前を引き渡すと言われてな。俺のものに手を出した代償をきちんと払ってもらうぞ」
「デタラメ言うなっ!この私が捨てられるはずがないのよ!お前たち!何をしている、早く助けなさい!」
しかし、護衛の男は黙って首を振るだけだ。
何やら電話がかかってきたようで、通話を切ると焦ったように一斉に銃を下げたところを見ると、相手が誰かは明白だった。
どこから現れたのか、一之瀬組の組員と思わしき男達が車に乗せられた無名を運び出していた。
「マリア様、相手は一之瀬組の若頭です」
「一之瀬組‥‥ですって?」
みるみるうちにその瞳を絶望に染めていく女。
「いい加減目障りだ。この女を連れて行け」
「ーーいやっ!離して!離しなさいっ!一体私を誰だと思っているの!?」
喚く女をよそに、女の護衛だった男たちは時雨に頭を下げると去っていく。
「無名を病院まで運べ」
護衛を失い、途端に威勢をなくして泣き出した女になど目もくれずに私を抱えたまま車に乗り込んだ。
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