無名

第4話

大学が休暇に入ると、時雨は組の仕事で長期間留守にしていた。




それ自体は喜ばしいことではあるが、大学以外では外に出ることは許されていないためそれが無くなれば、必然的に一人で家に引きこもるような毎日になるわけで。




始めの頃は、部屋の中だけとはいえ睡眠も妨害されることなく自由を満喫していたが、それが何週間も続くとさすがに苦痛になっていった。




休暇といえばバイト漬けの日々を送るのが当たり前だったのに、時雨に支配されている今の方がそういった面では快適だというのは如何なものか。












「ねえ、無名は時雨のことをどう思ってるの?」






〝部屋から一歩も出るな〟と拷問でしかない命令をされた私は、問題ないだろうと勝手に解釈して隣の無名の部屋に入り浸っていた。



護衛兼補佐の無名だが、時雨が出かけた1週間後には戻ってきた。




理由を聞いても教えてもらえなかったが、それ自体にはさほど興味はないので追求はしなかった。











「どう、とは?」



「無名なんて名前を付けられたり、ものみたいな扱いをされたりしているのに、不満とかないの?」






24時間、常に時雨の命令に従えるようにと待機している無名。



この広々とした部屋には布団や折り畳み式のテーブルくらいしかなくて、生活感の欠片も無い。



私物らしきものは一つも見当たらないし、本当にここで生活しているのかと疑うほどだ。



例え会話がなくても誰かと一緒にいたくて、部屋の隅で膝を抱えて無名の行動を観察していたが、いつも仕事をしていて休んでるような素振りもなかった。



無名とは他人かそれ以下くらいの関係ではあるが、ここまで酷いとさすが心配になって口を出したくもなる。









「〝モノ〟である私にどう思うもありませんよ。モノはモノらしく、所有主に従うだけです」






当然のように答えた無名に溜息を吐く。



無名がこういう人だって忘れてたわ‥‥。










「私には、意思も感情も人格さえ存在しません。生まれてきてからずっとそうして生きてきました」




無名が人として欠落しているのは、この僅かな期間で察した。




前に、どうしていつも笑っているのかと聞いたことがある。




当時は時雨に弄ばれている無様な私を嘲笑っているのかと怒りに任せて尋ねたが、返ってきたのは予想していたものとはかけ離れていた。



かつての主人から〝笑え〟と命令されたそうだ。



幼すぎて何が善で悪かも分からない時期に、暴力と共に浴びせられた言葉。




それが生まれて初めて教えられたことで、それ以外に何をしたらいいかも分からずに、ただひたすらに笑顔を貼り付けていたのだという。




その話を聞いた時は、恐ろしくて仕方がなかった。




表情一つ変えずに、今もなお貼り付いたままの笑顔でそう語る無名が気持ち悪くて、顔を見ただけで嫌悪感を抱くこともあったくらいだ。




でもそれは、決して無名が悪いわけではない。




無名がそうなってしまった原因は生きてきた環境のせいだ。



私も、同じだから分かる。




それは、努力したところでどうにか出来る問題ではないのだ。



〝異常〟なことを〝正常〟だと勘違いして成長してしまうと周囲の常識に合わせることは容易ではない。



「私は、自ら若のモノになったのですよ」



「‥‥自ら?」



「私が初めて若と出会った時に言われたんです。〝俺の元に来れば、お前をもっと上手く使ってやる〟と」





無名と時雨はあくまで推定らしいが1つしか年は変わらない。

つまり、当時の時雨は7歳くらいということになる。



にも関わらず、子供のうちからそんな言葉が出てくるなんて‥‥。



驚きを通り越して呆れた。








「利用価値が無くなる、あるいは飽きられて売られる。ずっとそう思ってきました。そんな生活の中、若に声を掛けられて付いて行ったんです」



「どうして、付いていったの?」



「『どうするかはお前が決めろ。だが、自分で決められないというのなら、俺のモノになれ』と言われたからです」


「‥‥それが決め手?そんなのただの傲慢じゃない」






押し付けがましいにもほどがある。



出会い頭に人をモノ扱いするなんて、正気の沙汰ではない。








「確かに、一般論はそうなのかもしれません。けれど、私はその時に初めて自分が人間であることを実感したのです。人から意思を尋ねられることなど、今まで一度もなかった。人に使われることだけが存在意義だった。そんな私を、1個人として若は接してくれた」


「でも、決められないなら俺のモノになれっていうのはどうなの?結局は時雨も〝モノ〟扱いしてるじゃない」


「選択の余地を与えられただけで全然違いますよ。それに、私は若のモノになったことで少しだけ人間に近づけたような気がします」


「‥‥」


「無名という名は、〝例え名前があろうとなかろうと、私が何者で、どんな人生を歩んでいたとしても関係ない。私の命は若のモノ。それ以外の何者でもない、それが私の存在価値にして存在理由〟という若の意向から決められました」






どんな理由であれ、〝無名〟を名前にするのは決して好ましいことではないけれど、無名ほどその名前が似合う人はいない気がした。











「小夜さんはどうですか?」



「私?」



「若のことを、どう思っているんですか?」






言葉にしようにも、どう表現をしたらいいのか分からなくて黙り込む。




私にとっての時雨とは何だろう。








「‥‥分からない。でも、害悪であるのは確か」





日頃から、犯罪まがいのことをされているんだ。




時雨の存在が、私にとって良くないのは確かだ。










「私が思うに、小夜さんにとっての若は、そう悪い影響を与えるだけの方ではないと思います」



「‥‥どこが」






私が時雨にされてきたことを無名が誰よりも知っているというのに、どこからそんな思考が湧いてくるのか理解できない。










「いつか、その意味が分かる日が必ず来ます」





やけに確信めいたその言葉を、今の私は受け入れることはできなかった。










「今から出掛けない?」





無名の部屋で当たり前のように居座って読書をしていると、仕事がひと段落したらしい無名がパソコンを閉じたのを見計らって声をかけた。









「どこにですか?大学ではありませんよね?」


「少しだけでもいいから外に出たいの。長いこと引きこもっていたから気が滅入ってるの。お願い、絶対に逃げたりしないから」





無名は時雨の指示で、私を監視するために先に戻って来たことは何となく察していた。



だけど、基本的には大人しく従っているのだから、これくらいの頼みは聞いてくれてもいいんじゃないかと思う。










「無名が一緒なら問題ないでしょ」



「しかし、若からは必要な時以外では外に出すなと」



「私がパニック障害を抱えているのは知ってるはずよ。‥‥そして、その原因も」







最近は食事も喉を通らない。



独りで部屋にいると昔のことを思い出して突然激しい不安に見舞われたり、息切れやめまいなどの発作に襲われてパニックに陥ることもある。



だからこうして、図々しいと分かっていながらも無名の部屋に居座っているんだ。



時雨がいる時はこんなことはなかったのに、どうしてだろう‥‥。








「分かりました。しかし、この事は予め若に伝えておきます。事情を話せば分かって下さるでしょうから」






事情を話したくらいで、時雨が納得するとは思えないが、今は後々のことなんて気にする余裕がない。



一刻も早く、ここから出たい。



ずっと不安で、焦っているような気持ちになるのにその理由が分からなくて、余計に気を病んでしまう。



自分で自分のことも分からない。



これではただの情緒不安定だ。








「大丈夫ですよ」




ふわりと柔らかい何かに包まれる。









「若は近いうちに戻ってきます。絶対にあなたを捨てたりしません」





無名と触れ合うことはよくあるが、こうして抱き締められたことも、安心感を覚えたのも初めてだ。










「‥‥そんな心配はしてない」



「小夜さんって、自分のことには疎いですよね」



「何、皮肉?」



「いえ。ただ、私とあなたは似ているのか思考回路が読めるんです」


「私と無名が、似てる‥‥」





いや、全然似てないと思うんだけど。









「似ているというのは境遇の話だったのですが、軽率でしたね。比べる事すらも烏滸がましい。小夜さんと違い私は〝穢れている〟」






自虐するように笑った無名。




その表情があまりにも痛々しくて、今まで無名のことを能面のようだとか、感情がないだとか、勝手に憶測で決めつけていたことを心の底から後悔した。



外に出たのはいいが、私も無名も普段から出歩かないせいで特に行く当てもない。



結局近くのショッピングモールに寄った後、適当な店に入って食事を取った。



その間、私たちの間に会話は無かった。



殺風景な無名の部屋に何か置いてあげたいところではあるが、そもそもお金を持っていない。



寝てる間に連れ去られ、私物は全て没収されている。



時雨からは必要最低限のものしか与えられていない。



それも日用品だけで、金銭的なものは持ち合わせていない。



だが、四六時中時雨か無名かは必ず側にいるからそれで困ったことは一度もなかった。



バイトを辞めさせられた時に、学費や生活費を稼ぐためにも働かなくてはいけないと反発したけど、全て自分が払うと勝手に決められてしまった。



赤の他人にそんなことをしてもらうのは絶対におかしい。



もうすでに払われている分もすぐに働いて返済するから私を解放して、と交渉した時は本当に酷い目に合ったものだ。



「まさか、それだけとか言わないよね?」





注文したパスタを食べていた私は、コーヒーを飲む無名を見て唖然とした。








「私は食べなくても平気です」






平気って‥‥。




今日はまだ一度も食事をしていなかったから、そんなわけがないのに。








「お腹、空かないの?」



「体質上、空腹を感じることはありません。何も口にしないまま数日を過ごすこともよくあります」



「‥‥だからそんなに痩せているのよ。それに、それは体質じゃなくて精神面な問題だと思う」



「どうして精神的な問題だと?」



「だって、あなた‥‥生に執着がないでしょ」






思わぬ言葉だったのか、目を瞬かせた無名。



そのまま何度か瞬きを繰り返すと、やがて小さく笑った。








「ーー確かに、そうかもしれません。基本的には若に命令された時にしか食べませんし、言われるまで忘れていることがよくあります」



「最後に食事を取ったのは?」



「記憶にありません」







平然と言い放つ無名に溜息を吐く。



この人、放っておいたら死ぬんじゃないの?



そんな不安が脳裏を過ぎる。











「食事を取ることに抵抗がないのなら、少しでいいから何か食べたほうがいい」





私も日頃は時雨に無理矢理食べさせられている身だ。



人のことを言えた義理じゃないのは分かっているが、それでも何か食べてくれないと気が済まない。







「分かりました。では、小夜さんと同じものを」




今になって、無名が私と似ていると言った意味が分かった気がする。






ーー同じだ。




時雨に所有されている身であることも、生に執着していないことも。




多分、私が無名を苦手としていたのも同族嫌悪だったのかもしれない。



こうして共に過ごすことで、それが杞憂だってことは分かったけど。










ーー無名は私と違って、純粋に感じるんだ。

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