15:アイドルやめて良かったの?

「兄ちゃん、俺アイドルやめる」


 五歳年下の幼馴染、楓がそう言ったのは八年前のことだった。

 当時業界最大のアイドル事務所にいた楓は、それまでは順調にステップアップしていた。人気グループ『タコ焼きエイト』のバックダンサーとしてライブやテレビに出てたし、このまま高校を卒業したらデビューするんだろうな……と思っていた矢先のことだった。

 すでに社会人として東京で暮らしていた僕は、帰省したとき実家に遊びに来ていた楓からそう告げられたのだ。


「え、なんで?」

「東大合格したから」


 あっけらかんと言うのだった。

 それから楓は本当にアッサリ事務所を辞めた。器用な楓なら二足草鞋わらじの生活も難なくこなせると思ったけど、〝現役東大アイドル〟という看板を背負わされる未来を予想して嫌になったらしい。


 それからは早かった。親同士が親友だったこともあり、家事がまったくできない楓はとんとん拍子に僕のアパートに居候することになった。

 楓のことは可愛い弟だと思っていたので、僕も快く受け入れたのだ。


 ……あれから、もう八年も経った。

 楓もとっくに社会人だ。すでに二十代半ばにもなったけど、見た目はほとんど変わっていない。高校の卒業式の写真といまを見比べても、錯覚かと思うくらいに若々しい。

 性格もそのままだ。

 料理だけは上達したなと、テレビを眺めて八年前のことを思い出した僕はキッチンを振り返った。


「楓、いまタコハチの新曲やってるよ」

「ほんとだ。今回の曲も面白いなぁ……これ作曲したの誰だろ、また大塚さんかな?」


 包丁の手を止めて、テレビに視線を送りながら笑みを浮かべた楓。

 大学を卒業しても楓は住まいを変えようとはせず、いまだに僕たちは同じ屋根の下で暮らしている。


「いまでも先輩とかと連絡とってるの?」

「まさか。事務所辞めてからは一度も連絡してないし、来てない」

「そういうもんか」

「そういうもんだね」


 業界のことには詳しくないけど、思ったよりサッパリとしてるもんなんだな。

 高校生のときは、あんなに先輩に可愛がってもらってたのに。

 僕はふと、かねてから聞いてみたかったことを尋ねてみた。


「楓はアイドルやめて後悔してない?」

「……なんでそんなこと聞くんだよ」


 なぜか仏頂面になった楓。

 その子どもじみた表情がどこか可笑しくて、僕は笑いながら答える。


「同期の子たちはデビューしてテレビとかたくさん出てるでしょ。芸能界みたいに華やかなところより普通の暮らしを選ぶのって、あんまり聞かないことだし、気になっちゃって」

「……正直、大学に入ってすぐの頃はめっちゃ後悔した」

「したんだ」

「そりゃ、東大って言ってもピンキリだったからな。自分のことにしか興味ないやつもいれば、女にしか興味ないやつもいる。勉強ができるっていうより、受験勉強ができるやつらの集団って感じがあったんだよな。本当に頭良くて一緒に研究したいやつなんて一握りだったし、そういうやつに限って俺になんか微塵も興味なくてさ……男友達なんてしばらくできなかった。兄ちゃんがいなけりゃ、俺、実家に帰ってたよ」


 意外だ。

 家事以外は万能な楓だし、愚痴なんて聞いたこともなかったから、最初から順風満帆だと思ってた。


「でも後悔してたのは最初だけだから。俺は俺なりに楽しんでたし、それに、兄ちゃんと暮らすのも楽しかったしな。アイドルやめなかったらこの生活はできなかったって考えたら、なんかスッキリしてさ」

「なるほどね」


 確かに、アイドルなら幼馴染の男と同居なんてしないだろう。

 すると楓は意地の悪そうな笑みを浮かべる。 


「それに、近所の人たちが兄ちゃんのこと『弟さん』って呼ぶのが面白くて」

「ひどいよね。どう見ても僕のが兄なのに」

「いや俺だろ。チビのくせに何言ってんだ」


 八年住んでるのに、いまだに勘違いしてるご近所さんには物申したい気分だ。

 まあ、とにかく。

 楓が後悔してないならそれでいい。アイドルに未練がないのならそれでいいんだ。


「それに兄ちゃん、俺たち本当の兄弟って完全に思われてるよ」

「それは嘘だ。苗字も違うじゃん」

「苗字なんてどうとでもなるだろ。八年も一緒に住んでて兄弟じゃないほうがおかしいからな」

「いまどきシェアハウスくらいあるでしょ」

「八年はないよ。それに、一番大きな理由が目の前に転がってるから」

「なに?」

「俺が兄ちゃんって呼んでるから」


 ……あ。

 そういえば、幼い頃から慣れすぎていまさらだった。


「じゃあそろそろ名前呼びに変えようよ」

「やだよ。いまさらすぎるし、それにさ――」


 楓は写真立てのひとつを指さした。

 そこには綺麗に着飾ったとあるカップルの、結婚式の写真が飾られていた。


 花婿は、僕の弟。

 そして花嫁は、楓の姉だ。


「もう俺たちは本物だろ? 義兄にいちゃん」


 そのときの楓は、本当に嬉しそうに笑っていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る