[メモの女]

 脩一とともに社に戻り、陰鬱とした気分のまま仕事をこなす京太の元に事務の柳本美和子が近付き、「良かったらどうぞ」と個包装のマドレーヌを1つデスクに置いた。


「あ、ありがとう」

「・・・・」

「?」


 一瞬、何やら含みのある感じの目付きで京太を見つめた美和子は小さな付箋を目の前のPCにスッと貼り、その場を離れた。

 その雰囲気に小首を傾げつつ京太は付箋を

取った。

 何故か表面には何も書かれていない。

 が、裏返したそこには意味不明な謎の言葉があった。


『いつもの宜しく』


 いつもの?

 宜しく??

 京太の脳内に一気に疑問符が沸いた。

 顔を上げて周囲を見回すが給湯室にでも行ったのか美和子の姿は無い。

 フロア内は出払っている者が多く人はまばらで、脩一もいったん帰社したあと別件で再び出て行き今はいない。


 美和子は1年半ほど前に途中入社をしてきた20代前半の事務員で美人ではないがどことなく愛嬌のある顔をしており立ち振舞いもそつがなく社員からの評判もいい。

 その誰にでも同じように接している美和子からの唐突な『いつもの宜しく』とのメモ。

 解釈が出来ないその言葉が京太を困惑させた。

 これまで旅行土産の菓子などを社内で配ることはあったが、それは京太だけにではなく全員に対してであり、ましてや謎めいたメモを渡してきたことなどただの一度も無い。


(まさかこれも"ズレた"せいなのか? 今いる"こっち"で彼女との間に何かあるんだろうか・・・・)


 焦りを覚えた京太は付箋を千切って足元のゴミ箱に捨てた。

 と同時に、一体いくつの"違い"があるのだろうかと全容を考え恐ろしさにさいなまれた。

 社内の設備や業務内容や社員メンバーなど、最も変化が目立ちやすいはずの状況については一見では何も変わってはいないように見える。

 あくまで表面的には。

 が、それは今の段階でそう見えるだけであって、実はこれから日が進むにつれ愕然とする相違がどんどん増えていくのかもしれない──そう考えると京太はいてもたってもいられず立ち上がった。

 そしてそのままフロアを出ると取りあえず外の空気を吸おうと屋上へ続く階段へと向かった。

 屋上は同ビル内の他社との共有場所となっており休憩の一服や昼食の弁当を広げるなどで利用されている場所だ。


 重い扉を開けて外に出ると喫煙コーナーに他社の数人が寄り集まっている以外には人は見当たらず、京太は少し離れたベンチの方へと歩き出した。

 

(落ち着け・・・・落ち着け・・・・)


 自身にそう言い聞かせながら座り目を閉じる。

 その時、出入口の扉が開く音がした。

 目を開けて見ると出てきたのは経理の砂川弓子だった。

 アラフィフのベテラン社員だ。

 といってもいわゆるお局様的な存在ではなく、穏やかで物静かな雰囲気の人物で口数も多くなく京太はこれまで必要最低限しか話したことはない。

 

(え?)


 どうやら自分に向かって歩いて来ているようだと気付き、京太は不思議そうな視線を送った。


「ちょっといいかしら」

「あ、はい、どうぞ」


 やはり自分の目の前に来た弓子に戸惑いながら、京太は隣に座ることを促した。

 

「ふいにごめんなさいね、階段を上がるのが見えたから追って来てしまって──」

「え、いや・・・・で、あの──」

「単刀直入に言うわね」

「え?」


 至近距離で京太の目をじっと見つめる弓子に普段のイメージとは違う圧を感じ困惑したが、次の言葉にそれは驚愕へと変わった。


「柳本さんとのお付き合いはやめた方がいいわ、恐いことになる前に」

「!?」


 心臓が口から飛び出しそうだった。

 やっぱり・・・・やっぱり"こっち"では美和子と自分は個人的な関係があったのか!──あまりの衝撃に京太はわなわなと震え出した。


「あら、大丈夫?」


 弓子が心配そうに言う。


「だ・・・・いじょうぶ・・・・ではないです・・・・」

「あ、ごめんなさい。心配でつい・・・・余計なお世話だったわね、大人ですものね、自分で判断するわよね。でも──」

「・・・・」

「あの子、良からぬタチの人達と繋がってるみたいだから妙なことに巻き込まれないように、それだけは気を付けてね。それじゃ」


 あり得ないあり得ないあり得ない、自分がいわゆる不倫!? "こっち"の自分は一体何をやってるんだ!?


 ゆっくりと去り行く弓子に掛ける言葉を何も出せず、その姿にぼんやり視線をやりながら京太は意識が底無し沼にズブズブと落ちて行くような感覚に絶句していた。


 

 

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