第2章 悪役令嬢と七人の姉 ―霆節―

祈りの国 ―聖都―


 ――神聖ユルアイン教国 首都ラドゥリナン――



 高らかに響く鐘の音に、真白い屋根から調鳥キルネウが飛び立つ。


 澄んだ川面に花びらが落ち、石橋を駆けて行く子供の声が空へと昇る。人々は和やかに市場を歩き、清廉な街並みにはどこからか微かに聖歌が聞こえた。貴婦人の裾を思わせる聖都にも、霆節ヴェイルの風が吹き始めていた。

 その聖堂は都市を形作る段の陰に埋もれて存在している。わずかな聖徒が切り盛りする小さな建物で、その傍らにはひっそりとした林があった。一本の小径のみが奥へと続いており、木漏れ日と葉擦れの音を潜っていくと、古びた天使の祠堂がある。光の境界を覗けば、そこには静かに祈る少女の背中があった。


「ここにいたのですか。探しましたよ」

 抑えられつつも奥行きのある声に少女が振り返る。滑らかな金が日差しに触れて煌めいていた。

「リネロ様」

 テレスタシア・ノキアは恭しく頭を下げた。名を呼ばれた壮年の尼僧は、音もなく祠堂の中へと入る。

 リネロ・ヴァルテローゼ。イオラント教天使ラサイア派のきょうどうしゃ

 聖女選における、テレスタシアの後見人。

「聖女選では暗殺も増えます。あまり一人にならないように」

 そう口にしてから、とはいえ、と微笑み、「あなたであれば心配は無用でしょうが。念の為、です」

「……はい」

 テレスタシアは懊悩を秘めるようにそっと目を伏せた。ひと気のない祠堂で祈るのは、以前からのテレスタシアの日課だった。しかし魔術学院アルバレスクへの留学から帰って以降は、その時間が増えたようだった。

「少し歩きましょう」

 リネロに先導されて祠堂を出た。小鳥が囀り、木々の枝を跳ね回る。リネロはゆったりとした足取りで、世間話をするように語りかける。


分理ティカイ派の候補が亡くなったようです。急死だそうで、彼らは聖女選から降りる、と」

「それは……」思わず言葉に詰まる。柔らかな声色でも、含まれるのは純然たる死の気配だ。この時期に自然死など、あるはずがない。

「聖女選が早まった影響、ですか」

 テレスタシアの声にリネロは頷く。

「これからはこうしたことがますます増えるでしょう。表沙汰にならないことも。だからこそ、次で終止符を打つ必要があります。救いのためには、真理の垣根を越えなければ」

 小径を抜けると、聖堂前の小さな広場に出る。そこからはラドゥリナンの下層部が一望でき、吹き抜ける風が生活の匂いを届けていた。


 数多く分岐する宗派のうち、聖女選への参加権を有するのは主要五派のみ。


 天使を信仰の要とする天使ラサイア派。

 人間の理性を重んじる分理ティカイ派。

 儀式による救済を謳う典礼キロネウ派。

 信仰の啓蒙を是とする教道ウーケン派。

 原理への回帰を目指す救世オルゼロ派。


 先代聖女は典礼キロネウ派に属しており、聖徒のみならず民衆も主体性を持って儀式に臨む――信仰を形にすることを推奨してきた。これはより多くの人に信仰を届けた一方で、一部では腐敗を増長させ、また救世オルゼロ派などからは軽薄な欺瞞に過ぎないとして強く批判を受けてもいた。

 テレスタシアの属する天使ラサイア派は、他と比較すると決して規模の大きい宗派ではない。しかし現在のきょうどうしゃたるリネロの思想に共鳴し、その理念や理想を体現しようとする人は着実に増えつつあった。近年では魔物に対する脅威の意識も増しており、これを退けようとする天使ラサイア派の在り方は社会的地位を越えて理解を得やすい部分でもある。テレスタシアが加護の元に聖女となることを誓ったのも、ごくごく素朴な感覚として、人々の平和を願ったからだった。


 二人は流れゆく白雲を眺め、生命と意志の営為に耳を澄ませた。聖都ラドゥリナンはテレスタシアの故郷ではない。しかし、リネロに見出され、以降の時間を過ごす中で、愛着が湧いた部分も確かにあった。都市は一面的でなく、様々な顔を持つと理解している。善があり悪があり、そのどちらにも属さない境界が至る所に転がっている。それはどこの国でも同じであって、もしも叶うのなら、すべてを愛したいとテレスタシアは考えていた。

 リネロはテレスタシアの横顔を見た。そこには淡い逡巡の色があり、密かな陰となって浮かんでいた。


帝国ヴァルナラスでの学びは」とリネロは言った。「知見と同時に迷いも生んだようですね。何か出会いが?」

「……いえ、その」どこか恥じる様子で口籠もり、それから意を決して「はい」と頷く。

「不思議な人がいたんです。とても強く美しいのに、常に葛藤を抱えている……。近づきたいと願ったのに、どうしようもなく相容れないことばかりが明らかになってしまって。私が聖女になった時、彼女は――」

 テレスタシアは口を引き結んだ。ずっと、自身に課せられた使命や運命を信じてきた。それは分岐を持たない一本の道であって、力や責任を負っても歩んでいける目印だった。

 しかしそこに、アルベリス・ユーティライエの姿があった。対決の予感と、乗り越えなければならない壁の象徴として、その存在はテレスタシアの脳裏に焼きついている。

 リネロは自らの意志で足掻かんとする少女を見下ろした。それは昔日の影を見るようで……少しばかり、懐かしくなった。

「疑念、迷い、躊躇い、恐れ……それらは人の歩みを鈍らせますが、逃れられるかというとそうでもない。大きな決断と選択には常について回るものです。まだ時間はある。あなたなりの答えを探すと良いでしょう」

 少女は顔を上げ、はい、と答えた。今度は力強く、困難な道を前に竦むことなく。

「いつか必ず、私の光を掴みます」

「ええ。その日を楽しみにしています」



 会議に行く、というリネロと別れた後、テレスタシアは聖堂の聖徒に声をかけ、掃除を一部担うことにした。祠堂を訪ねた時には、たいてい何らかの手伝いをする。近隣の人々の傷病を癒す手助けや、祈りに訪れた人の話を聞くこともあり、そうした奉仕は悩める日も随分と気を紛らわせてくれた。

 中にはテレスタシアに会うために来ている奇特な人物もいて、晴れやかな笑顔と励ましにはテレスタシアの方が力をもらうほどだった。


「こんにちは。また来ちゃった」

 柱の陰から顔を出した女性は、木漏れ日色の髪を揺らして小さく笑んだ。

「フェリアさん」

 掃除を終えた休憩にと長椅子に座っていたテレスタシアは、表情を明るくして立ち上がった。フェリア・マロール。聖堂と同じ都市中層に住むといい、留学以前から何かと気にかけては声をかけてくれていた。

「いいもの持ってきたから、一緒にどう?」

 フェリアは紙袋を掲げてから、軽やかな足取りで隣にやってきた。「ほら」と促され再び長椅子に腰掛けると、開かれた紙袋からは甘く香ばしい匂いが漂った。「焼菓子――」テレスタシアは目尻を緩めてその香りを吸い込むと、傍らの視線に気がついて頬を赤らめた。「ご、ごめんなさい、つい……」

「いいのよ、喜んでもらえるならそれが一番なんだから」フェリアは愛おしむように言ってから、「さ、バレない内に食べちゃわないと」紙袋から取り出した焼菓子をテレスタシアに渡した。

 テレスタシアは自分ではあまり物を買わない。リネロの庇護下にあることもあり、生活必需品を買い足すのがせいぜいで、街の食べ物に触れるのはいつでも新鮮だった。魔術学院アルバレスク在学中によく食べた穀酵クロルのことは帰国後もよく思い出す。

 フェリアとは他愛のない世間話に花を咲かせる。テレスタシアが立場上多くを語れないのを察してか、ほとんどはフェリアが街や生活の様子を語って聞かせた。彼女は真実テレスタシアに会うことが聖堂に来る目的で、それ以外のことはついで以上の意味を持たないようだった。

「ちょっと年下の女の子が健気に頑張ってたら、応援したくなるものじゃない?」

 フェリアはそのように説明したが、それが嘘偽りない本心なのはテレスタシアも早々に理解していた。


 留学時の話になった時、「友達はできた?」と訊ねられ、テレスタシアは僅かに逡巡してから「はい」と応じた。「皆さんには色々良くしていただいて。お茶にお誘いいただいたり、私が誘ったりもしました。友人……になれたのか、わからない方も残ってしまいましたが」

「いいわねえ。私ももっと学があれば、そういう季節があったのかしら」冗談めかしてフェリアは言った。「ちなみに、友達になれたかわからない、っていうのは、どんな子だったの?」

「それが――」

 テレスタシアはアルベリスとの交流をかいつまんで伝えた。もちろん、決定的な部分は省きながら。

「何というか……仲良くするのは大変そうね。その、アルベリス、っていう子」

 フェリアは苦笑した。確かに、機嫌の悪そうな様子しか話せていない。テレスタシアは慌てて、

「魅力的な方では、あるんです。陳腐な表現かもしれませんが、かっこいいな、と」

「憧れってこと?」

「そう……なのかもしれません。私も自らの足で大地を踏みしめなければと、そう思うんです」

 テレスタシアの吐露に、フェリアは間を空けてから笑って、

「あなたはあなたのままで充分素敵なんだから。無理しないでね」

 流れる金の髪をそっと撫でた。テレスタシアは目を閉じてしばらくされるがままになった。

 時折思う。もしも自分に姉がいたら、こんな感じだっただろうか、と。


「――ノキアさん? いらっしゃいますか?」

 名を呼ぶ声が聖堂に響いた。常駐している聖徒のものだ。

「わ、来ちゃった! ごめん、またね」

 フェリアはそう言って席を立った。


「ああ、ここにおられましたか」

 靴音と共に聖徒の男性が現れた。「子供が怪我をしたと来ていて――」彼はそこまで口にしてから、ふと気付いたように言葉を区切った。「……どなたか来訪者が?」

 隣に目を向けると、フェリアは忽然と姿を消していた。空の紙袋だけが、残り香を纏って置かれている。

「いえ、大丈夫です」

 テレスタシアはそう答えて、「怪我の方はどちらに?」と話を変えた。フェリアは以前から「頻繁に来てるのがバレたら恥ずかしいじゃない」と口にしていた。関係を大切にしたければ、そうした機微には心を配るべきと、魔術学院アルバレスクではよく学んだ。

「入口の方です。見たところたいした傷ではないのですが、どうにも泣き止まなくて」

 先導され礼拝所を出る間際、ふと振り返って最奥を見た。真白い羽で身体を包み、祈りの手のまま微睡むように目蓋を下ろした天使像。幼い頃から目にし続けてきたその光景に、テレスタシアはこれからも祈り続けるのだろう。例え何が待ち受けようと、どんな物を背負おうとも。


「どうされました?」

 立ち止まった聖徒が不思議そうに訊ねる。

「すみません、今行きます」

 テレスタシアは足早に礼拝所を去った。


 聖なる都を鐘の音が舞う。ひと気の絶えた空白を微風が撫で、天使の眠りに花びらをひとひら、添えていった。

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