運命の揺籃-2


 霧の中を血飛沫が舞う。

 飛翔する六本の短剣が、次々に刺客を貫き皮膚を裂く。アンナリーゼの【|

獣の心臓ラシェリ】が近づく者を爪で抉り、アルベリスの放つ影の槍が刃を弾く。

「【暗月の針、閉じよアリス=ロア=アギドゥロ・ヴェア】」

 簡易的な凍結魔術。短剣に触れた部位を起点に凍結し、瞬時に生体組織を破壊する。接近されれば杖で応じ、先端を突き刺した先で血の魔術を叩き込む。

「【赫棘カイ】!」

 生成された血の槍が、内側から対象を串刺しにする。死角からは高速の短剣が連携をしながら追い縋り、放った魔術も的確に散らされ意味をなさない。アンナリーゼへの攻撃も同様で、攻撃は多重の防御護符にことごとく弾かれ、隙を見せれば【獣の心臓ラシェリ】が迫る。

 死体ばかりが増えていく。しかし彼らは死の恐怖を忘れたように、動かなくなるまで立ち上がった。


「……魔王様――」

 事切れる寸前、彼らは一様にそう呟いた。アルベリスに手を伸ばし、何かを乞い願うように。

「魔女だ悪魔だとは聞きましたが、あなた王様でしたの?」

「……知らないッ!」

 誰も彼もが好き勝手にアルベリスを呼ぶ。しかしそれらは意味を失くした記号であって、個人の本質を示すものではあり得なかった。やはり碌でもないことばかりだと苛立ちが募る。一刻も早く、目障りなすべてを消したかった。

 だから、叫んだ。


「【契約履行――呪い殺せ】!」


 指輪が鈍く輝き……ぱり、と瓶の割れる音がした。

 回避不能の二つの死が、刺客たちの生命を握り潰す。

 ある者は不可視のあぎとに喰い千切られ、ある者は肉を泡立てて破裂する。この場でアルベリスに仇なすすべてが蹂躙される。

 呪詛と怨霊によって。

「血の海、ですわね」

 アンナリーゼの【獣の心臓ラシェリ】が鞄に戻り、アルベリスの杖が杖嚢に収まる。二人を除けば、死体の他には何もなかった。宣言通りすべて殺したのだ。何の躊躇も罪悪感もなく、ほとんど一方的と言える形で。


「……ノーシェを探す。瞳と脚を」

「仰せのままに」アンナリーゼが恭しくスカートの裾を持ち上げる。「【彼方の瞳フラク】【落日の脚ウォルカ】」

 鞄から出現したのは、巨大な四つ目の猛禽と、蒼炎を脚にまとった漆黒の馬。偵察と移動に使われている個体だった。

 アンナリーゼが指示を出すと、【彼方の瞳フラク】は大きく羽ばたき霧を抜けて空に昇った。通常の視覚のみならず、熱源など複数の観測方法を有するので、魔力による阻害を受けている状況下では絶大な価値を発揮する。

 アンナリーゼは懐から取り出した折り畳み式の板を広げた。内側には貴石回路で接続された水晶が貼られており、【彼方の瞳フラク】の視界を投影できる。

「近辺だと……先の黒衣と思しき死体が点々と転がっている場所がありますわね。どちらがやったのかは不明ですが」

「……ノーシェはあれを殺せるほど強くない」

 となれば、残る可能性は一つしかない。テレスタシア・ノキア。彼女がどれほど戦えるのか、誰も知らない。

「ひとまずそこまで行って痕跡を辿る。とにかくノーシェだけ回収できればいい」

 アルベリスが傍に寄ると【落日の脚ウォルカ】はそっと鼻先を下げた。数度撫でてから、アンナリーゼに続いて鞍上に跨る。

「行きますわよ」

 手綱が打たれ、白に沈む森を走り出す。血の光景は瞬く間に遠ざかり、先の見えない霧が二人の身体を包み込んだ。


 死体を観測した地点に辿り着くと、黒装束が列を成すように倒れしているのが見えた。速度を緩め、馬上から死因を観察する。

「ほとんど一撃ですわね。外傷も少ない」

 アンナリーゼが感心するように言った。流血も少なく、傷もまた綺麗なものだ。躊躇いや不慣れは微塵も感じられない。アルベリスの表情が険しくなる。

「基幹四術種の魔術じゃこうはならない。光芒術アイオレール――」

 思わず呻く。魔術に精通していたとしても、未知の部分が多い術種だった。少なくとも攻撃系の詠唱は聞いたことがなく、たいていは治療や浄化といった作用のみが強調されるが、状況が他の可能性を削いでいた。

「逃げながら対応した、という具合でしょうか。よくやりますわね」


 導かれるように、死者の轍を進んでいく。

 同じ臭い、同じ色が永遠を思わせて続いている。アルベリスは不意に寒気を覚える。奈落の口がすぐそこにあると感じる。ほんの一歩を踏み出せば、終わりなく堕ち続ける深淵の闇へと身を投げ出されるような気がする。予感、予兆――その感覚を知っている。夢に繰り返し繰り返し描かれてきた、断絶の気配。

 木々の狭間に、小さく開けた場所がある。死体の列が途絶え、少しばかりの休息を思わせて一切が沈黙している。アルベリスは【落日の脚ウォルカ】を降りる。この僅かな時間で多くの生命を吸い込んだ大地を踏みしめる。自然の営為に例外はなく、人もまたその一部にすぎないことを、アルベリスはよく知っている。


 小柄な少女が倒れている。


 腹部と手を血に染めながら、仰向けに横たわる少女がいた。学院の制服に、髪は黒く三つ編みで、長い前髪が肌に張り付いている。薄く開かれた目が、歩み寄る人物の姿を捉える。

「――ああ……」

 アルベリスはその日初めて、ノーシェ・マレオンの瞳を見たような気がした。

「ノーシェ……」

 傍らに膝を突き、血のこびりついた手を握る。冷たく、微かに震え、弱々しい。

「……あ……アル、ベリス、さ……」

「……待って」

 鋭く言って服を捲り、傷口を見た。鋭利な刃物でひと突き……深過ぎる。

 治療の魔術はあっただろうか? 知識の書棚をひっくり返す。これじゃない。これも違う。自分を治す? 他人には使えない。違う、違う、違う……違う。

 他者を癒す方法など、考えたことがあっただろうか?


「アンナリーゼ!」

 叫んだ。彼女は首を振って、後には何も言わなかった。

 呼吸、鼓動、体温、言葉。

 ある時突然、世界が暗くなる。

 もしくは炉節リーツの落日のように、何もかもが駆け足に過ぎ去っていく。

 それらはすべて、運命と呼ぶべき契約なのだろうか。

 世界が交換によって成り立つのなら、何の対価に死ねばいい?


 伸ばされた手がアルベリスの頬に触れる。か細い呼吸の最中に、みじかしょっかの声が混じる。

「……――ああ、どうか、おかあさん、を……」

 爪が頬を掻き、腕が落ちた。

 ……死んだ。


「――彼女を運んで。連れて行って、起きたことを伝えて」

 ノーシェを見つめたまま、アルベリスは言った。「一人になりますわよ」アンナリーゼの声は静かに落ち着いていた。

「……お願い。そうして」

 その言葉に含まれる感情について、幼馴染は【獣の心臓ラシェリ】を呼び出すことで応えた。ノーシェを抱えさせ、【落日の脚ウォルカ】に跨る。

「すべて済んだら探します。用があるなら、それまでに終えてくださいな」

 頷きを見届けると、アンナリーゼは霧の中に姿を消した。

 アルベリスは頬にできた掻き傷に触れた。うっすらと滲んだ血が指先を濡らす。

「テレスタシア・ノキア――」

 囁くように言って、足を踏み出す。



 死体、死体、死体、死体。

 アルベリスたちを襲ったより多くの刺客が、累々と道をつくっていた。まるで来た道を忘れないための目印のように、それは一本の線となってアルベリスを引き寄せる。

 感情の渦を眺めている。断崖、暗礁、凍てつく夜。すべてがアルベリスの中にあり、すべてがわかちがたく結びついている。

 時折、自分が迷子のように感じることがある。殺される夢から覚めた後、自分がどこにいるのか探している。姉たちのこと、母の死、自身が積み上げてきたこれまでのこと。何もかもが崩落する夢の欠片に過ぎないと思える。どちらか一方が空想だとして、アルベリスは信じるための根拠を持てない。向けられる悪意や殺意を返すことが何かの罪であるのなら、その交換のために何を差し出すべきなのだろう。

 いつかの死を恐れている。けれどそれだけで世界が釣り合うのかは、まだわからない。

 そう遠くない場所から、金属を叩きつける音がする。鈍い音と、死の呻き、それから硝子を砕くような涼音も。

 視界が開ける。


 ――雪が降っていた。

 微細に輝く光の粒子。それが空間を淡く満たしている。舞い上がり、漂い、積もることなく消えていく。それは地を満たす死の在処すら遠ざけている。もしも純朴な少女が目にしたのなら、きっとこのように呟くだろう。


 使、と。


 黒衣の剣が肉体へと触れる前に、光の槍が心臓を貫く。動くことも唱えることもなく、ただそこに在るだけで敵を殺す。そこには意志も願いも存在しない。ただ機能のみによって在り、ただ一人を生かすために、他のすべてを裁き得る。

 最後には静寂だけが残される。「――ああ」彼女は振り返って、困ったように笑う。

「見られて、しまいましたか」

 光の翼が、背中で鋭く輝いていた。

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