間章:悪魔姉妹は彼岸にて


 アルベリス襲撃と同時刻。



 ――臨海教導都市アグラヴェネ――


 穏やかな日差しと漣の律が、白壁の街へと染み込んでいく。点々と伸びる教会の尖塔から、高らかな鐘の音が響き渡り、細い街路の陰を人が駆ける。


「フィネリ様をお守りしろ! 黒衣の賊は確実に殺せ!」

 海に臨む高台の複合聖堂を鋭い声が走る。各所では剣戟と魔術の応酬が繰り広げられ、静寂を裂きながら床に壁にと血潮を散らす。

 海の青を写した衣が、迫る黒衣を覆い隠す。狂気に浸った瞳のまま、彼らは完璧に統率され、一片の瑕疵もない敬虔さで剣を振るった。

 鮮血を斑らに散らした青年が、細長い副聖堂を奥へと歩む。最奥には書棚と机が壁に並び、窓の外では空と海の境界が煌めいている。

「じきにすべて討ち取られましょう。ご安心ください、我らが必ず……」


 傅く青年の前で、きぃ、と車輪が回転する。

 車椅子の女がいた。右に白の眼帯をした、白金の髪に海色の目の、虚ろな女が。

 エリスティスは無言のまま、青年を――青年との間に広がる、果てなき空漠を見つめている。青年の顔が歓喜に震える。

「……ああ、ああ! フィネリ様、フィネリ様! ありがたきお言葉。皆も喜びましょう」

 瞳の行方は定まらず、彼らもまた真昼の闇を見つめている。自ら望み、自ら縋り、己が信仰のためにこそ曇りなき目は向けられている。

 風の最中、水路の狭間に眼球が浮く。清廉の街、口を閉ざした家々の陰に骸が落ちる。

 海色の〈瞳〉は、街のすべてを見つめている。




 ――排律法令都市ユーエン――


 縦横無尽に張り巡らされた享楽の街の裏路地は、饐えた臭いと虹色の水溜りに彩られている。

 ユーエンの空は常に暗い。換電鉱炉ヴァイオスゼーロから放たれる魔力の塵が天候に干渉し、灰色の雲となって街を覆う。誰も未来に期待しない。その日のために金は払われ、翌朝には既になくなっている。


 仕事から逃げるために、いつも通る道がある。

 キレムは咥え煙草に鼻歌を歌いながら、建物の合間にできた長方形の空間に出る。いつもならしばらくそこで時間を潰すが、その日は先客の姿があった。

「ちょっとちょっと。ここ、私の秘密基地なんだけどなあ」

 煙草をつまみ、口を尖らせて文句を言う間にも、黒装束がどこからともなく現れては退路を塞ぐ。「おや」よく見ると耳の部分がわずかに盛り上がっており、キレムは「ははーん」と頷いてから「耳栓なんて、よく調査してきたもんだね。手の内バレちゃってるじゃん。法令院うちのポンコツより優秀ってどういうことよ」

 黒装束に反応がないのを見ると「ああ、聞こえてないのか」と息を吐き――鈍色の空を見上げて、呟く。

「雨」


ヴェイル

 一条の雷光が空気を穿つ。貫手が肋を砕き、心臓を破壊する。

「まぁ確かに、姉妹の中じゃ弱いけどさあ。あんまり舐められちゃ悲しいよ」

 ゆっくりと抜き取られた腕は放電し、滴る血液を音を立てて分解する。細雨が燻し銀の髪を濡らす中、襲い来る刃をかわして喋り続ける。「私はね、楽しいことは好きだけど、面倒はあんまり趣味じゃなくてさ。こんな風に逃げてるのはそういうこと。職務とか責任とか、かったるいじゃん? だから、」

 日常と何ら変わりないように、ごく当たり前の景色に紛れるように。

 彼女は唱えた。



 ぴくりと震えた黒装束が、ふと思い出したとでもいうように、刃の行き先を互いに変える。呻きと飛沫が、顧みられることのない都市の吹き溜まりに色を添え、地面に刃の落ちる音が甲高く響き渡った。




 ――ユーティライエ外衛伯領ノヴィア――


 墓石を前に膝をついていたローベルは、腰から下げた血契薔ティゼルの石が淡く光ったのを見てゆっくりとおもてを上げた。緩く一つに束ねた灰の髪を肩から流す。針葉樹の木立とその長い影の群れを縫って陽光が差し、無縁の亡骸を示す文字をひっそりと浮かび上がらせている。

 飛来した矢が衣服を貫く間際に弾き飛ばされ、遠くで鈍い音が鳴った。骨の砕ける音、と思いつつ、まとわりつく霊を手の甲で払い退ける。

「死者の沈黙を破るとは、感心しませんね」

 微笑みを浮かべて立ち上がる。喉元に迫る剣は到達せずに滑り落ち、腕を失った刺客の首があらぬ方向へと折れ曲がる。「微睡みを侵されて、皆怒っていますよ」


 黒衣が一斉に躍り出る。不可視のあぎとに肉体を削られながら、僅かに時をずらした剣がローベルの胴を切先に捉えた。服が血潮に染まり、溢れた血潮が墓石に降りかかる。よろめくのを見逃さず、心臓と首を刺し貫いた。

 こぽり、と零れ出た血が大地に沈み――くずおれかけた肉体が、異様な角度で静止した。


 ローベルはいつでも微笑んでいる。


「ええ、友人を歓迎しましょう」

 血液が一斉に燃え上がる。転がる死体が捻じ曲がり、寄り集まり、圧縮され、漆黒の槍へと変貌する。瞬く間にローベルの手中へ収まった長槍は、主人を害した者を一振りの元に両断した。

 そして新たに生まれた亡骸が、歪な黒の鎧となってローベルの四肢を覆っていく。所々に入ったひびからは炎が散り、最後には兜が表情を覆い隠した。

「――お帰りなさい」

 投擲された死者の槍が、新たな亡霊を列に加えた。




 ――辺境学術都市レルケロ――


 錆色をした瓦屋根のひしめくレルケロの街、古代の痕跡を色濃く残した都市の地下で、アリサは何時間も一人で考えに沈んでいた。巨大な柱の並ぶ遺跡は一種の礼拝堂のようで、調査用に配置された角灯が全容をぼんやりと照らしている。アリサは外見の幼さから面倒に遭うことが少なくなく、発掘調査が休みの日ほど、現場を訪れては思考に耽った。

 手にした魔術用長杖が一定の間隔で地面を叩く。頭蓋を砕く勢いで投擲された数本の短剣が、髪に触れる寸前で停止する。金属が地面を跳ねる音が響いても、アリサは気に留める様子もなく、依然として眼前の遺物を見つめている。

 影から滲み出した刺客が熾祈術リツィオの火炎をアリサに放つ。しかしそれも衣服を焦がす前に拡散し、遺跡を焼くこともなく消滅した。次に刃が振るわれた時、長杖がひときわ強く地面を叩いた。


「邪魔しないで」


 世界の一切が動きを止めた。

 短剣は届くことなく宙に止まり、あらゆる細胞が極限に切り刻まれた時間流を停滞している。

 ――ただ一人、アリサを除いて。

「【カイ】」

 そして、再び動き出す。

 遺跡の壁面から岩石の槍が突き出し、刺客を宙に縫い付ける。噴出した血液は緩慢に空気を漂って、杖が再び打ち付けられると、引き寄せられるように主人の体内へと戻りゆく。最後には生命のみを喪失した肉体が地面に転がり、地理術キリケライトに変形した遺跡の壁も、何事もなかったように復元された。

「……〝停滞アギドゥロ〟、ね」

 静寂に還った礼拝堂で、アリサは石柱に刻まれた乱雑な文字を読み上げる。

 邪魔をするものは、もうどこにもいない。




 ――ニルメール地方、酒場――


 異様な巨躯の女がいるというので、街道沿いにある萎びた街の住人はこぞってその姿を見物に来た。地元の住人とまばらな旅行者を対象とした小さな酒場で、人々は窓に張り付くと、白髪の女がカウンターで眠りこけているのを発見した。


 旅行者かな、あんなやつ見たことあるか、などとめいめいに言葉を上げながら好奇心のままに観察をしていると、酒場の入口に何人もの怪しい黒装束が現れた。その手に剣が握られていることを認めた住人が「おいあんたら物騒なことは――」と言い切る前に、その首がずるりと落ちた。悲鳴が上がり、人々は一目散に逃げ出した。酒場の中でも外の変化に気づいた者は裏手口から早々に脱出し、最終的には床に散らばった食器類と未だ眠る女だけが残された。

 黒装束は店を囲むように散らばると、熾祈術リツィオの炎を店に放った。窓を破り灼熱でもって屋内を満たした炎は、一切を取り込んで轟々と燃え盛り、店内の女もまたその最中に見えなくなった。

 警戒を続けつつも、死体を確認するまでは様子を見る手筈だった。黒装束たちは店が崩れる様を眺めていた。


「――人が気持ちよく寝てんのにさあ」

 店を囲んでいた一人が、頭部を血霧に変えて崩れ落ちた。炎の中から伸ばされた腕が、その単純な膂力によって、肉も骨もなく人体を破壊していた。

「邪魔してんじゃねえよ。……なあ?」

 燃える外壁が爆ぜた。

 果敢に剣を構えていた数人が消え、後方の家屋に打ち付けられる。潰れた腹を晒して、絶命していた。

 後退る者にも容赦なかった。拳が、蹴りが捉えた箇所は漏れなく潰え、街道沿いの街は一瞬にして殺戮の現場へと変貌した。眠りを邪魔されたこと、酒が無駄になったこと。それこそが重要で、自身の命を狙うことは、カステルにとってはどうでも良いのだった。

「もったいねえことしやがって。次の街で呑み直すか……」

 焦げた衣服を払いながら呟いて、カステルは悠々とその場を後にした。




 ――央都外征騎士領カイオム――


 剣身に触れた獣魔が、全身を泡立てて爆発する。


 飛散する血肉を避けることなく、飛びかかる二体目を切り伏せる。組成も不明の黒ずんだ長剣は、触れた血液を余すところなく吸い付くし、視認するだけで怖気を誘う気配をわずかに増した。

 オルテーアは戦場の荒野を見渡した。展開した外征騎士の兵は、洗練された動きで襲いくる魔物を死体へと変え続けている。暗夜領域と接する対魔物戦の最前線では、日常と化した光景だった。

 オルテーアは鈍色の髪を払ってから、枯れた金の首飾りを持ち上げた。黒の革手袋に乗ったそれは二重の円を十字が貫いており、彼女が肌身離さずに持ち歩いているものとして一部ではよく知られていた。底のない漆黒の双眸が、円に刻まれた〝虚無レビド〟の文字を見つめる。彼女がそうしている時に何を考えているのか、理解できる者はどこにもいない。

 不意に、涼やかな音が耳に届き、オルテーアは腰に吊り下げた中身のない鈴を見た。直後、槍を携えた男が傍へと駆け寄り、「団長」と呼びかけた。

「後方から襲撃が。黒装束で、所属は不明」

 オルテーアが振り返る。感情の抜け落ちた声で〈けん〉は答える。

「……殲滅だ。一人も逃すな」

 吹き付ける風が死臭を運ぶ。蒼白の皮膚はだを撫ぜる気配は、死の予兆となって襲撃者の運命を闇に沈めた。




 ――真生碧燈都市ハイングラム――


「――人形が死んだ? ああ、別に構わなくていい。狙われることはわかっていたし、仕込みもしてある。道連れの上、色々と剥ぎ取れたはずだ。追加の雑兵程度にはなるだろう。……ああ、それじゃあ」


 王宮地下牢獄の一室で、ヴァロナは静かに受信機を置いた。くつろいだ様子で椅子に腰掛け、足を組んで眼鏡を拭く。緩く波打つ灰褐色の髪は襟首の位置に切り揃えられ、耳には細身の金環、目元には色濃い隈が浮かぶ。瞳は黄金の輝きを秘め、眼鏡をかけ直すと、正面の椅子に座る年若い女を見つめた。

 天井から吊るされた魔術の光が室内を照らしている。両手は膝に、足は揃えて背筋を伸ばし、女は行儀良く座している。ただ瞳だけが、正しく恐怖に震えていた。

 動かないだろう、とヴァロナは言った。

深聖術ニヒトライアには対象に直接干渉できる術が多くてね。上手くやればそういうこともできる。肉体と――」自身の頭部を指差し、「ここを切り離す、とかね」

 女は必死にもがいていた。しかし脱するための力も、舌を噛み切る動きさえも、意志と遠く離れてできなかった。ヴァロナはゆったりと語り聞かせる。

「君たちの動きも目的も、私はすべて理解している。君がなぜ襲撃の列に加わったのかも、どんな願いを秘めているかも、それらは明白な真実として私の意識を浸している。しかしね……」音もなく立ち上がり、女に顔を寄せて顎を持ち上げる。瞳が瞳を覗き込む。それだけで意志は絶望し得る。


「〝証明には証拠オーレル・ロア・トゥイオ〟。真実が真実たり得るためには、共有可能な物語が必要だ。果たして君は、それを語ってくれるかな」

 剥がれ落ちた爪が床へと落ちる。見開かれた目からは涙が零れ、女の首筋を濡らしていく。声なき声。ヴァロナは特等席へ戻ると、卓上に置かれた音声記録用の小箱を開く。「ああ、そうそう」思い出したように口を開き、

「口腔への干渉は、君が心の底から真実を話したいと思えばけるからね」

 そして頬杖をつき、退屈な歌劇でも見るような顔をして、通信機を手に取った。


「牢獄の清掃をお願いできるかな。そう。三十分後で」

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