夢が流節の風に溶けるまで
星塵学科の学科室は、学院中枢棟の三階に位置している。
アルベリスは名簿を手にしたまま、硬直するノーシェも置いて飛び出した。頭の中には歪に爛れた怒りがあった。ノーシェとアンナリーゼだけならまだしも、どうしてテレスタシアがいるというのか? いったい何の意図があって、アルベリスに関与をしたがるのか?
怒りが恐れと紙一重であるのをアルベリスは重々承知していた。精神の、生命の、脅かされるという漠然とした不安こそが激情の根源であり、それは何かを期待すればするほどに、捻れ、重なり、たわんでいくのだと。
期待しないようにと戒めていたのはそのためだった。ごくごく単純な論理として、アルベリスは失うことを恐れていた。
扉の開いた学科室からは和やかな談笑が漏れ出ている。人気故に人数も多い中で、中心にいるのはテレスタシア・ノキアその人だった。呼ぼうと思ったが、どうしてか声は出てこなかった。代わりにテレスタシアの方がアルベリスの姿に気づき、笑みを浮かべると学生たちの輪を抜けて小走りに寄ってきた。
「アルベリスさん。どうかされましたか?」
彼女の顔には喜びの色は張り付いている。奥では他の学生たちが、怪訝そうにこちらを眺めていた。
「ちょっと来て」
手を掴んで半ば強引に学科室から連れ出した。騒めきが上がったが、気にしている余裕もなかった。
テレスタシアは何も言わずに付いてきた。人目を避け小庭園の陰にやってきてようやく、アルベリスは手を離した。壁を背にしたテレスタシアは、少し困ったように眉を下げつつ微笑んでいる。
「これ。どういうこと」
名簿を眼前に突きつけると、テレスタシアは「ああ」と短く息を吐いた。悪戯がばれた子供のようだと思う。
「はい。私がラーゼノン教授に直接お願いをいたしました。アルベリスさんと同じ班に、と」
「……どうして?」詰め寄りながら声を絞り出す。「何がしたいの?」
ごめんなさい、とテレスタシアは苦笑する。「アルベリスさんが参加されると聞いて、これを機に、もっとお話ができないか、と――」言葉を区切り、視線を合わせ、「あなたをもっと、知ることができれば、と」
「知らなくて、いいッ」
抑制された声ではあった。
けれどそれば、掠れた悲鳴と相違なかった。
「知らなくていい……私も、あなたのことは、知らない」
「……そう、ですね。はい。これは紛れもなく、私個人の身勝手なのです」
喧騒は遠く、木々の騒めきと草花の擦れる音だけが小庭園の縁を満たしている。
テレスタシアは抜けるような空を見上げた。果てしなく、曇りなく、光に包まれた世界を思う。
アルベリスは地の底へと思いを馳せた。有限であるが故に無限を象る、血潮の痛みに心を乱す。
テレスタシアの手がアルベリスの手を包んだ。「っ、何を」咄嗟に引っ込めようとしたが、動かない。次第に淡い光が手中に灯り、それは温かな熱を伴って二人の指を伝っていく。
「私は、この力が――断絶のためでなく、人を繋ぐためにあると、そう信じたいのです」
「ああ、そう!」
勢いをつけて手を引き抜いた。熱の残滓は疼く傷のように残っている。嫌な感触だった。
たとえそれが、万人にとっての癒しであったとしても。
「勝手にすればいい……」
アルベリスは逃げるように背を向けた。テレスタシアの強情には付き合っていられない。
「アルベリスさん」
呼ばれたが、振り返らずに遠ざかる。彼女はめげずに口を開く。
「次は、交流会で」
学期末試験の連なる一週間を、アルベリスは無心で過ごそうと心に決めた。
思考を抑制し、機能を集約し、先のことは脇へと追いやる。一人で〝同じ〟を積み重ねるのは、憂鬱を乗り越えるための技術だった。感情を鈍麻させ、時の流れに身を任せ、未来を〝運命〟という名の箱に押し込める。
学科室を訪れた時、ラーゼノンからは謝罪の言葉があった。アルベリスは首を振って答えた。
「いいんです。これは……私自身の問題なので」
そして恐らくは、ほとんど理解されることのないものでもあった。
夢、予感、反射的な嫌悪。
それらがいかほどの確証と論理を持てるのかわからない。ただ相容れないことだけが明らかであり、それは間違いなく、アルベリスを一般から遠ざけていた。
ノーシェは不安げな様子でちょこまかとアルベリスの後を追った。アルベリスも振り払おうとはしなかったが、口数は自ずと少なくなった。
試験勉強の合間には、魔術の開発にも再び力を入れた。一節で完結可能なものから、事前に唱えることでその後の動きを強化できるものまで、想定可能な状況に合わせて幅広く構築し、時には実験をすることもあった。
その点、魔術戦闘の実技試験は格好の場だった。結果、対戦相手を完封し続け、カーディウスからは複雑な表情で文句とも称賛ともつかない言葉を投げかけられた。思考の休息を自ら潰していく様を見たアンナリーゼは、「ほどほどにしないと保ちませんわよ」と珍しくアルベリスに忠告をした。
試験期間の最終日、小噴水広場の長椅子に背を預け、ぼんやりと水の動きを眺めていると、ノーシェが隣に腰を下ろした。沈黙の中、ノーシェはアルベリスと同じものを見つめながら、言葉を探して身をよじった。
「怖い……です、か?」
アルベリスは身を縮める後輩を一瞥してから「……そうかもね」と呟いた。疲れ果てて、強がる気にもなれなかった。
殺される夢を見る、とアルベリスは言う。テレスタシア・ノキアに殺される夢。
「しばらく落ち着いてたのに、また現れるだろうって予感してる。地の底で嬲られるのは、誰だって嫌でしょ」
声は静かだったが、心中の澱は深く色濃い。存在しないものを恐れている。馬鹿げた妄想と笑えたならどれほど良かったかと考えている。少なくともアルベリスにはできなかった。可能性は常に傍らにあり、あるいは自分ならそうなるだろうと、僅かでも想像したなら泥沼は既に腰まできている。
話しても仕方がないことではあった。ノーシェにどうこうできるものでもない。心の問題と言えばそうであったし、未来は現在において無いが故に未来たり得るのであって、あらゆる備えが徒労に終わることなどいくらでもある。「……ごめん、行くから」
立ちあがろうとしたところで、袖に微かな抵抗があった。ノーシェの指が端を摘んでいた。
「だっ、大丈夫、です」
彼女は毅然と見上げていた。正体のない信仰を抱くように、決意に溢れた眼差しをして。
「アルベリス、様はっ! だっ、大丈夫、です。決して――決して、負けることはありま、せん」
「……何で?」
純粋な疑問として、アルベリスは
「それ、は……」ノーシェは一転して俯きがちに口籠もる。「あなた、は……ま、まっ」
何かを振り払うように、勢いよく頭を振った。
そして叫ぶ。
「アルベリス様は! 私をっ、助けてくれました、からっ!」
袖から手を離し、大きく頭を下げて走り出す。途中で転けたが、すぐにまた駆け出して建物の陰に姿を消した。
アルベリスは気が抜けてもう一度座り込んだ。今度は歩く気力もなくなっていた。
「こんなところにいたんですの。荷物はもうまとめまして?」
背後から影が差し、白茶の髪が頬に触れた。柔らかく豊かな香りが顔を包んだ。「まだ何も」正直に応じると、アンナリーゼは「なら、ちょうど良いですわね」と笑みを浮かべた。「買い出しに行きましょう。後になると面倒ですから」
「……手、貸して」
対面に回って差し出された手を掴む。勢いよく引っ張り上げられ、たたらを踏んで立ち上がる。
「試験の出来でも悪かったのかと」
「そんなわけないでしょ」
大きく息を吐いてから、凝り固まった眉間を揉み
「目の疲れに効く薬でも?」
からかう声を無視しつつ、小庭園の近道へ。魔術を紐解き、生垣と藪の穴を抜けて、湖と復興を遂げつつある街に向かった。
交流会当日。
「あら、緊張で寝不足ですか」
早朝、寮で顔を合わせた時、アンナリーゼは何よりも先にそう言った。
「例の夢。よりによって……」
アルベリスは陰鬱な表情で旅行鞄を持ち上げる。アンナリーゼは二つ。生活用品と、自衛用の〈
「アッ、ルベリス……様……お、おはようござい、ます。アンナリーゼ――先輩、も」
正門前で待っていたノーシェと合流し、集合場所である街の駅前広場に向かう。なだらかな曲線を描く巨大な屋根は遠目にも明らかで、「入学してから、使うのは初めて、です」とノーシェは不安げに口にした。
駅前広場には魔術学院初代学長の像が置かれ、足元には既に何人かの学生が待機していた。中にはカーディウスと談笑するテレスタシアの姿もあり、アルベリスに気づくと小さく笑んだ。
「おはようございます。とても楽しみで、必要以上に早く来てしまいました」
「おう。俺は別の班だが、まぁ仲良くしてくれ。ノキアのことは頼んだ」
「何やら妙な言い方ですわね?」
すかさずアンナリーゼが茶々を入れる。カーディウスは首を振って、
「勘繰るなよ。言葉通りの意味でしかねえ。最近どうにも抜けてるからな」
「はい……。考え事が多くて。いけませんね」
ノーシェはアルベリスの背に隠れて、声にならない声でテレスタシアを威嚇している。それを知った上でなのかどうなのか、当の本人は至って平然と「初めまして。ノーシェ・マレオンさん、ですよね。よろしくお願いします」と頭を下げていた。そうなるとノーシェも応えないわけにはいかず、「お願い、します……」と呟くように言った。
定刻になり、引率を担う応用魔術学科教授の指示で駅舎に入ると、朝日の差し込む乗降場に列車が滑り込んでくるところだった。先頭車両から突き出た排塵筒からは、仄かに碧い魔力の残滓が煌めきながら宙を舞う。
「や、やっぱり……すごい……!」
立ち止まり目を輝かせるノーシェを、割り当てられた車両に押し込む。個室で向かい合う座席には、ノーシェとアルベリス、テレスタシアとアンナリーゼでそれぞれ座った。窓際のノーシェが視線を彷徨わせるのをアルベリスは眺める。アンナリーゼは彼女独自の分け隔てなさで、テレスタシアとも親しげに話していた。
「そろそろ発車時刻ですわね」
アンナリーゼが言った直後、警笛が乗降場に鳴り響いた。
「ああ、楽しみ、ですね……!」
ノーシェの視線を受けながら「そうかもね」とアルベリスは答える。
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