導きのままに-3


 ノーシェはあまり名前を呼ばなくなった。代わりに、学科室などで近くにいる時にだけ、慎重に「アルベリス様」と口にした。〝様〟をつけることについてはもう何も言わなかった。先輩、などと呼ばれるのも、むず痒い気がしたので。

〝交換〟の関係を遠ざけてからというもの、アルベリスが何の気なしに歩いた道をノーシェが辿ることが増えていった。アルベリスは振り返らないし、気にも留めない。後はただノーシェが選ぶだけ。その程度であれば気楽だったし、文句も出ない。互いの認証によって生じた均衡は、そう時間を空けずに日常の一部となった。

 結果、魔女が侍らせているのではなく新入生が物好きなだけ、という見解に至ったのか、噂も早々に小さくなった。「謡羽鳥テウェルの親子みたいですわね」アンナリーゼは余計なことを言って、アルベリスに肘で小突かれた。


 ある日、ノーシェと外で鉢合わせ学科室へと向かう途中、対面から見覚えのある男が来るのが見えた。スティン・フェドルはアルベリスに気がつくと、気さくな笑みを浮かべて「その節はどうも」と頭を下げた。

「今日は魔術考古学科に用がありましてね。学内で迷いながら、どうにか終えてきたところです」

 開口一番にスティンはそう言って、応答に窮するアルベリスからその背後に隠れたノーシェへと視線を向けた。「お嬢さんも。こんにちは」

 ノーシェはもごもごと口を動かしただけだったが、スティンは気にする素振りもなく「次に行かないと。それでは」と去って行った。

 学科室に着いてから、ノーシェはどこか落ち着きのない様子で両手の指先を擦り合わせていた。

「知り合い?」

 対面に座って訊ねると、首肯するでも否定するでもなく、「こ、声に、聞き覚えが……ある、ような……」と曖昧な答えを小声で返した。スティンが配達員を担っているなら、学院か街のどこかですれ違いでもしたのだろう。


 ラーゼノンを待つ間、アルベリスは筆記帳を開いて魔術の開発を少し進めた。ノーシェは邪魔にならない位置からそれを眺め、途中、話す機会を伺うように「あ、アルベリス、様」と声を上げた。

「もしっ、もし良かったら……流節ユールの終わりにある、交流会っ、一緒に、行きません……かっ!」

「……交流会?」

 聞き慣れない言葉に顔を上げる。と同時に、扉が勢いよく開け放たれた。「私が説明しよう!」

「……まさか、外で待っていたんですか?」

「いいところだったから、つい」

 呆れるアルベリスにラーゼノンは舌を出し、外套を揺らしながら壇上へ上がると、黒板に〝多学年交流合宿会〟と大きく書いた。表面をこつこつと二度叩く。

「正式名称は、これ。要は、複数学年混合で実践重視の勉強合宿をしましょう、って行事だね。一応毎年開催はされているけど……」

 視線を受けてアルベリスはかぶりを振った。学院の行事はほとんど確認していない。配布された暦に記載があったとしても、意識したことは一度もなかった。

 ラーゼノンは続ける。

「時期は霆節ヴェイルの帰省期間に入る直前。学院と同じリシナン地方西部のトゥヴェル森林に学院所有の館があって、そこで二泊三日を過ごすというわけ。昔引率で行ったことがあるけど、結構楽しかったなあ。……どう?」

「どう、と言われましても」

 元々行く予定はなかった行事だ。拒絶をするほどではないが――。

 ノーシェを見ると、唇を引き結んでじっと答えを待っていた。性格を思えば、彼女がどれだけの気力を振り絞ったかは想像に難くない。そこで逡巡する自身を意外に思っていると、教壇からも声がかかった。

「いいんじゃない、行ってみれば。せっかく誘ってくれたんだしさ。私も嬉しいよ」

 アルベリスにしてみればそれは見事な援護だった。これで断るのは、無粋に過ぎる。

「――わかった。行くよ」

 ノーシェの表情が一気に晴れる。「良かった……」安堵の息を零して照れ臭そうに笑う。目を逸らした先にはラーゼノンの顔がある。

 真っ当な大人の顔だ、と思う。

 誰かを導くことのできる、温かな。

「よし、よし。それなら、手続きとかは私も手伝うから、もし他に誘いたい人とかいれば言っておいてね」

 ラーゼノンはそう言って話を締めくくると、「さて、今日は何をしようか」と二人に向けて語りかけた。



「ええ、構いませんわ。なんだか面白いことになりそうですし」

 交流会の件で声をかけると、アンナリーゼは二つ返事で了承した。その日はアルベリスが部屋を訪ねており、アンナリーゼは細かな貴石を歯車の機構に嵌め込んでいるところだった。

「それにしても、あなたが折れることになるとは。マレオン嬢もやり手ですわね」

「断れる感じじゃなかったし……教授にも推されたから」

 アルベリスは言い訳がましく言って口を曲げた。想定外もいいところだが、決めてしまったものは仕方がない。後は野となれ山となれ。やれることをやるだけだ。

「他にはどなたか?」

「特には。相手もいないし誘う気もない」

「ノキア嬢は?」意地の悪い笑みで振り返る。「彼女なら喜ぶでしょうに」

「あり得ると思う?」眉間を押さえて首を振り、「喜びそうなのが余計に嫌」

「なら、仕方がありませんわね」

 アンナリーゼはつまらなそうに肩を竦め、手元の作業へと戻っていった。

「ああ、そうだ」

 部屋を出る間際、アルベリスは訊きたいことがあったのを思い出した。スティン・フェドルのことだ。

 会ったことがあるか、と訊ねると、アルベリスは顔を上げて、

「襲撃の時、一緒にいたとかいう、あの? いいえ。錬金術学科には来ていませんし、学内でも街でもわたくしは一度も」

 アルベリスは礼を言って自室へと戻った。ノーシェの発言が気になってのことだったが、アンナリーゼの言葉からすると、彼を使っているのは一部の学科のみなのかもしれない。しばし考えてから、どのみち偶然だろう、とアルベリスは結論づけた。

 電気を消し、寝台に横たわる。母の死からしばらくは、眠るのが憂鬱で仕方なかった。必ず例の夢を見たし、寝覚めは当然最悪だった。おかげで神経の尖っている日も多く心労は絶えなかったが、近頃は悪夢を見たのかどうかも、いまいちよく憶えていない。

 アルベリスは思う。

 これは良い兆候だろうか? 不吉な予感は遠ざかり、別の可能性に想いを馳せる余地が出たのだろうか?

 仮にそうであるのなら、どれほど心が安らぐだろう。暗闇の中に閃く殺意に怯えながら、そうならないために自身を研ぎ澄ます日々を捨てられたなら、どれほど静かにいられるだろう。

 実際、以降のひと月ほどは極めて穏やかに過ぎていった。テレスタシアを避けながら、眠り、目覚め、学び、食事をし――ありふれた〝同じ〟を積み重ね、流節ユールの季節は去っていく。

 そうしてほんの微かな期待を抱き始めたところで、アルベリスは再び、渋面をつくる羽目になった。


「――どうして、彼女が」

 手渡された交流会の名簿に声が漏れる。ラーゼノンはその反応が意外だったようで、

「え? だって本人が言いに来たから……『同じ班になれないか』って」

 アルベリスは自身の希望が潰えることを思った。

 交流会まで、あと一週間。

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