聖なる香、凍える渦-2


 呻き、悲鳴、瓦礫を震わせる咆哮。

 着地場所はややずれたが、それでも伏せた全身は塵に塗れていた。スティンの姿を探すと、少し離れた場所で気を失っている。手をついて立ち、スティンを建物の陰まで引きずり運ぶ。通りは逃げ出す人で溢れている。魔術学院の学生が多いとはいえ、〝あれ〟に立ち向かう蛮勇は流石にないようだった。

 巨大な躰躯、強靭な翼、一振りで家屋を破壊せしめる爪。


 堕龍ガーフェン、と呼ばれる魔物がいる。


 イェンアードの真なる龍からわかたれた劣化品。知性に乏しく、息撃もない。しかしその脅威は自然にあって明らかであり、採取される素材は魔術における高級品と謳われている。

 アルベリスの知識の範囲で、その龍はまだ若い部類に入ると思われた。全長も記録を元にすれば中の下程度。ただそれは、討伐が容易いことを意味しない。

 アンナリーゼが気がかりだった。彼女は強いが、今日は自衛手段である〈七侯アラスタリク〉を持ち出していない。彼女の側にカーディウスやテレスタシアはいるだろうか? 彼らが死ぬならともかく、アンナリーゼの死だけは想像もしたくなかった。

 興奮した様子の大音声が街に轟く。か学院の高位魔術師が到着するまで、どれほどかかるかわからない。スティンのことは置いておくことに決め、裏道からアンナリーゼの向かった方へと駆け出した。

 吹き飛ばされた建材が降る中を抜けていく。以前テレスタシアに連れられて訪れた飲食店に辿り着くと、大通りから外れた位置に人が固まっているのが見えた。周囲に目を光らせていたカーディウスが、無言のまま手を振った。


「アンナリーゼは?」

 迫るアルベリスにカーディウスは奥まった位置を指で示した。金と白茶の髪が、怪我人の間で忙しく揺れた。

「簡単に消毒と止血をいたしました。今後動くとしても、まずは安静に」

「これで痛みが和らぐはずです。傷を治すには時間がかかりますが……」

 張り詰めた空気を啜り泣く声が流れていく。アルベリスは胸を撫で下ろしてから、「どうするつもり」と問いかけた。カーディウスは渋面をつくりながら小声で答える。

「一般人を逃がしたい。ただ、こっちには怪我人もいてな。ノキアとベルフェロイツが診ているが、子供と年寄りのことを考えると、あまり長くは移動できん。通りから離れて迂回できればいいが……」

「……なるほど。陽動ね」

 カーディウスは頷く。「話が早くて助かる。俺と、もう一人欲しかったんだ。頼めるか」

 アルベリスは応急処置に勤しむアンナリーゼを見た。視線が合うと近寄ってきて「無事を喜び抱擁したいところですが、一つ気になることが」

 先を促すと、懐から取り出した小型の筆記帳に堕龍ガーフェンの簡易図を書き、左大腿部に印をつける。「先ほど聞いた話によると、この位置に裂傷があったとか。若い雄の堕龍ガーフェンです。傷の痛みに闘争心を刺激され続けている可能性も考えられますわね」

「要するに」アルベリスは即座に言葉を繋げる。「ここに刺激を追加すれば、注意は固定されるんでしょ。私がやる」

「本気で言ってんのか? 下手こけば即死だぞ」

「目的がはっきりしていて選択肢もないならやるしかない。それに、方法ならある」

 骨晶イヴァロの魔術杖を掲げて見せる。

「事前に血の魔術を付与してこれを飛ばす。言っておくけど、表に立つのはあなただから」

 カーディウスは大きく息を吐く。「わかったよ。お前の案が最適解だってな」

「では、わたくしは治療と誘導に。ノキア嬢にも伝えておきますわ」

 アルベリスは杖を握り締める。「そっちの触媒は?」

 袖を捲って籠手を見せ、「俺もぞくだ。忘れねえよ」


 二人はアンナリーゼに合図を送ると、建物の隙間を抜けて人々から遠ざかった。堕龍ガーフェンが目視可能な位置に着いてから二手に別れ、アルベリスはそっと通りの様子を盗み見る。

 何度も前を通った家々が圧壊している。少し気になっていた店は跡形もなく、偽りの龍は飛び立つ気配も見せずに、気の赴くまま街を破壊し逃げ回る影を追っている。「余計なことを……」悪態を吐いてから、杖を逆手に「【抜剣フュルム】」短剣で手のひらを薄く裂いた。

「【血楔ドゥナス・イェクト】」

 唱えると同時に、流れ出る血液が短剣に絡み、刃に新たな層を成す。赤みを帯びた短剣を構え、意識を研ぎ澄まし狙いを定め――「【揺らげヴェア】」

 一条の光が通りを貫く。堕龍ガーフェンが身を翻す間もなく、その血は傷へと突き刺さる。

 叫びにも似た咆哮が空気を引き裂く。反転した堕龍ガーフェンの注意の先に、籠手に炎をまとったカーディウスが姿を見せる。「来やがれッ!」

 脚を引きずり、石畳を揺らしながら龍が走る。初撃は噛みつき。「【カラム】!」後退し、街より引き離しつつ回避に努める。爪の叩きつけ。「【弾けイェクト・カイ】」間に合わない箇所はアルベリスが血を触媒に魔術で埋める。重要なのは、とにかく避難を終わらせること。それさえ済めば、あとは他の人に任せればいい。


 一分、二分……カーディウスはよく耐えている。【カラム】による急激な移動で翻弄しながら、隙を見て拳を叩き込む。お陰で堕龍ガーフェンの怒りを維持できている。

 ただ破壊するだけならどうとでもなる。こうした協調の方が、アルベリスには何倍も高度に思えた。

 五分が経った。アンナリーゼたちは避難を終えただろうか? それとも、負傷者に合わせてまだ道の半ばだろうか? そんなことを頭の片隅で考えた時――どこからか、空へと抜ける笛の音が聞こえた。

 堕龍ガーフェンの動きが止まる。「おいおい……」距離を置いたカーディウスが表情を歪める。嫌な予感がする。

 想像は最悪のものほどよく当たる。低く唸った堕龍ガーフェンが、カーディウスから顔を背けて残る家々へと猛進を始めた。自身の頭が傷つくことも構わずに、新たに定めた標的だけを見据えるように。

「マジかよ、クソッ!」

 魔術の爆発で加速しながらカーディウスが後を追う。アルベリスの脳裏に、アンナリーゼの顔が浮かんだ。

 ……わかっている。自分の足では追いつけない。瓦礫の山によじ登り、視界に堕龍ガーフェンの姿を捉える。

「【夜の波濤、逆巻く暗礁、穿てニヒト・イェクト・アリス=ロア=レピド・ヴェア】!」

 街に沈む陰翳が巨大な槍となって襲いかかる。翼を貫き、鱗を引き裂き、しかし堕龍ガーフェンは止まらない。

 思考が焦燥に渦を巻く。他に、他に、届くものがあるとすれば。

 視線を落とす。左手の人差し指に輝く指輪。


 オルテーアとローベルから借り受けた、呪詛と怨霊の限定契約。


「違う……」

 アルベリスは否定する。違う、違う……。

 今必要なのは借り物ではない。わかっている。

 必要なのはいつだって、純粋で破壊的な、自分自身の殺意なのだ。

 堕龍ガーフェンへ向けて腕を伸ばす。手のひらから滴る血液が、魔力の励起に浮かび上がる。


 ――ラーゼノンの助言を受けて、考えていたことがある。

 僅かな仕込みで、対象を確実に破壊する方法。

 研鑽を続けてきた血の魔術を契約に、生命を

 それはアルベリス自身の血をもって、異種の血をも変質させる。

 それは凍てつく月の息吹によって、永遠を奪い、果てなき停滞へと磔にする。


「【月の冷光、滅びの息吹、時を示すは血涙の針フュルム・ニヒト・イェクト・パラメル=ロア=アギドゥロ・レガテ――――――】」


 ひときわ強い爆炎が市街に昇る。堕龍ガーフェンが硬直する。声が聞こえる。

「やっちまえ! 冷血女ッ!」


「【――――――閉じよヴェア】」


 音が、消えた。


 次に生まれたのは、冷気の渦と崩壊の音律。

 それは今は遠い炉節リーツを、人々に想起させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る