聖なる香、凍える渦-1


 家族というものを考える時、アルベリスが抱いてきたのは常に困惑だった。


 物心つく頃に父の姿は既になく、母は子供に対してずっと距離を置き続けた。家族にまつわる多くのことが当然のように隠されていた。ユーティライエの女は一人で身籠る。そんな馬鹿げた噂さえもが、真実であると思えたほどに。

 姉妹についても同様だった。ヴァロナ、オルテーア、カステル、アリサの四人と、アルベリスはほとんど話をしたことがない。ヴァロナは学院卒業後早くから帝国術理協会の所属であったし、カステルなどは入学後わずか一年で学院を飛び出し、以降ずっと世界を彷徨し続けている。また、アリサは他者との交流を好まず、辺境学術都市レルケロに赴いてからは一度も帰ってきたことがない。辛うじてオルテーアが五女ローベルと帰省していたが、会話の糸口などどこにもなく、沈黙こそが支配者だった。

 ローベル、キレム、エリスティスはそれぞれにアルベリスを構って回った。中でも二歳違いの七女エリスティスは、アルベリスの知る限りで最もまともな感性を持ち、最も真っ当に姉として接してくれた。「困った姉さんをたくさん持つと、末の妹は大変よね」そんな風に笑いながら、よく物語を聞かせてくれたのをアルベリスは今でも憶えている。

 そんな彼女が自身の目の前で錯乱し、自身の知らない存在に変わっていくのを目の当たりにした時、アルベリスにとっての〝家族〟は解釈不能に塗り潰された。唯一頼りにしていた拠り所すら永遠ではあり得ないのだと、あまりにも早く悟ってしまった。

 だから、他者と新たに親密な関係を築くことを、アルベリスは想像できない。

 それは最初から存在しないもので、手を伸ばしても無意味な、底なしの虚無に過ぎないが故に。


「へぇ? ダルディオの彼とノキア嬢が。それはそれは」


 昼時、小噴水広場の長椅子で件のことを話すと、アンナリーゼはすぐに笑みを深めた。よからぬことを考えている時の表情だった。彼女をよく知らない人からすれば、ただ微笑んでいるだけにも見えるだろうが。

「愉快なことになりましたわね。噂好きの学生にとっては、この上ない特種……」

「お金になる?」

「もちろん」アンナリーゼは頷く。「情報は価値。価値は経済」鼻歌混じりに荷物をまとめ、散歩に向かう準備を終える。「さ、行きましょうか」

「わかったよ……」

 アルベリスは溜め息と共に立ち上がる。空は良く晴れ渡り、噴水から跳ねる飛沫が爽やかな煌めきを零している。街へ出るには絶好の日和。きっと、カーディウスとテレスタシアにとってもそうだろう。あの手の話には勢いが要る。

 アンナリーゼ持ち前の人当たりの良さで、学内を行く学生から情報を得る。本人に近づくほど守りは硬くなったが、商人の弁舌から繰り出される秘密の鍵きょうはくにはなすすべもない。アンナリーゼは入学当初他者から多くの好意を寄せられたが、ひたすらにかわし続け相手が焦れたところを学内裁判に持ち込み、示談金をむしりとることを繰り返すうちに〝悪女〟の異名をほしいままにした。悪女と魔女に捕まって、口を割らない者はどこにもなかった。

 最終的に、例の二人が街へ続く門の前で待ち合わせていることを突き止めると、アルベリスたちは遠目に見える程度の位置から様子を伺うことにした。通りには多くの往来があり、目立つ彼らがどのように動くつもりかはアルべリスにもわからなかった。

 アンナリーゼが肩を叩く。テレスタシアが先に現れ、直後にカーディウスが走り寄った。互いにぎこちなさはなく、いくらか言葉を交わすと滑らかに街へと繰り出していく。

「どこに行くと思う?」

「昼食かお茶が無難でしょうが、正直読めませんわね。追いましょう」

 一定の距離を保ちながら二人の後をつけていく。少し進む度に「自分は何をしているのか」と疑念に駆られるのをなんとか遠ざけ、意気揚々と前を行くアンナリーゼの背中を見つめた。

 彼女の理性的な強欲と豪胆さは、自分が決して持ち得ないものだ。よく連れ出され、助けられ――時には醜い羨望を抱きもした。それでもこの関係は〝交換〟であったから、アルベリスは心から安心していられるのだった。


 テレスタシアの金髪が主要な通りを外れて脇道に入った。やや急ぎ足で向かう途中、アルべリスは反対側から駆けてきた男にぶつかった。「おわっ」腕をすり抜けた紙束が地面に散った。

「――ごめんなさい。拾います」

 振り返るアンナリーゼには「先に行ってて」と告げ、屈んで紙を拾い集める。「すみません、よく見てなくて」男は言いながら自身も地面に手を伸ばした。髪は黒く中肉中背、アルべリスよりは年長だが、まだ青年と言って差し支えないように見える。爽やかな印象以外にこれといって特徴はなく――街に紛れたら探し出すのは難しいだろうとアルべリスは思う。

 あまり良く見ないようにはしたものの、紙には魔術関連の用語が散見されて、先ほどの様子から学院に用があるものと推察された。「学院にご用が?」紙を手渡して訊ねると、男性は「いやあ」と言って、

「応用魔術科に用がありまして。途中道に迷ったものですから、焦ってしまい……」

「駅から学院まではほぼ一本道のはずですが……」

「方向音痴なもので。まったくお恥ずかしい限りです」

 男はどこか軽薄に笑うと手を差し出して、

「学院の学生さんなら、またお会いする機会もあるでしょう。僕はスティン、スティン・フェドルで――あ」

 手に対する警戒を解かない内に、スティンと名乗った男は更なる不審を一つ重ねた。言葉を言い終えずに宙を見上げ、何やら目を凝らしている。

「あの、あれ……何か、近づいて来てるような……」

 何を言っているのかと、スティンの指さす方向を見上げてみる。まばらに散った白雲が悠々と空を漂う最中、確かに何か動くものが、次第に大きくなりつつあった。黒い点……それには翼があるように見える。


 肌がひりつく。


「逃げて! 早く!」

 その声がどれだけの人に届いたか、アルべリスは知らない。

 長閑な街に流星が降る。

 生活を砕く轟音を、確かに聞いた。

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