魔女の死


 北の魔女が死んだ、と誰かが言った。


 炉節リーツの終わり。重い雲の垂れ込めた鈍色の景色に、黒の葬列が短く伸びる。死神の弔問、あるいはこくこうちゅうの群れのように、そこに意志と呼ぶべきものはなく、本能にも似た形式と機能だけが漂っている。エレオノーラ・ユーティライエを恐れた人は数知れず、魔性と謳われた美貌や姿を見せないが故の沈黙に底知れないものを見出したのだろう。彼らは彼女を〝北の魔女〟と呼んだ。しかしその魔女の命も、所詮は錆びつく有限に過ぎない。

 納棺された母の亡骸は永遠を示すように美しく、目を離した隙に動き出すのではないかと思わされた。ユーティライエの家紋にもある血契薔ティゼルの、滴るような深紅の花が寒々しく青褪めた皮膚を彩っている。献花の時、儀礼的に残された茎の刺が指先をついて赤が滲んだ。契約は血によってなされるという言葉をアルベリスは思い出した。そして同時にこうも思った。自分は生まれる前から家名の奴隷だった。血は呪いだ。この忌々しい肉体の重みと、否応なしに繋がっている。

 帝国の埋葬法に則り、強力な魔術師の肉体は聖徒によるきよめののち、熾祈術リツィオによって火葬される。まばらに降り出した雨の中でも、魔術の炎は煌々と燃え盛り、内包された魔力を拡散して宙に小さく火花を散らした。

 エレオノーラの遺体は二日に渡って燃え続けた。屋敷の窓から覗く遠い墓地の上空には、渦巻く魔力の残り香が浮かぶようで、視界に捉える度に、アルベリスはそっと目を逸らした。

「残念ですわね、お母様のこと」

 屋敷で開かれた送別の折、雑事を済ませ隅で息を吐くアルベリスの元へ、アンナリーゼ・ベルフェロイツはそ知らぬ顔でやってきた。「心にもないことを」悪態を着いたつもりだったが、錬金術師の幼馴染は、いつものように飄々と「しばらくは魔除けの護符がよく売れそう」などと薄く笑うばかりだった。

 母の名を知る人は多くとも、その実態を知る人間は一人もいない。八人の娘でさえも。

 元より人前には姿を見せない人だったが、最後の半年は外に出ることも強く拒み、自室にずっとこもっていた。姉も、アルベリスも、使用人たちも、誰一人として母の回復を支えようとはしなかった。それが腐敗し始めた死体を蘇生するに等しい愚行だと、誰もが密かに悟っていたからだ。


 死因は魔術杖による心臓の破壊。自殺だった。


 死体を見つけたのは、齢十八を迎えアルバレスク魔術学院での進級を前に帰省していたアルベリスだった。夜燭を焚いた虚ろな部屋の、赤に金の刺繍の施された敷物の上に、とろりと艶かしい染みが広がっていた。椅子に座った母の横顔を炎の陰翳が舐め、胸に突き立つ杖を照らし出した。明らかに自殺だった。なのに、姉の一人が「いや、これは事故だね」と語り始めた途端、事故死ということになっていた。

「信仰なんてないけど、まあ同じ墓のがみんな楽でしょ」

 六女のキレムは、紫煙を吐き出して朗らかに笑った。

 葬儀に来たのは、八姉妹のうち半数のみだった。おうがいせい団長の次女オルテーア、墓守の五女ローベル、法令院調停官の六女キレム、そして、末のアルベリス。長女ヴァロナは国家反逆罪で央都の地下に幽閉、三女カステルは行方不明、辺境レルケロにいる四女アリサは手紙でひと言「忙しい」とつっぱね、七女エリスティスはアグラヴェネにある教会の施療院に軟禁中。話が通じないか得体が知れないかの二種類しかいない姉の中で、集まるのはいつも後者だった。


「というわけで、次の当主はアルに決定、と」

 総括するようにキレムが言い、オルテーアとローベルが異論なしというふうに首肯する。常に陰翳を孕む屋敷の居間を電導術ヴェルキスの光が照らす中で、長机の空席ばかりが目立っていた。納得も何もない。ユーティライエ直系の姉妹の中で、まともに家を継げるのが一人しかいないというだけの話だった。

 遺産相続を好んでするような酔狂は、姉妹にも傍系の血筋にもない。姉たちは全員が継承権を放棄しており、アルベリスにしても破綻者ばかりの姉に任せるよりはマシ、という思いから仕方なく引き受けているに過ぎない。当主とは、一族が刻んできた膨大な呪いの数々を抱える者であって、それは血契薔ティゼルに生涯を捧げることと同義だった。忌まれながら死んだ母と同じ道を辿らないと、どうして保証ができただろう。

「とはいえ、アルはまだ学生の身だし」キレムは後頭部にまとめたいぶし銀の髪を揺らし、鷹揚に両手を開いて先を続ける。「学院の卒業までは、イオナ叔母さんが代理をやってくれるよう話はついてる。母さんも調子を崩してからは叔母さんに任せてたし、まぁ、これまで通りさ」

「……これまで通り?」まさか、と疑念を向けると、おどけた調子で舌を出し「概ねは、ね」と後付けした。

「何かあれば遠慮なく連絡して。学院から近いのは私のところユーエンここノヴィア央都ハイングラムあたりだから、呼ばれたらこの三人の誰かが直行するよ。他の人は……」

「まぁ、あてにはならないでしょうね」とローベルが言う。常に絶えない微笑みの意味を、アルベリスはずっと図りかねている。「きっと、私たちの方がましですよ」

 最低限の採決を終え各々が立ち上がった段になって、キレムがふと思い出したように「ああ、そうそう」と口を開いた。「最近、悪夢を見るんだって?」

 誰にも話していないはずの情報だった。同級生テレスタシアの顔が浮かび、身を固くする。「誰が……」

 キレムはあっけらかんと答える。「眉間の皺が深くなったと、使用人が心配していたよ」

「……大丈夫。少し、疲れてるだけ」

「そう? 学院に戻るまでに回復すると良いね」

 それじゃ、私は事件の捜査があるから、とキレムが部屋を去り、オルテーアとローベルが後に続いた。オルテーアは傍を通る際に「指輪は」とひとこと訊ね、無言の首肯を見つめてから「そうか」と言って背を向けた。ローベルが緩く手を振って姿を消すと、濃密だった魔力の気配が薄らいで、アルベリスはようやくまともな呼吸を取り戻した。八人すべてが揃った時のことなど考えたくもない。決してあり得ないことではあるとしても。

 椅子にもたれて目頭を揉んでいると扉を叩く音があり「アルベリス様」と使用人の声がくぐもって届いた。「イオナ様から通信がございます」「ありがとう。繋いで」しばらくすると卓上の受信機が鈴の音を鳴らした。「代わりました。アルベリスです」

『なんだか酷い目にあったみたいね。倒れてない?』

「まぁ、どうにか」息を吐きつつ静かに答える。「今すぐ眠ってしまいたいところですが」

『でしょうね。けど、私が行くまでは耐えてもらわないと。三日後にはどうにか着けそうだから』

「すみません、こんなことで……」

 罪悪感から呟くと、叔母は朗らかに笑って、

『良いのよ。央都ハイングラムの屋敷は空いちゃうけど、あそこの陰気な政治劇にはうんざりしてたの。そっちノヴィアも今は大概でしょうけど、せいぜい住み良いように使わせてもらうわ』

 何らかの魔術的逸脱を抱えて生まれてくるユーティライエの血筋にあって、イオナ・ユーティライエは数少ない〝何も持たない〟人だった。代わりに、極めて優れた政治手腕と大局観によって家を維持してきた柱でもあり、アルベリスは幼少期からイオナに憧れ、よく懐いていた。

『継承の時はやっぱり揉めてねえ』どこか懐かしむようにイオナは言った。『何もないからって早々に権利を捨てた私以外は姉妹同士で殺し合って、生き残ったのがあなたの母親だった。だからまぁ、あなたたちが同じようにならなくてよかったわ。そこは少し、ホッとした』

「仮に本気で殺し合ったら、国が滅びますよ。主に長女ヴァロナ次女オルテーアのせいで」

 今回は粒揃いだものね、と冗談めかした声が返る。『史上初の六術種使いにして帝国術理協会の〈かいめいきょう〉と、一人で軍に匹敵する呪いの化身、央都外征徽士団の〈けん〉、ね。ヴァルナラスからすれば、一番怖いのはあなたたちが手を組むことでしょうけど』

「ありえませんよ」可能性以前に存在することのない想像に思わず笑う。「天地がひっくり返ってもね」

『ともかく、あと少しの辛抱だから』イオナは励ますようにそう言って『それじゃあね』と通信を切った。受信機を置き、柱時計の音だけが響く居間を後にする。

 アルベリスの私室は屋敷の二階、その奥まった角に位置していた。姉が独立し母も死んだ今、屋敷には空白ばかりが広がっている。孤独は苦ではなかったものの、静まり返った廊下や死角の陰翳に蟠る虚無の気配を、ふとした時に恐ろしく思う。底もなく果てもなく、しかし確かにそこに在る。ユーティライエ外衛伯領、ノヴィア。街の一部でありながら、どこか遠ざけられた自身の生家が、アルベリスは昔から苦手だった。

 炉節リーツから流節ユールに変わるまでの約一ヶ月。進級前の支度も兼ねた些細な帰省のはずだった。しかしそれももう終わる。母の死に彩られ、自身を含めた誰一人として、それを悲しんでいないという現実を前にしながら。

 机といくつかの棚、それから寝台。重要なものは学院寮に持ち出したので、残っているのは今は使われることのないものたちだけだ。書棚に並ぶ美しい装丁の逸話たち。どれもこれも学院入学以前と相違なく思えるのは、使用人たちが空白の部屋も甲斐甲斐しく世話しているおかげだった。彼らがどのような経緯でこんな家に来たのかはわからないが、不思議なことに一度定着した者は長く居着いた。

 書棚の表面にある本の層を開くと、隠し棚が姿を見せる。特段秘密にしているわけでもないので使用人たちも知っているだろうが、そこだけは開かれた形跡がなくわずかに埃が積もっていた。列を成すのは、大小様々に分類された瓶の数々。中には爪の破片や髪の束、血液が入っており、魔術的処理によって触媒としての機能を保持し続けている。ローベルの勧めで、十歳の頃から貯めてきたものだった。

深聖術ニヒトライアのみならず、呪詛や死霊の起動には対価が必要です。爪や髪……可能なら血液も、保存しておくといいでしょう」

 当時十五歳で学院入学を控えていた彼女は、その時も笑んでいたと記憶している。ローベルは姉の中でアルベリスとの交流を曲がりなりにも積極的に行なっていた一人で、他にはキレムとエリスティスも自分なりに関わりを持ってはいた。キレムの言葉は胡散臭く、エリスティスは四年前に施療院に送られてから、一度も顔を合わせていないとはいえ。

 どうあれ、生真面目に瓶詰めしてきた生体組織も、今のところ日の目を見る予定はない。このまま使う機会などなければいいと、アルベリスは人差し指に嵌めた指輪をそっとなぞった。


 北の大地に黄昏が落ちる。ノヴィアの街に明かりが灯り、街路を彷徨う風に混じって、北の魔女が死んだ、と誰かが言った。

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