第16話 2番Aメロ 3
休日の動物園は、家族連れだけではなく、カップルでも大賑わいだった。入り口から順に観て歩き、ライオンのエサやり風景の迫力に思わずあとじさる。翔太君も、大きな牙をむき出しにして、生肉に食らいつくライオンの姿を見てしり込みしていた。人気のパンダの前は人だかりで、翔太君にも見せてあげたかったけれど時間がかかりそうだ。
「なんにも見えないよぉ」
前に犇めく人だかりに翔太君が頬を膨らませていると、宮沢が小さな体をひょいっと抱え上げ肩車をした。
「たかーい」
両手を上げて喜んだのも束の間、それでも人の犇めきに遮られ、人気のパンダは拝めないらしい。
「見えないから、もういいよ。僕、キリンが観たい」
「そうだった、そうだった」
潔くパンダを諦めて先へと進む。途中でソフトクリームを買い、三人で食べ歩きながらキリンのいる場所を目指した。肩車をしたまま歩きだす宮沢の横に並び、高い場所から目をキラキラさせている翔太君を仰ぎ見た。
なんだろう、この幸福感。今まで感じたことのない感情に、心が満たされている気がする。
「そりゃあ、憧れだな」
心を読んだかのように、フワフワとすぐそばをついて回るカズフミが言った。
「あんた、心の声まで聞こえちゃうわけ?」
二人に聞こえないように半歩ほど後ろに下がって、こそこそと文句を言った。
「夏奈の目を見てれば、家族に憧れてるのなんて一目瞭然だろ」
家族へのあこがれか。
祖母が亡くなってからは、母一人子一人で生きてきたから、全く寂しくなかったと言ったら嘘だろう。保育園や学校へ通うようになれば、当然のように父親という存在に気がつくし。そうすると、今度はどうしてうちには父親がいないのだろうと疑問に思う。祖母が健在だった頃に何度か父親のことについて訊ねたこともあったけれど、悲しげな表情をされるだけだった。そんな祖母の表情を見てしまえば、子供ながらに母にその事を訊ねてはいけないのではないだろうかと、話題を避けるようになった。父のことを口に出さない私を慮ってか、母は時々話をすることはあったけれど、その時の表情はいつも穏やかだったからきっと幸せな時間だったのだろう。母のその顔を見れば、どうしても父親が欲しいという感情にかられるだとか、居ないことについて母を責めるだとか。そんな行動に出ようという気は起きなかった。だって、母は精一杯私のことを愛し育ててくれたと感じていたからだ。それでもやはり、父と母がいる一般的な家庭に憧れを持たないはずもなく。私自身は、もしも結婚することがあるなら、子供には父親という存在があることに幸せを感じて欲しいと思っている。
肩車されている翔太君のにこやかな顔のあと、宮沢の横顔を見る。家族とは、きっと同じ場所で同じように幸せに笑いあえることなのだろう。
カズフミは、どうだったのだろう。カズフミにだって、きっと父親や母親はいたはずだ。もしかしたら、兄弟だっていたかもしれないし、恋人だって……。
ほんの少し足元を浮かせたまま隣を歩くようについてくるカズフミに視線をやると、頭の後ろで両腕を組んで口笛なんて吹いている。暢気に見えるその姿の裏に、どんな過去があるのだろう。生前の記憶がほぼないとは言っても、口にしないだけで思い出していることはあるかもしれない。その中に、悲しい出来事や辛い出来事、事故のこともあるかもしれない……。
私が勝手に抱いた感傷的な思いになど気づくこともなく、カズフミは目を輝かせて動物たちに視線を送っている。
ほんと、楽しそうにしてるんだから……。
センチメンタルな感情に浸りそうな心を上向きにしようと、両頬を掌でパンパンッと叩き表情を引き締めると、前を行く宮沢がどうした? という顔で振り返るから、笑顔を見せて再び隣に並んだ。
キリンの前には人だかりもなく、首を長くして柵の中でのんびりと立つ大きな姿に、翔太君がわぁっと感嘆の声を上げた。
幼い頃に見た記憶はあるけれど、大人になってからこうやってまじまじと近くでキリンを見ることなどなかったので、その大きさにちょっと驚いてしまった。
カズフミも、ほんとにすげーでかいと圧巻の声を上げている。そうして、誰にも見えないのをいいことに、キリンのすぐそばまで行って、周囲をくるくる飛び回っているのだ。動物は気配に敏感なのか、カズフミが近寄ると興奮しだして、じっと立ったままでいたキリンたちがうろうろとしだした。落ち着きをなくしたキリンが暴れ出したら大変だ。
こっちに戻りなさいよっ。
宮沢の背後に立ち、二人に見えないようにして、慌ててカズフミに手招きした。カズフミもざわつき出したキリンたちの様子に気がついたようで、スーッとこちらへ戻ってきた。
「俺、動物園に来たのは、初めてかもしれない」
「えっ。うそでしょ?」
戻ってきたカズフミの言葉に驚いてつい声を上げると、翔太君と柵の真ん前でキリンを観ていた宮沢がこっちを振り返るからなんでもないふりを装った。
「小さい頃に行ったような気もすっけど……」
記憶の曖昧さに首を傾げている。
翔太君と同じくらいキリンに夢中になって目をキラキラさせているカズフミを見て、ちょっとだけ胸が切なくなってしまった。どんな事故に遭ってこうなってしまったのか解らないけれど、カズフミだってきっと好きでこうなっているわけではないだろう。本当なら生きて触れたり味わったりしたいものだってたくさんあるだろう。それができないまま、こうしてずっと現世に留まる羽目になっていることを思えば、あまり冷たくするのもかわいそうな気がしてきた。
カズフミのことを不憫に感じている傍らで、宮沢と翔太君は本当の親子のように楽し気にしている。
「翔太、キリンの鳴き声知ってるか?」
宮沢がなぞなぞを出すみたいに少しだけ口の端を上げて訊ねた。
「え? キリンて鳴くの?」
翔太君は知らなかった事実に目を大きくして宮沢のことを見た。ついでに言うなら、二人には見えないカズフミも、二人のそばにいる私も、キリンの鳴き声に興味津々で宮沢に注目した。
「なんだよ。キリンて鳴くのかよ。なんて、鳴くんだよ。早く教えろよ」
二人に聞こえないのをいいことに、カズフミは宮沢の耳元でせっついては、鬱陶しいくらい周りをグルグルと何周もしている。
「キリンは、牛みたいに鳴くんだ」
「ウソだー」
翔太君が笑いながら否定するすぐそばで「子供にうそを教えんじゃねーよ」とカズフミが文句を言っている。どっちが子供かわからない。
「ちょっと黙ってて」
カズフミがあんまり煩いからついそう言ったら、宮沢に「あ、ごめん」と謝られてしまい、慌てて「違うの、ちょっと別なことを思い出して」なんて苦し紛れに誤魔化した。当然、宮沢に見えないようにカズフミを睨みつけたことは言うまでもない。
「飼育員さんでもなかなか聞くことができないくらい、たまーにしか鳴かないんだぞ」
「やっぱ嘘ついてんじゃねぇのか、この優男。本当は鳴かねぇから、そんなご託並べてんだろ」
しつこくぶちぶちと文句を言うカズフミに、本当に黙っててと声を大にして言いたくなる。ここに居る誰よりも子供のような態度だ。
翔太君にどうしても聞かせてあげたいらしく、宮沢はスマホでキリンの声を検索し再生した。宮沢のスマホからは、確かに牛のような鳴き声が聞こえてきた。
翔太君と一緒になってキリン声を聴いたカズフミは、さっきまでぶちぶちと文句を言っていたにもかかわらず再び目を輝かせた。それは、キリンの声を聴くことができたことと、現代のスマホ技術に感動している両方のようだ。
「おい。夏奈。ホントにモーっていってるぞ。スゲーな。つーか、この平べったい電話を造ったやつは、天才だな。どーなってんだ、この中身はっ」
感心しながら、何度も「モー」と鳴くキリンの声に聴き入っていた。
カズフミの時間は、一体いつで止まっているのだろう。聴いている曲や東京タワーを知っていること。平紐のイギリスブーツを履いていることから大体の年代は想像できるけれど、正確なところまでは解らない。それを知ることができれば、図書館に行って当時の事件や事故を調べられるし。そうすれば、カズフミがどこの誰なのかもわかると思うのだけれど。
「腹減らないか?」
肩の上にいる翔太君に訊ねたあと、宮沢が私を振り返った。
「お昼にしようか」
宮沢と翔太君に向けて言うと、二人が同じように目を輝かせて頷いた。二人の表情に、こっちまで笑顔がつられた。
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