第12話 1番サビ 2
「一人暮らしだと、色々大変だったろ?」
仕返しを考えながら目の前の料理を口へ運んでいると、ビールを飲み干した宮沢が訊いてきた。宮沢と飲んでいるという現実を、カズフミのせいでつい忘れがちになってしまう。仕返しのことは一先ず置いておくとしよう。
「母が田舎から出てきてくれてたの」
「そうだったんだ。会いたかったな、澤木のお母さん」
「なにそれ。どこにでもいる母親だよ」
「せっかくだから、挨拶しておきたかったよ」
「挨拶って」と笑う私を、宮沢がまたあの優しい眼差しで見てくる。
えっと……。その目にはどう対処したらいいんだろ。
苦笑いが浮かんでしまい言葉に詰まっていると、宮沢もほんのり笑みを浮かべながら店員さんを捉まえてビールのお代わりを注文した。
「母親とは、どれくらい会ってなかったんだ?」
「それがね、意外と会ってるの。夏と冬は、帰るようにしてるからね。祖母ももういなくなって、母一人で大きな家に住んでるから心配だしね。本人は、まだまだ若いんだからって言うけど、一人きりって寂しいものでしょ。私が向こうに戻ればいいんだろうけど、田舎は仕事も少なくて排他的なところがあるから少し苦手なんだよね。隣近所の噂はあっという間に広がるし、尾鰭背鰭なんて当たり前のように大袈裟についていくし。過干渉なところが多くてすごく苦手だった。だから、私が帰るよりも、できれば母をこっちに呼びたいところなんだけど。母は父との思い出がある田舎を離れたくないって」
「澤木の親父さんて、どんな人?」
「実は、私がまだ母のお腹の中にいた時に事故で他界してしまっているからよく知らないの。母や祖母が話してくれたことが、私の中にある父親像なんだけどね。どうやらうちの母は、父の母親に相当嫌われていたらしいの。でもね、ずっと隠れてこそこそと付き合ってたんだって。それが、ある時私ができて。もう、こうなったら強引に入籍してしまえって、婚姻届けを出しちゃったらしい。でも、その数日後に父は交通事故に遭って亡くなったものだから、母のせいだってかなり揉めたみたい。籍を入れてたった数日の嫁なんて認めないって激昂した向こうの母親に、家にあった父の物全部持っていかれちゃったらしくて。捨て台詞のように、あんたと結婚したから死んだんだって言われたって……」
もしも自分が母の立場なら、生きる気力をなくしていたのではないだろうか。二十歳で最愛の人を亡くし、その家族には嫌われ、父の思い出の物すべてを持っていかれてしまうなんて。それに、お腹の中にできたばかりの命を抱え生きていくのは、容易いことではなかっただろう。あんな狭い田舎だから、周囲の目だって相当に冷たかったはずだ。それでも母は、あの町を離れることはせず、根を下ろし生きてきた。いつもはふわふわっとして、のんびりした人だけれど。とても芯の強い人間なのだろうと思う。我が母親ながら尊敬してしまう。
「突然一人息子を亡くした母親の立場になってみれば、唯一の宝を失ったわけだから、怒りに震える気持ちも解らなくもないんだ……。私は結婚もまだしていない独り身だから、子供を想う母親の気持ちなんて一万分の一も理解できていないのかもしれないしね。でも……、大切な人を喪ったのはどちらも同じだとも、思うんだね。……違うのかな。血が繋がっているっていうのは、特別な思いがあるのかな……。とにかく、母は随分と悲しい思いをしたらしいの。写真の一枚すらないんだもん……」
結婚した当初、父は確か二十五歳だったと聞いている。母が父の顔を知らない私のために似顔絵を描いてくれたことがあるのだけれど、あまりの画伯ぶりに爆笑してしまった思い出があった。母には、絵心が全くと言っていいほどないのだ。母は父のことをノリがよくて、いつも楽しい話ばかりしてくれて、とても優しい人だったと言う。父と一緒にいるだけで、いつも笑顔でいることができたって。そんな相手と巡り合えた母は、傍から見れば未亡人の可哀相な女に見えるかもしれないけれど、本当はとても幸せなのかもしれない。
「なので、私の中での父親は、画伯の母が描いた絵の中の人物でしかないの。面白いでしょ」
話を黙って聞いていた宮沢は、どうしてか穏やかな瞳で私を見つめていた。まるで愛しい誰かを見つめ続けるように、心を包み込むようにあったかい優しさが滲み出ている。
宮沢がこんな表情をしたのを見たのは、初めてのことだ。いつも爽やかさが売りみたいに白い歯をのぞかせ、ファッション誌から飛び出したようにビシッとスーツを着こなし。分け隔てることなく社員と接するけれど、仕事の手は抜かない。信頼の持てる心強い味方でもあるこの同僚が、私を一人の人間。いや、一人の女性を見るような目でずっと見つめ続けてくるなんて初めてだった。その瞳に耐えられなくて、ついふざけてしまった。
「どうしちゃったの。変な顔してるよ。宮沢も画伯の絵が見たい?」
クスクスと笑いながらジョッキに手を伸ばし口に運ぶ。動揺を隠しきれずに、持つ手が少し震えた。
「澤木が明るいのは、そのお父さんの血を引いているからなんだろうなと思ってさ」
宮沢は、やっぱり穏やかな表情のまま私を見つめていた。
ダイニングを出たあと、思い出の高級喫茶店に足を向けた。銀座にある本店は、アンティーク家具が重厚でゆったりと寛げるとても静かな空間だ。マダムやおじ様といっても過言ではない方々が、夜も十時を回っているにもかかわらず優雅にお茶をしていた。
「そうそう、この雰囲気よね。あの若さでここに入ったんだから、そりゃあ回れ右したくもなるよ。今だって、緊張しちゃうもん」
店内に入ってからこそこそっと耳打ちすると、同意するように笑みを浮かべた宮沢は隣でピッと背筋を伸ばした。
「お嬢さま、足もとにお気をつけ下さい」
執事でも気取っているのか、ふざけたことを言うから声を上げて笑いそうになってしまった。けれど、この場の雰囲気を考えて口に手を持っていき堪える。おかげで、緊張が和らいだ。ふざけて笑いを誘った宮沢も緊張していたのかもしれない。
案内された席で渡されたメニューを開き、自家製ケーキの中から、渋川のモンブランを選んだ。
「宮沢は、食べないの?」
「俺は、コーヒーだけでいいよ」
優雅な大人の仲間入りでもしようというのか。私だけケーキとコーヒーを頼んだことがちょっと子供っぽく感じられた。
コーヒーを二つ頼むと、カウンターではサイフォンの準備が始まっていた。
「そうそう、これよ、これ。ただでさえこの雰囲気に緊張してるのに、サイフォンでコーヒーだし、カップは高級だし。ホントあの頃は、緊張し過ぎて落ち着かなかったなぁ」
頬杖をつくように、少し離れた場所のカウンターを眺めた。温められたフラスコの水が少しずつ上昇していく。執事然とした店員が優雅な手つきで攪拌し、その後カップにコーヒーを注ぎ、ケーキと一緒にテーブルへと運んできた。
「ごゆっくり」
丁寧に頭を下げて戻っていく姿に見惚れてから、コーヒーの香りに自然と表情を緩ませていると宮沢が可笑しそうな口ぶりで訊ねた。
「今は、どうだ?」
「んー。今は、スペシャル感があっていいかも」
「誕生日だし?」
「そう、祝い事だからね。でも、やっぱりちょっとは緊張するかな」
クスクスと笑うと、宮沢も楽しそうだ。
そう言えば、実家の近所に古めかしい喫茶店があって、そこにもサイフォンがあったな。幼い頃は、そのサイフォンがとても不思議で魅力的なものに見えていた。喫茶店の前を通るたびに、興味津々で目を輝かせていたっけ。あの頃は、本当に純粋でまっすぐだった。疑うなんてことを知らなくて、目に見えるものは全部光り輝いている気がしていた。あんなに無垢な心を持っていた自分が、今では仕事にあくせくして、相手の想いを汲み取ったり勘ぐったり。終いには、事故に遭って幽霊にとり憑かれてしまうのだから、人生なんてわからないものだ。
「目がキラキラしてる」
「え?」
首を傾げると宮沢が優しく頷いた。
「モンブランを食った時の顔は、ひと際だな」
からかい笑う宮沢は、改めたようにして言う。
「澤木。誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
遅れて祝われた誕生日は、高級感に囲まれて少しくすぐったい気持ちになった。
手作りケーキと、香り高いサイフォンコーヒーを充分に堪能してから、すっかり夜の様相を呈した外に出た。タクシーを拾おうと、宮沢が大通りに向かって手を上げる。
「終電。まだ間に合うよ」
「今日は、祝い事だろ。こんな時くらい、贅沢しろよ」
つかまえたタクシーに乗り込むと、宮沢は運転手に私の自宅マンションの住所を告げた。
「深夜にケーキなんて、久しぶりに思い切ったことしちゃったよ」
事故以前より膨れてしまっているお腹を意識しながら、ふぅっと息を吐き出すと隣では宮沢が可笑しそうに顔を歪めている。
「気にするほどじゃないだろ」
そう言って、どれどれなんてわざとお腹辺りを覗き見てきた。
「目がエロい」
「男は、みんなエロいんだよ」
宮沢が開きなおったように笑う。
「若い奴らがどうか知らないが、俺らくらいになると。こう、ちょっとぽっちゃりくらいの触り心地がだな……」
エロおやじみたいな台詞を吐いている宮沢を笑いながら、それと同じことをつい最近聞いたなと窓の外に視線を向ける。カズフミがタクシーと並走するようにフワフワとついてきていた。その顔つきは、ほら見たことかと得意げに顎を突き出している。男とは、そういうものだとでも言いたいのだろうか。
「はいはい」
呆れたようにした返事は、カズフミに対して言ったのだけれど、隣に座っていた宮沢に返したようになり肩を竦められてしまった。違う違うと言ったところでおかしな感じになりそうだったので、どうしたものかと苦笑いが浮かんだ。幽霊同伴だと、やり難くて仕方ない。
タクシーがマンション前に着くと、宮沢も一旦車から降りた。
「送ってくれてありがとう。明日から、モンブランパワーでまた頑張るよ」
今日食べた美味しいケーキと、高級なサイフォンコーヒーを思い出し、至福の瞬間が蘇る。
「ほんと、元気になってよかったよ」
ケーキを想像しうっとりした顔をしていただろうか。宮沢は、またあの優しい瞳をしたかと思うと私の頭に大きな手を置き、小さな子にするようにぽんぽんとした。それは何だか慈愛に満ちた親のようでもあり、愛に溢れた恋人のようでもあって。宮沢相手に後者のことを思うととても照れくさくなりふざけて言い返した。
「ちょっとぉ。子供じゃないんだから」
頭の上を見上げるようにして笑うと、その手が離れていったあとに「じゃあ、こうだな」と思いもよらない仕草に変わった。
宮沢が広げた腕が私をふわりと包み込んだのだ。宮沢からは、ダイニングでの雑多な料理やビールの香り。それに、高級なコーヒーの香りがした。抱き締める手は大きく、私の体がすっぽりとおさまる。
想定もしていなかった状況と、こんなことなど起きようはずもないと思っていた相手に対しての驚きで、思考が真っ白になり体が固まる。
宮沢は、自分の胸の中で微動だにしない私をどう思ったのか。ふっという、嫌味のない吐息を漏らしたあと体を放す。
「また明日な」
何事もなかったように笑みを浮かべると、待たせていたタクシーに乗り込んだ。窓越しに片手を上げる宮沢に、条件反射で同じように片手をあげて微かに振った。
真っ白になり停まった思考はなかなか動きださず、近くをフワフワと浮いていたカズフミが、何故かケッと言ってイラつきを見せていた。
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