第5話 1番Bメロ 1
ベッドのそばにある、可動式テーブルの上にトレーが置かれていた。プラスチックの容器には、すっかり冷めてしまった軽い食事が盛りつけられてのっている。さっき訪ねてきた宮沢が座っていた丸椅子に今は母が座り、静かに私のことを見守っていた。
「目、覚めた? 看護師さんから、急に気を失ったって聞かされて、また慌てちゃったわよ。先生が、明日もう一度脳の検査をしましょうって」
母は心配そうな表情をしながら、買ってきたペットボトルのお茶を紙コップに注いでくれる。ベッドのリクライニングを操作してもらい上体を起こし、既に温くなってしまったお茶を口にした。ゆっくりと喉の奥に流し込むと、体全体がカラカラになっていたのではないかと思うくらい、水分が体内をめぐり吸収していくのがわかった。窓にはカーテンが引かれていて外の様子は窺えない。ドアにはめ込まれた小さな曇りガラスに視線を向けると、静かで薄暗い廊下の様子で夜遅いことだけは解った。
思い出すのは怖いけれど、点滴を確認しにきてくれた看護師の行動をゆっくりと脳内で再現した。気さくに話す年下の自称ミュージシャンだというカズフミ。足元スカスカなんだと笑った顔は、個性的で憎めないところもあった。
紙コップをテーブルに置き、視線を病室内に向ける。今ここに居るのは、母と私の二人だけだ。看護師は当に自分の仕事に戻っているし医師もいない。私が目覚めるまでそばについてくれていたのは、きっとカズフミの心根が優しいからだろう。……だけど、彼の体は透けていた。そう、足元スカスカと言ったのは、財布の中身がどうのではなく。ちょっと日本語が乏しいのか、本当はスケスケと言いたかったのか。この世に存在していない者という意味だったんだ。理解に苦しむ若者言葉でも何でもなく。まさに、スケスケ。
「ゆう……れい……」
ぼそりと零した私の言葉がよく聞こえなかったのか、母が訊き返すようにこちらを窺い見ている。
さっき点滴を確認しにきた看護師は、何も気づかずカズフミの中を通り抜けていった……。そうカズフミをすり抜けて、点滴に手を伸ばしたのだ。そこで考えられることは、カズフミの体が見えているのは私だけ。そう、私だけになんだ……。これって、私はさっきのミュージシャンカズフミにとり憑かれたってこと?
考えただけで一気に背筋が寒くなり、身震いをした。おかげで首に響く。イタタタタ。
「寒いの? エアコン、弱めようか?」
春先は過ぎ、桜も散って、気温も随分と上がってきている。少し動けば、うっすら汗をかく日だってある。だから、寒いなんてことはけしてない。ないのだけれど、私の震えは止まらない。
寒そうに身を縮める私を見て母が立ち上がり、壁に備え付けられたコントロールパネルを操作した。
「もう一日入院することになったから、今日はお母さんもここに泊まるわね。看護師さんに簡易のベッドを出してもらえないか、ちょっと訊いてくるわ」
さっき気を失ってしまったせいで、母に要らぬ心配をかけてしまった。病室を出ていく母の背中を見つめながらごめんねと謝り、信じがたいことに直面したことに頭を悩ませた。
誰もいなくなったのをいいことに、まるで誰かに話しているかのごとく声を出し、心を整理しようと試みる。
「私、霊感なんてないのよ。だって、今まで得体のしれない何かを見たとか、聞いたとか一切ないんだから。けど、頭を打ったから、私の中にある、何かよく解らない特殊能力が目覚めてしまったのかもしれない。ほら、アニメや映画でよくあるやつよ」
とは、言っても具体的な何かを思い出すことはできない。
傍から見れば、どう考えても頭を打っておかしくなったのだろうと思われるような独り言をぶつぶつと呟いていたら再び気配がした。
「驚かせて、悪かったな……。入院も伸びちまったし」
「ひっ!」
再び現れた存在に、自分の体を自分で抱き締めようとしたのだけれどできなくて、驚いた衝撃と自らの動きに首が痛み、学習能力の欠片もなく顔を顰めた。痛みを感じながらも、何とか落ち着こうと努力する。
ただの独り言に反応されてしまい、背中が益々ザワザワとしている。
私の頭は正常なのだろうか。正気の沙汰ではないのではないか。医師は問題ないと言っていたけれど、検査ではわからない、とても見えにくい箇所に何か障害を負ったのではないだろうか。そのせいで、幻覚を見ているのではないだろうか。脳には未だ解明されていない不思議なことがあるらしいから、私が今体験している幻覚や幻聴もその一つなのではないだろうか。
とにかく何か、現実として受け入れられる確証のようなものが欲しい。でなければ、今目の前に見える相手に対し不安過ぎて、それこそ頭がどうにかなってしまいそうだ。
怖いながらも気さくに話しかけてくるカズフミを見てみれば、病室の灯りを受けた体はなんとなく薄っすら透けていた。信じたくないけれど、見れば見るほど彼は実在する人間ではないのだと思い知らされる。
「俺も、なんでこうなったんだか、よくわっかんねぇんだよ」
聞こえる声は、確かなものだ。確かだから、余計に怖くてたまらない。
「気がついたらここに居て、目を瞑るあんたのそばにいたんだよな」
話す言葉は特に何かおかしいわけでも、聞こえにくいわけでもない。普段誰かと会話するのと何一つ変わらない。なら、やっぱりこのカズフミは、ちゃんと存在している人間なのではないだろうか。さっき看護士がすり抜けていったと思ったのは目の錯覚で。カズフミのことを避けて、点滴に触れたのではないだろうか。
自分は正気なんだと思いたくて、正当性のあることを考えようとする。
再びカズフミの存在をしっかりと目にしてみた。灯りを受けた体は透けているように見える。けれどこれだって、私の視力に何かしらの問題が出ている可能性は否めない。だって、交通事故よ。乗っていたタクシーに若葉マークが突っ込んできたのよ。体のどこかに少しくらいの異常が出てもおかしくないじゃない。
誰かに同意を求めるように、頭の中ではいくつもの可能性を導き出そうと必死になっていた。
「ベッド、貸してもらえるって」
ドアを開けながらそう言って病室に入ってきた母が、私の傍に歩み寄る。その母に向かって、カズフミの存在を確認しようとしたのだけれど、またもや彼の姿はいつの間にか消えて見えなくなっていた。
「嘘でしょ……」
「嘘じゃないわよ。ちゃんと貸してくれるって言ってたわよ」
いや、その、ベッドの話ではなくて……。
怪奇現象に耐えられなくなった私の呟きに、母が真面目に返答するものだから、話がかみ合うはずもない。けれど、確かにさっきまで、カズフミと名乗る幽霊がこのベッドのすぐそばに立っていたのだ。そして、気さくに屈託なく話しかけてきていたはずなのだ。
なのに、どうしてまたスッといなくなってるのよ。
「顔色……、よくないわね。どこか痛みが出てるの?」
「へ、平気……。少し、眠ろうかな」
引き攣る顔を何とか整えて、母にそう返すのが精いっぱいだった。
お願い、次に目を覚ました時には、あれは夢だったと笑い話にさせて。
祈るようにぎゅっと目を閉じた。
食事も摂らずに眠りについたせいか、ほんのわずか眠っただけでお腹が空いて目が覚めてしまった。
食欲があるということは、私って意外としぶとくて元気なのね。
痛みに動かない首のせいで、視線だけを周囲に彷徨わせる。母は、隣に設置した簡易ベッドの上でぐっすりと眠っているようだ。静かでリズムの整った寝息が聞こえてくる。
何時だろう。時間のわかるものが病室に見当たらず。というか、私の視線が動かせる範囲には見当たらず窓辺を見た。カーテンは閉まっているけれど、外はなんとなく薄明かりにぼんやりとしている。
再び、目の届く範囲を見まわした。気さくで屈託なく話すカズフミの姿は見当たらないし、話しかけてくることもない。深夜の静かな病院内には、殆ど物音というものは存在せず。その中にカズフミの気配を感じることもできなかった。
「ねぇ。カズフミ……」
母を起こしてしまわないよう、小声でカズフミを呼んでみた。けれど、姿が現れるわけでも、何か話しかけてくるわけでもない。
「やっぱり、気のせいだったのかもしれない……」
事故のせいで混乱し、リアルな夢でも見ていたのかもしれない。
何の気配も反応もないとわかったところで、安堵の息を吐いた。病室で目を覚まして以来、漸く穏やかに目を瞑ることができる。すぐそばに眠る母の呼吸は懐かしくて、幼い頃に同じ布団で寝ていたことを思い出し、安心して眠りにつくことができた。
翌朝、再び検査を受けたのだけれど、どこにも異常は見受けられず。その日の夕方には退院することができた。
病院のあれこれは全て母がしてくれて、退院時、私は首に負担をかけないように歩くことだけに気を配り病室をあとにした。タクシー乗り場に行き、車の後部座席に乗り込んで自宅マンションを目指す。
幽霊のカズフミは、あれ以来現れていない。いや、現れるはずがないのだ。あれは単なる私の見間違いで、気のせいで、リアルな夢なのだから。流れる景色に目をやりながら、何度も自分に言い聞かせていた。
二日ぶりに見る外の景色は、特段何か変わったこともなく。私の怪我など、些末なことのようでなんだか空しくなる。どんなに痛みを感じても、世界が変わることなどないのだ。ただ、母がいると思うと、懐かしい料理が食べたいな、というくらい穏やかな気持ちにもなった。
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