第4話 1番Aメロ 3
自称ミュージシャンのカズフミは、ベッドにあるネームプレートを見る。
「で、あんたの名前は、澤木……夏奈か」
彼は、澤木と言ったところで考えるようにほんの少しだけ眉間にしわを寄せたあと、表情をクルリと変えて笑顔を作った。
「いい名前だ」
口角を上げてこちらを真っすぐ見ながら名前を褒められると、なんだかとても気恥ずかしい。
未だ、彼がどうしてここに居るのかよく理解できないままなのだけれど。それでもきっと、私が目を覚ますまでそばにいてくれたに違いない。心根の優しい人なのだろう。
「ずっとついててくれたんでしょ。ありがとね」
素直にお礼を言うと、少しだけ照れくさそうな表情をした。
「カズフミ君は、怪我をしていない?」
「
初対面だし、年下だろうからと君付けをしたら、背中がかゆくなるから呼び捨てにしてくれと頼まれた。そんなカズフミが事故に巻き込まれてやしないかと心配をしたのだけれど、どうやら大丈夫のようだ。一見しても、どこかに怪我を負っているような感じは見受けられない。
「俺は、怪我というよりも……それ以上って言うか……なんて言うか……」
カズフミは、またもあの歯切れの悪い言い方をする。私が事故に遭ったことで救急車を呼んでくれたわけでもないらしいし。ならどうしてこの病室で、私のことを見守るように傍にいてくれたのだろう。訳が分からない。しかも、見た目元気そうなのに、それ以上ってどういう意味よ。
ただ、目を覚ました時にカズフミがいてくれたおかげで安心感を覚えたことは確かだ。一人っきりで痛みだけ感じていたら、きっと心細かっただろう。
交通事故に遭って入院するなんてこと、そうそうあるものではない。しかも、一人部屋で目を覚ました時に誰もいないなんて、普通に考えて不安以外の何ものでもない。
それにしても、無関係だろう人物をいつまでもこの辛気臭い病室に引き留めておくわけにもいかない。
「母も来てくれているし。私は、もう大丈夫だから。その、帰ってもらってもいいよ」
控えめにお引き取りを願ったのだけれど、カズフミはどうしてかとても困った顔をした。
「あ……、いや。なんつぅーか、帰っていいと言われても困ると言うか」
「他に何か用事でもあるの?」
あ、もしかして、謝礼を期待してる? だとしたら。
「やっぱり、あなたが私を助けてくれたの?」
「あ、いや、そうじゃないんだけど……」
「じゃあ、一体何っ」
歯切れが悪すぎる言い方に再びイライラが浮上して、強く訊き返してしまった。
目を覚ました時にそばにいてくれたことには感謝するけど、ホントもう大丈夫だから、帰ってもいいよ。と半場追い出すように言うと、カズフミは本当に困った表情をしてぽつりと零した。
「俺、帰れないみたいなんだ……」
「は?」
帰れないって何? 大の大人が迷子でもあるまいし。それともなに。私の事故に合わせたように、アパートでも追い出された? 行くところがなくて、私の家に転がり込もうとでもしてる? 確かに一人住まいで独身だけれど、子供一人養子に迎えるが如く、ミュージシャンを家に連れて帰るなんて、そんな安易なことできないから。
カズフミの態度に益々イライラを募らせていると。
「俺、あんたのそばから放れらんなくなってんだよね」
若干ではあるが、申し訳なさを滲ませたようにカズフミが言い切った。
えーっと。言っている意味がよく理解できないのですが。これは、新手のナンパですか? いや、ちょっと待って。いくら二十六歳の誕生日を迎えたのに結婚相手どころか彼氏もいないとはいっても、こんなめっちゃミュージシャンですって言い切る風貌の男についていくほど落ちぶれてはいないのよ。そもそも、そのヨレたTシャツだけ見ても売れてなさそうだし。プロには見えないし、こんな顔のミュージシャンなんてテレビで見たこともないし。
それとも、なに。実は、めちゃくちゃ有名なミュージシャンだったりするの? 私が若者から遅れをとってるってこと? いやいや、まだ二十六歳。私だってそれなりに流行りにはついていってるはず、多分……。
後輩である真美ちゃんの、普段からキラキラとしていて流行に敏感な姿を思い出してしまうと一抹の不安を覚える。
がっ、しかし。こんなミュージシャンなんて、知らない。絶対、テレビにも出ていないはず。
真美ちゃんのキラキラを振り切って、自分は流行になど遅れを取っていないと意気込んだ。
で、プロではないとしたら趣味程度のアマチュアミュージシャンってことでしょ。だとしたら収入だってないよね。そんな相手に告られてもね。私、ヒモとかそういうのは間に合ってるんで。そもそも名前を訊ねたのに、カズフミって。苗字はどうしたのよ、苗字はっ。
それに、いくらふわふわっと天然な母だって、まさか素人ミュージシャンとお付き合いなんて言ったら、何を考えているんだとぶっ飛ぶだろう。そもそも、うちの母はおっとりとしていて、とても大人しいタイプで、ロックだのライブだのとはかなり縁遠い性格なのだ。なのに、なのに。
考えれば考えるほど、ワナワナとしてくる。
そんな私の思考を無視して、カズフミが言った。
「あのさ、なんつーか、非常に言いにくいんだけど。俺、年取らない系なんだよね」
あれこれ考えて心の中をワナワナさせていると、当の本人は益々意味の分からないことを言いだす始末。意味が理解できなさ過ぎて怒りが爆発するというよりも、諦めの溜息と共にむぅっと思わず首を傾げてしまった。実際には、痛みで動きはしないのだけれど。
「そのぉ。なんつぅか、足元スカスカって言うの?」
足元スカスカって何よ。どんな意味が込められてんのよ。何もかもが意味不明なのよ。
「若者の間では、そういった表現が流行ってるの?」
全うなことを口にしたところで、全うな答えが返ってくる気はしなかったのだけれど、そろそろ脳が拒絶反応を示し始めたようで、あえて冷静に訊き返してしまった。
「だいたい。足元がスカスカっていうよりも、財布の中身がスカスカなんじゃないの?」
冷静ながらも、飽きれたように皮肉を込めると「まー、それも否めない」と苦笑いを浮かべている。案の定だ。やはりこの男性は、貧乏ミュージシャンだったようだ。
事故に遭って色々と考えなくてはならないこともあるし、首も痛いし。こんな訳の分からないことばかり言うミュージシャンに構っているのは疲れてしまう。お願いだから、とにかくもうお引き取り願いたい。
カズフミとの噛み合わない会話にぐったりとしているところへ、再び看護師がやって来た。
「澤木さん、もし痛みが酷いようでしたら、遠慮なく言ってくださいね」
看護師は天使のような笑みを向けながら、私の腕に繋がる点滴を確認するためにこちらへ向かって歩いてきた。点滴の傍には、カズフミが立っている。そちらに向かってまっすぐに歩いてくる看護師。避ける気配のないカズフミ。
邪魔になるから、どきなさいよ。そうぞんざいに言おうとしたところで、看護師の体がカズフミの中をすり抜けていった。
「えっ……」
どういうこと? 今、カズフミの体、透けてた……?
何事もなかったように点滴に触れた看護師が、私の漏らした声に不思議顔で反応した。看護師に体をすり抜けられたカズフミは、参ったなぁ……と頬の当りをかいている。
「な、スカスカだろ?」
そう言って、半透明の足を上げて見せたカズフミを凝視したまま、驚き過ぎた私が叫び声さえ上げられずに気を失ったのは、夜も十時を回った頃のことだった。
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