第3話 1番Aメロ 2

 医師が病室をあとにすると、母が安堵の表情で横になっている私の髪の毛を撫でるように触れた。


「心配したんだからね」

「うん……。ごめん」


 普段からのんびりとしていて、少しばかり天然要素を持つ母も、流石にひとり娘が交通事故に遭って病院に運ばれたとなれば慌てるのも頷ける。はやいうちに他界してしまった父の代わりに、父親の役目も必死にやってきた母を思うと、本当に申し訳ないことをしたと目じりに涙が滲んだ。


 母の澤木奈津美は、東京から二時間ほど離れた田舎町に一人住んでいた。しばらく前までは祖母も生きていたから二人暮らしだったけれど、今は大きな家で一人の余生を送っている。普段からよく笑い、おっとりとした性格をしている母だけれど。きっと今回のことで、とても心配させ慌てさせてしまったことだろう。


「何か欲しものはある?」


 穏やかな眼差しで母が訊ねる。


「喉、乾いたかも」


 突然のことだらけで気がつかなかったけれど、母と二人になって話してみて口の中がカラカラになっていることに気がついた。


「飲み物、買ってくるね」


 視線で頷いて息を吐き、目を閉じた。


 全く、私ときたら何をやっているのだろう。急いで見積もりを提出するどころか、事故に遭って病院に担ぎ込まれるなんて本末転倒だ。あ……、そうだ。見積もりはどうなっただろうか。社の方に連絡はいっているのだろうか。私がこんなことになったせいで、余計に混乱などしていなければいいのだけれど。


 そう思っているところへ、軽いノックがして声をかけられる。同僚の宮沢紘暉みやざわひろきがやって来た。


「よう」


 右手を上げて病室に入ってきた宮沢に力ない笑みを返した。スーツ姿のところを見れば、仕事帰りに寄ってくれたのだろう。こんなことになった自分が情けなくて仕方ない。


「心配したぞ」


 困ったような心配顔をした宮沢が、ベッドにいる私の顔をのぞき込んできた。テカっているだろう、化粧崩れしている酷い顔を見られるのは嫌だがどうにもできない。


「色々とごめん」


 言いながら体を起こそうとしたのだけれど痛みに声が漏れただけだった。


「そのままでいいって、無理すんな」


 宮沢は近くにあった丸椅子を引き寄せ坐ると、困った奴だという顔を向ける。面目ない。


「見積もり、どうなったかな」

「大丈夫だ。万事うまく処理した。それに、今回のことは気に病むなよ。事故なんて、どうにもならないことなんだからな。澤木はいつも忙しくしているし、こういう機会でもないとゆっくりできないだろ。長期の休暇を取ったとでも思っておけばいいさ。仕事に関しては何の心配もない。俺たちでうまく引き継いでおくから」

「頼りになります」


 宮沢は、私と同期の同じ営業だ。仕事ができて、後輩のフォローもそつなくこなす。所謂、できる男というやつだ。私とは戦友のような間柄で相談相手でもある。


「まぁ、仕事のことは気になるだろうが。今は怪我を治すことに全力を尽くせ。全力投球は、澤木得意だろ?」


 猪突猛進のように仕事に取り組んでいる私をふざけて揶揄した宮沢は、白い歯を見せ笑ったあとに立ち上がる。


「じゃあ。俺は、そろそろ」


 忙しいだろう宮沢が、わざわざ見積もりのことを知らせに病院まできてくれたことに感謝した。多分、この後また社に戻って仕事を続けるのだろう。もしかしたら、私の事故のせいで余計な事案が発生している可能性もある。


「ほんと、ごめん。わざわざ来てくれてありがとう。みんなにも、謝っておいて」

「了解。愚痴を言い合う相手がいないのは寂しいから。しっかり治して早く復帰しろよ。じゃな」


 ビジネスバッグを手にして出ていく後姿は、いつもと変わらず颯爽としていた。


 仕事人間の宮沢を見送ったあと、母が戻るまで少しだけ眠ろうかと瞼を閉じた。宮沢が言ったように、今は怪我を治すことだけを考えないといけない。しかし目を閉じてみても、仕事のことが気になって仕方がない。スマホは、どこにあるだろう。バッグの中に収まったままだろうか。それとも、事故のせいで破損してしまっただろうか。届いているだろう仕事関係のメールなどを確認したいが、色々思っても傷みで身動きができない。深く諦めの息を吐き出しながら閉じていた瞼を開けると、居なくなったはずの自称ミュージシャンが私の顔を覗き込んでいた。


「ひっ⁉」


 突然現れた姿に驚き、声にならない声が漏れた。と同時に首に激痛が走る。


「イタタタタ……」

「あ、わりい。また、驚かせちまったな」


 すまなそうな口ぶりで再び現れた自称ミュージシャンに、痛みと驚きでイラっとしてしまう。


「ちょっと、急に消えたり現れたりしないでよっ」

「そんなに怒るなよぉ」


 強い口調で怒ると、なんとも情けない声で反論してくる。


「なんつぅか、こう。うまくコントロールできねぇんだよ。先生たちがきた瞬間、ふっと体がな」

「何をわけのわからないことを」


 要領の得ない言い訳を聞かせられて益々苛立ちが募る。


「それにしても、大事に至らなくてよかったな。運転手のおっちゃんも、無事みてーだぞ」


 私の苛立ちをものともせず、運転手の無事も教えてくれた自称ミュージシャンは、本当によかったなと穏やかな表情で見つめてくるものだから、大人気ない態度をとった自分が情けなく怒りが萎んでしまった。


 パンキーでロッカーな姿は、どう見ても私とは人種が違い過ぎて、軽い感じに見えるけれど。話し方や相手のことを思う表情はあまりにも真っすぐで誠実なものだから、気がつけばこちらも素直な感情が芽生えてくる。


「うん。ありがとう」


 しおらしく応えたところで、さっきも訊ねてまともに返ってこなかった当然の疑問が浮かび上がる。


「ところで、君は誰なの?」


 あまりに親しげに話しかけてくるものだから、こちらもつい屈託無く会話を続けていたけれど、まったくもって誰なのかわからない。そもそも、私にミュージシャンの知り合いなどいない。年齢的に言えば、真美ちゃんと同じくらいか少し上だろうけれど、彼女の知り合いにしてはそれこそ人種が違い過ぎる。彼女からこの風貌のミュージシャンを紹介されたなら、本当に知り合いなのかと何度も訊き返してしまうことだろう。


 とにかく、私が頭を打って記憶をなくしていなければ、今ここにいる彼は全くの知らない赤の他人だ。医師は、脳に異常はないと言っていたのだから間違いない。


「俺は、カズフミだ」


 ミュージシャンの次は、カズフミって。なんてザックリした自己紹介なのよ。


 目の前のカズフミは右手を握り、親指だけを出して得意気に自分のことを指差している。その姿は、普段私の周囲にいる人物がやったなら、躊躇うことなく突っ込むところなのだけれど。彼の風貌ではその仕種があまりにしっくりし過ぎて、すんなりと受け入れてしまった。

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