2 反抗期

 目が覚めると、部屋はいつもよりも暗かった。遮光カーテンから漏れ出す光はどんよりとしているように思われた。結佑は下まで降ろされた遮光カーテンを上げて、外の様子を見る。マンホールには水か跳ねていて、窓に触れると冷たい水滴が指先に触れた。


 開きっぱなしのクローゼットには、新品の学ラン。昨日、使ってもいないのに母がアイロンをかけていたワイシャツとズボンも掛かっている。

 結佑は自室で早いこと着替えを済ませて、リュックを右肩に背負ってリビングへと向かった。入学式へと向かう荷物は前日のうちに詰めておいた。

 リビングに着くと、母はテーブルについていた。手前の椅子が乱れている。父はもう仕事に出かけたのだろう。

「おはよう。」

 母はいつものように声をかける。

 結佑は応える気にならない。

「・・・うん。」

「ちゃんと挨拶してよ。」

「はい、おはよう。」

「もぉー、可愛くない。」

「はぁ。」

 この頃、結佑が反抗的な言葉を使うたびに母は決まって結佑を「可愛くない」と形容した。この「可愛くない」と言われることによって結佑の母に対する不信感がより明確なものとなっていた。

 結佑は父と母がリビングで二人会話していたのを、断片的に盗み聞きしたことがある。どうやら結佑が反抗期になったんだろうなと悲しむ母に、うなずくことしかしない父。「結佑になんか言ったらどうよ」と矛先を父に向けだす母、「自分もそんなときがあった」と答える父。溜息を含ませながら「あんたと似たのよ」という母、「まあな」と仕方なく答える父。

 ある日、母を目の前にして言わないほうがいいと思っていたが、結佑はこういってしまったことがある。

「もう可愛くないからいいだろ。」

 それは母の口から直接、結佑に向かって「あーあ。可愛くない。」言われるようになってから五回経った頃だろう。

 すると母は答えた。

「そういうことじゃない。」

 文字通りの言葉の意味しか理解しないと思っていた母が言う言葉に結佑はひどく困惑した。普段言葉の裏側なんて読み取れない人間なのに、なぜ自分のことになったとたんに言葉の裏側を読むように要求するのか。どうして自分の息子だからと言って自分のエゴばっかり押し付けることができるのか。その理由を見つけることはできなかった。

 そして結佑は、理解するのを諦めた。きっと考えるだけ無駄なことなのだと悟ったからだ。けれどどうやっても腑に落ちなかったので、「こいつは毒親だ」ということに落ち着かせることにした。

 この頃の結佑は、こんな理不尽な世界から救い出してくれる存在を求めていた。もはやそんな存在は結佑の生まれ故郷を持つ母しかいないように思えた。いくら毒親とはいえ、自分を産んだ存在であるのだから母性ぐらいは持ち合わせていて、それは今でもくれるものであると思っていたのだ。裏返せば、母は何とかしてくれるだろうという甘い幻想を抱いていた。

「どうして僕は馬鹿にされないといけないの。」

 結佑は素直に自分の疑問を並べた。

「私もそんなの知らないわよ。」

 結佑はいたって真剣に聞いたつもりなのに、あっさり母はそれを捨てた。

 どこまで僕の人生を軽率に見下せば気が済むのだろう。

 腹が立ち、悲しさに晒され、結局行き着くのは、一つの問いである。

 僕の生きる意味って何だろう。

「僕が可愛くなくなったら育てる価値がないものになるのであれば、一応僕は可愛くならないまでは母にとっての価値はあり、僕は望まれて生まれてきた存在であったことになる。けれどそれならば、ペットだっていいはずじゃないか。人間にそれを求めるのは可愛くなくなったときに背負う責任が大きいのだからそんな真似できるわけがない。

 つまり僕の母と父は、僕が可愛くなくなった後の想定ができない阿呆な母か、快楽の中毒になってコンドームなしのセックスに至ったかということになる。確かなのは、僕には賞味期限が付いていることだ。」

 自身の所在を確かめられない結佑は、結佑なりにこの問いに対して答えを見つけようとしてきた哲学の子であった。

 しかし現実で起こっていることは哲学を用いたところで解決してくれず、ひとまず回答不能と諦めに近しい言い訳を答えにするのだ。

 哲学とは、それに答えがないから哲学であり、現実で哲学の子なんていうのは何の役にも立たない。生きる意味を哲学の問題に囚われているばかりでは、何にも解決してくれはしない。結佑に求められているのは、生きる意味を現実に落ち着かせることと、母の愛情は無条件で与えられるわけではないのを理解することであった。

 だが、母からの内容の薄い返答から何も学ぶことがないほど哲学の子は阿呆ではない。結佑がただ一つ学んだのは、母が何か言った後に言葉を付け足すのは避けるべきということだ。少なくとも、問題の多くは母親の論理の中にあるのだから。

 テーブルには茶碗二杯のご飯と、夕飯の残り物である肉じゃがが置いてあった。

 テーブルについた結佑はさっさと用意されたものを片付けながらテレビに目をやる。アナウンサーが一列に並び、息を合わせてこちらに一礼する。次の瞬間、画面には一つ二つ時代をさかのぼった居間の姿が映し出され、朝ドラが始まった。

「もう時間よ。早く行きなさい。」

 母がそう急かすと、結佑は食卓に自分の食器を残したまま椅子に掛けていたリュックを背負う。

「自分の食器ぐらい片付けなさい。」

「うっさい。」

 そう言いながらも結佑は自分の食器をシンクに放り込んでそのまま玄関に向かう。

「ウゥー、ワンワン!ワン!」

 結佑が出発することを察した犬が吠える。

 母が犬を捕まえ、犬の吠える声が穏やかになる。結佑は玄関でいつもの靴を履く。

「汚いわね。もうちょっときれいなの履いていきなさいよ。」

 犬を抱っこしたまま母は言う。

「別にいいだろ。」

「忘れ物無い?確認したら?」

「昨日したからいいだろ。」

「あと、今日雨降ってるんだから気を付けてね。」

「あいよ。」

「気を付けて。行ってらっしゃい。」

「・・・。」

「行ってきますぐらい言いなさいよ。」

「・・・。」

 結佑は無言で扉を必要以上に力強く閉めた。

 外は雨粒が肉眼で見えるほどの雨が降っていて、空気は冷たい。

 外に出て母の姿が見えなくなってから結佑は必要なものを忘れていないか自分のカバンの中を確認した。

 筆箱に上履き、体育館履き、市役所から届いたはがき、ビニール袋。それに念のためのメモ帳。あと自分の家の鍵。

 荷物の確認を終えて傘を広げ、雨の中に入る。

「トントントン…ボンッ…ボボンッ」

 傘にあたる雨粒の音だけがあたりに広がった。

 独りで歩く新しい通学路はなんだか怖く思えた。歩きなれていない、新しい道がそこにあって、知りもしない景色に従わなければいけないからだ。

 人気のない路地から右折し、大通りに出る。前には同じ学校の制服を着た女子二人組がキャッキャと会話を弾ませ、並んで歩いていた。

「イケメンいるかなぁ?」

「ほんとそれ。いなかったら辛すぎ。」

「本宿の奴なんて全然イケメンじゃなかったしね。」

「噂だけど、三小のも全然らしいよ。」

「マジで?さいあくー。」

「まぁ、性格がましなことを祈るだけだね。顔はともかくとして。」

「マジそれ。ってゆうかさ、先週ライブ行ったんだけどさ。」

「えぇ!本当に行ったの?どうだった?」

 雨粒のように二人の会話は弾む。

 結佑は自分が一応でも彼女たちと同級生なのに、イケメンかどうかの審査対象になっていないことにショックを受ける。

 小学校の卒業式は結佑の思うよりも早く終わった。完全に邪魔者をさっさと追い出すために、すたすたと式は進行していった。予行の時はあんなにやり直したのに、誰かが何かふざけたことをしたとしても、何もなかったかのように順調に進んでいるかのように偽装した。最後に花道を通ったらとっとと家に帰った。家に帰ったら、父親からとりあえずの「おめでとう」をもらい、日常に戻っていく。三十分後には父がソファーで、スーツを脱ぎ捨てて、パンツと白シャツ一枚だけの姿で昼寝をし始めていた。

 結佑はあっという間に過ぎ去っていく自分の門出にひどく味気なさを感じていた。それは結佑が少し期待をしすぎていたのかもしれない。

 人一人の人生で門出はそう多く来るものではない。だから、大切にされるものだと思っていた。

 けれどよく考えてみれば、誰かが毎日生まれ、誰かが毎日死んでいるように、誰かが毎年入学するように、誰かが毎年卒業する。

 生きるという動作を人間は必要以上に日常に押し込んでしまっている現代にあって一つ一つをいちいち祝ってほしいと思うのは傲慢だったようだ。

 しかし、だ。あるところでは、卒業記念に家族で旅行に行ったり、卒業祝いでスマホを買ってもらったりしていたのを結佑は聞いていた。

 結佑にはそれがなかった。春休みに遊んだ啓太たちと話しているとそのことが分かった。

 スマホを持ち始めた友達とスマホを持っていない結佑は、連絡を取る手段であった学校がなくなることによって断絶され、結佑を孤独にさらすことになった。学校が嫌であった結佑にとっては皮肉なことでしかなかった。

 啓太と一度遊んで以来、結佑は人生で一番の孤独の中、二週間近く泳ぎ続けていた。

 横断歩道を渡り、学校へと続く道に曲がる。だんだんと雨音よりも靴音があたりに広がり始める。

「ねぇ結佑…。」

 雨音と靴音の中、突然、聞き覚えのある声が入り込んできた。ほかの女子の声よりも少しだけ高い音。女子の声で結佑を下の名前で呼ぶ人は数少ない女子…。

 声のした方向を見ると、それは杏莉の声だった。

 杏莉とは同じ学童保育所に通っていたことから、幼い頃からお互いに知っている仲である。また、その学童保育所は珍しく、保護者ぐるみのイベントが多くて、お互いの親の顔も知っている。小学三年生で学童を卒業してから数年たったこの頃でも、保護者でバーベキューなんかするという具合である。

「久しぶり…。」

「ひ、久しぶり…。」

「何吃ってるんだ!」と結佑は焦る。そして自分を落ち着かせる。

「ちょっと緊張するね。」

「うん…。そうだね。」

 何に対して緊張するのか、訳が分からなくなっていたが、とりあえず頷いておいた。

「同じクラスだったらいいね。」

「そうだね。」

 結佑はとりあえず合わせるので精一杯であった。会話は一方的に投げる側と、受け取る側にくっきりと分かれた。投げる側にもう投げられる球がなく、二人の間には埋めがたい溝が広がった。

「あっ、美咲いるから美咲のところ行ってくるね。じゃあ、あとで。」

「うん。」

 結局、杏莉を目の前にした結佑は何も自分の言葉を言うことができなかった。こんなにも会話ができない自分の吃りを恨む。

 杏莉の小さい背中は、みるみると小さくなっていき、自分の延ばす手もみるみると引っ込んでいく。

「おい、ユースケ。ユースケってば」

「なんだよ。」

 次に聞こえた声は、声が変わりつつある低い声の持ち主、つまりは啓太だった。

「杏莉と一緒になってたじゃんか。」

「まぁ、な。」

「それでどうだったんだよ?」

「そんなにか…な。」

 結佑はうまくいかなかったとは言いたくない。

「え、お前から話しかけたんじゃないの?」

「ちがう。あっちから。」

「それってお前…、脈ありじゃん!」

 啓太の言葉に結佑ははにかむような笑みをこぼした。

「そうかも…な。」

 話しているうちに二人は学校の校門についた。学校は錆びついていて、牢獄かなにかと見間違えるほどだった。

 ここから三年間のことを想像すると、結佑は少なくともいい想像はできなかった。自分のろくでなしさが強制的に矯正され、社会に合った形で出荷されるといった具合に。

 校門を抜けると、昇降口あたりに、新入生らしき生徒たちが群れている。

「おい、あれ多分クラス分けだよ。」

 啓太はそういうとずけずけと人の群れをかき分けて進んでいく。結佑は必死に埋もれまいと啓太の背中を追った。

 くっきり掲示板が見えるところについて啓太は立ち止った。そしてお互いに自分の名前をまず探した。

 A組の二番目に“伊東結佑”の名前があったので結佑のはすぐに見つかった。

 啓太はしばらく何かを探す仕草を見せて、やがてこちらを向いた。

「俺、C組だったわ。お前何組だった?」

「A組。少し残念だな。あんまり知ってる人いないし。」

「えっ…、お前、松永と一緒じゃん。」

「えっ…、嘘だ。」

 本当にそうなのだ、杏莉とクラスが一緒になれたのだと結佑は思う。

 結佑が“松永杏莉”という名前を探さないわけがない。けれど、いきなりA組全員の名前を見て杏莉がいないことにがっくりしないために、ほかのクラスの名簿から目を通していたのだ。D組から始まり、ついにはB組にも杏莉の名前がなかったことから、結佑の期待は上がり続けて、ついに、芽が咲いたのが「嘘だ。」という感想だったのだ。

「お前、三年間もクラス一緒だったらもう脈ありじゃん。」

 小学校では二年ごとにクラス替えだったので、これで小中含めて三年間クラスが一緒ということになる。

「まぁ、まだわからないでしょ。」

 冷静を装い結佑は答える。

 啓太は何かを悟ったかのように、いつか見たように笑った。結佑が何をも思うかなどお見通しかのように。

「じゃあ俺、同じクラスの奴、探してくるから。」

 啓太はそういって手前にいる元同じ小学校の同じC組の子のもとへ向かった。

 結佑はというと、A組に同じ小学校からの子はいたものの、仲が良かったわけではないので一人で教室へ向かった。

 傘置き場には雨でぬれた傘たちが群がる。先っぽに水溜りを作ってたがいがたがいに寄りかかって支えている。

 廊下には新入生しかおらず、また各教室の前にある何かを張り出すボードには、まだ何も飾られていない。それに、所々白いペンキがはがれていて、とてもここで人が活動しているようには思えなかった。

 教室に入るともう八割ぐらい席は埋まっていた。黒板には、上級生がしたと思われる、折り紙の輪飾りと「ご入学おめでとうございます!!」と太い字で書かれていた。座席は出席番号順になっていて、杏莉は左端の一番前の席で、結佑は右端の二番目の席であり、二人の距離は出席番号以上にあった。

 だが、残念がることなく、この距離に結佑はむしろ安心感を持っていた。

 それは今朝手にした杏莉とお近づきになるチャンスをしくじったことが大いに関係していた。もし、あのままほぼゼロ距離での会話をしようものなら、きっと杏莉は自分に対して幻滅しかねないと思ったからである。

 結佑は結佑なりに杏莉との距離の詰め方を案じており、あまりに早すぎる接近には対応できないと結佑は思っていたのだ。

 まずは自分の吃りを緩和してから、本番に臨みたい。ここでいう本番とは世間一般でいう”告白“というやつだ。

「キーン、コーン、カーン、コーン。」

 八時二十五分を知らせるチャイムが鳴る。

 元々緊張感が支配していた空間から、小さな声たちが駆逐されることによって、すっかり辺りは静寂になった。

 すると入り口から担任らしき人が、籠いっぱいに配布物を入れてクラスに入ってきた。頬にしっかりと皺を刻み、足取りが異様に軽い女の先生であった。

 あまりに大人びすぎていて、この人と少なくとも一年間過ごすと考えると、戦慄した。きっと厳しいご指導を受けるのだろうと。

 先生がかごを教卓の上にドスンと置く。

「はい。じゃあ挨拶しましょう。」

 そういうと一息で、

「おはようございます!」

 と大きく言った。

「お、おはようございます…。」

 結佑を含めた生徒たちは、どの声に息をそろえていいのか分からず、探り探り言葉を発した。

「声が小さい!もう一回しましょう。」

「おはようございます!」

「おはようございます。」

「まぁいいでしょう!これから一年間、A組の担任をします、加計といいます。よろしくお願いします!」

 場の空気が加計先生に支配されていた。

「はい。じゃあ、まず、はがきから回収します。それと同時に前にある配布物、一枚ずつ取っていってください。じゃあ出席番号順で、相良くんから!」

 やはりここは本当に牢獄かもしれない。

 僕はここで三年間、しごかれ、矯正されて、高校に送り出されるのだ。

 ドアを隔てた窓からは、激しさを増す雨音が聞こえてくる。そんな中でも、腹から声を出している加計先生の声は教室中に広がっていた。

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反面教師 紺野かなた @konnokanata

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