十二年前の初恋

1 初恋の背中

 五年生が卒業生を迎え入れるために、威風堂々を演奏している。

 とてもきれいな音色であるとは言い難いが、その意図せず粗雑さを含んだ音たちが、素直に結佑たち卒業生を迎え入れる健気さを表しているようであった。

 去年は演奏する立場であったが、その時とは全く違う音のように思える。


 六年二組である結佑は、前を歩く足たちに習って導線を進み、自分の座席へと向かう。感情を失った教師の目線には合わせるまいと、目の前の人の脳天に焦点を合わせる。

 もう油断してもよくなった座席に座る直前、ここぞとばかりに結佑の一つ前の席に座る杏莉の、頬っぺたにえくぼの影が見える横顔を見る。杏莉はただまっすぐに舞台を見つめていた。華奢な体で、誰かに監視されているかのように背筋をしっかりと伸ばして。

 結佑はほかの男たちと同じようにして、椅子に必要以上に腰を深くして座った。バレない程度に姿勢を乱し、楽をする。


 ツンツンと右肩に指が触れたのを感じた。普通、そんなことを急にされたら驚くものだが、毎度のものになると驚きはしない。どうせ啓太だ。


「おい。ユースケ。おい。」

「今はやめろって。」

 後方の椅子がまだ四列埋まり切っていない状況にあって、結佑は面倒くさいと思いつつも、啓太の相手をしてやる。席が埋まるのにはあと数分かかりそうだからだ。

「別にいいだろ。五年が演奏してるんだから。」

「ああ。まぁそうだな。そんでなんだよ。」

「前見ろって。今なら見放題だぞ。」

 啓太は太ももの上で正面を指さす。結佑から見て右斜め前にいるのは、相変わらず背筋を伸ばした杏莉である。結佑は啓太の杏莉のことを指差している左手を右手で制し、元に戻らせる。


 いつからであろうか。結佑が杏莉のことを考えずにはいられなくなってしまったのは。思えばきっかけははるか昔に会ったかもしれない。

 まだ小学生も低学年だったころ、結佑は杏莉と同じ学童に通っていた。そんなある日に結佑は学童の先生に怒られた。ほかの子と一緒になってある子をいじめていたからだ。大して関わっていなかったにもかかわらず、結佑は一番怒られた。無駄に正直すぎるところがあったからであろう、すべてを聞き入れる姿勢を見せたからだ。そうしていくうちに先生の怒りもヒートアップして、ついに結佑は自分の心の中にその怒りを受け入れられなくなり大泣きしてしまった。やれやれと思った先生は怒られている児童たちを職員室の前に黙って立っているように指示し、結佑はそれに従った。


 その時、職員室の前で情けなく泣いている結佑の姿を見た杏莉が声をかけてきた。

「結佑、大丈夫?」

 悪いことをして叱られたのは明らかに結佑であることが傍から見てもわかるにもかかわらず、ずっと泣きっぱなしの結佑を杏莉ただ一人だけが心配し、声をかけてくれた。


 なぜかわからないけれども結佑の心の中には印象深くそのことが残っていた。


 五年生の時のクラス替えで杏莉と初めて同じクラスになった。小学一年からお互いに知っている仲なのに学校で同じになるのは初めてだった。そしてその秋に初めて隣の席になった。杏莉は久しぶりに話すのに、フランクに話しかけてくれた。自分たちはこんな親しかったのかと錯覚するほどに。自分のように根暗な人間に構ってくれる初めての女の子であった。自分に明るさをくれたように思えた。


 きっとその時に惚れてしまったのだろう。初心な男というものは優しくされた途端に女に惹かれてしまうものなのだ。結佑に場合、学童の頃の思い出もあるのだから補正がかかって杏莉に惹かれてしまうのも無理はないだろう。


 悶々と杏莉に対する恋心を隠していた結佑。杏莉を目の前にして結佑の中で渦巻いているものを吐き出すことはできないが、どこかに吐き出し先を求めていたのもまた事実であった。口許は吐き出すために緩み始め、つい修学旅行に向かうバスの中で啓太に本心を漏らしてしまったのだ。


「僕は杏莉のことが好きだ」と。


「そんなん、みりゃわかる。」

 結佑は背筋を伸ばした三つ編みの杏莉を見ながら端的に短く、聞こえないぐらいの声で啓太に答える。


 啓太はもう一度、杏莉を指さし、話を続ける。


「お前のさ…、あんまに合ってなくね?」

 啓太は杏莉が結佑の女であるかのように言った。

 啓太が何のことを言わんとしているのか結佑には察しが付く。杏莉の髪型だ。いつもはストレートに伸ばしているのに、今日は三つ編みだ。いや、杏莉はここ最近はたまに三つ編みにして学校に来ていた。


「別に、お前には関係ないじゃんか。」

「そらそうだけどさ、似合ってないじゃん。正直に言ってみろって。」

「まぁ…、別にいいけどなぁ。」


 正直言って、結佑は杏莉の三つ編みをそんなに気に入っていなかった。そのまんまにしてた方が可愛いのになと思っていた。そして、結佑は自分の杏莉を失ったかのようにすら思えてならなかった。

 だけれども、それを受け入れることも、結佑には杏莉を自分のものにするための試練に思えたし、新しい一面を知れてむしろ得とすら思うように自分を何とか説得させた。


「なんとなくそう言うと思ってたわ。」

 啓太はからかうような笑顔でこちらを向いてくる。

「やっぱお前って、どうしようもなくアレなんだな。」

「アレって何?」

 結佑がそう言うと、啓太は両手でハートを作った。

「お前、このこと誰にも言うなよ。」

「何が?」

「…好きだってことだよ。」

「わかってるって。」

 啓太は視線をそらした。結佑は大事な約束なので啓太の意識を逸らさせまいと喰い付く。

「もし言ったらお前のもバラすからな。」

「脅さなくてもバラさんから。大丈夫だって。」

 真剣に取り合ってもらうため、結佑は声色を変える。

「これマジだから。」

「いや、マジだったらそもそも、あいつのことが好きなこと言うなよ。」

 図星を指され、ここで間を取っては変な勘違いをされると思った結佑は、さっきより語気を荒げてしまう。

「いいから前向けって。そろそろ終わるんだから。」

 そう言った瞬間に杏莉を含めた、前に座る人の関心がこちらに向いているのを結佑と啓太は気付く。少し大きな声を出しすぎたようだった。

 このままでは神経をとがらせている先生たちに自分たちが会話をしていることがバレかねない。結佑が制止するように啓太に対して手のひらを向け、いったん会話をやめる休戦協定を結ぶことを提案をした。

「はいはい。じゃあな。」

 啓太は結佑が何を意図しているのかを即座に察知し、二人は会話をやめた。


 五年生が演奏している威風堂々はフィナーレに突入しだす。

 結佑は来月から中学生になる。

 杏莉は同じ中学校に通うことになっているので、ここで別れにならない。まだ結佑は自分の恋心に決着をつける必要はない、焦って告白をして恥ずかしい思いをする必要はないと思っていた。


 自分から告白しなくても、いつか杏莉が自分に対して働きかけをしてくるかもしれない、そして自分のことを好きになってくれるかもしれない。そんな淡い期待を結佑自身では排除することができず、またそのようになるのだろうと自分のステータスを過信していた。


 その一方で、杏莉が自分のことを好きになってくれる現実可能性を鑑みて、いつかは恥をかいてでも自分から告白しなければいけない時が来るのであろうと予感する結佑がいたことも確かで、このまま告白しなかったら杏莉に近づくためのハードルが高くなるだろうことも結佑の頭にはよぎった。


 昔なら一緒に遊んでいたのに、次第に友達と呼べる人は男子しかいなくなり、男子としか一緒に遊ばなくなった。女子と遊んでいようものなら、後ろ指を指されからかわれることになる。

 男ならば女の前で格好よく見せたくなる。

 男ならば女とは違う制服を着ることになる。

 男ならば女の膨らみが気になりだす。

 男子と女子という区別は、排泄以外の役割を持ち出されることにより、男と女という区別に成り代わり始める。まさにこの時結佑はこの転換期を迎えていた。


 結佑にはそれがほんのちょっとの違いに見えていた。そんなに気にする必要はない些末なことと思っていた。


 自分から働きかけるだけの勇気のない結佑は来る福音を待つこととした。

 福音をただ待つだけの理由は結佑にはあった。それは、結佑のことが好きだという女子の噂を啓太から聞いていたからだ。同じように杏莉も無条件で受け入れてくれるものだと決めつけて、その返答をただ待ち続けることを決めた。


 教頭が式の進行を始めた。まずは校長の挨拶からだ。校長を舞台に進むようにアナウンスし、校長は自らの席を立った。


 校長は舞台へ上がるための階段を上り、演台に着くとこちらに向かって一礼し、手元の白紙を広げ、何も言わずにそれを閉じて、また一礼をした。そして校長は同じ道をたどり座席に戻った。


 こんな無駄な行事にいつまで従えばいいのだろうと退屈しながらその滑稽なまでの予行演習とやらを嘲笑うようにして結佑は見つめていた。


 すると、司会を務める教頭に向かって学年主任の矢口が手を挙げて発言の許しを得る。


「もう一度入場、やり直しましょう。喋っている人がいるようでは予行になりません。後輩に恥ずかしい姿をこれ以上見せないためにも、もう一度しっかりやり直してください。」

 矢口は続けて言う。

「ちゃんとできなかったらまたやり直します。」

「えぇ~」という子供らしいヤジを生徒たちはした。それに対して矢口は何を言うわけでもなく、全体をにらみつけた。

 生徒たちはまんまと怖気づいて静まり返った。卒業式の予行演習はまた、矢口の手によって引き延ばされた。


 結佑は自分を指されているようで無性に腹が立った。こんな学校とっとと出てやりたいと反抗的な言葉ばかりが頭を支配するが、矢口の指示には周りの生徒同様に黙って従った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る