5 肌色風船の虜
気が付くと目の前には、青々とした芝生があたりに広がっていた。運動会を直前に控えていることもあり、校庭にはトラックが描かれている。石灰で描かれたトラックはところどころ不自然に曲がっている。
ガキたちが遊具を使って余計なことを起こさないようにと、遊具たちは束縛され、窮屈そうにしている。
同じように壁に縛られている私は四肢を四方に引っ張られ、いつも以上に体を活発に広げている。
遊具が一望できるここは…、勤めている学校の正門、そのすぐそばの芝生の端。たしかここには紅組、白組の得点を掲示する得点板があったはずのところだ。辺りにいるのは、体育着を着ている生足と、ジーパン、スカート、ジャージ。そして、だらしのない自分の体。
理解はできないが、自分の状況を受け入れるだけの容量が結佑にはあるらしい。違和感の塊を胃酸に溶かす。
「よーい、ピー!」
どこからともなく号令がかかると、一斉に辺りの人間が水風船のようなものを私に投げつけた。
よくわからないが今の私はそれをどうしようもなく欲しているようだ。これほどまでに自分の欲求を俯瞰して見たことはあっただろうか。欲求に対して素直に従いながら、それでいて自分の欲求を観察する。
私は四肢を縛られているので、唯一動かせることができる頭と掴み取ることのできる口を使って、それらに何とか嚙みつこうとする。しかし口が届く範囲も限られているからであろうか、何度も空振り、何球も体にぶつかる。
からぶったことも、ぶつかったこともどうだっていい。とりあえず一つ、捕まえたい。そして自分のものにしたい。なんとか自分の中に取り込んで自分の一部にしようと欲する。
一つでも自分のものにしてしまえば、あとは好きにすればいい。私のペットとして、私のモルモットとして、私の玩具として。
どいつもこいつもまともなところに投げやしない。私の可動域はどんなに多く見積もったって半径二十センチ。その域内に来ないのだから掴むチャンスすらない。ガキとほかのやつらはどうして体ばかりにめがけて投げるのであろうか。
「ピピー!」
一斉に投球が中止される。「ああ…」と観客のため息が場を支配する。風船の中に詰められていた藍色と朱色の液体が私にかかっただけだ。
せっかく自分が欲求を向けてやっているというのになんてやつなんだと興ざめた。
「はーい。次の二組の人たちに代わってくださーい。時間押してるんで急いでー。」
一度は下がったボルテージが心理的にも物理的にも上がる。今度もきれいな生足たちがいる。
「よーい、ピー!」
薄々、捕まえられるところになんか来ないだろうと思いながらも、チャンスを逃すまいと風船を追いかける。その柔らかな、それでいて小刻みに震えた。
結局何も当たらないまま、二組目の競技が終わった。
一組目のと二組目のとで辺りはすっかり藍色と朱色で染め上げられていた。
二組目が終わるとてきぱきと三組目の投球が始まった。私の予想通りだ。三組目まである予感が私にはあった。
しかし開始直後であった。風船が私の顔の真横でちょうど割れ、液体が飛び散り、目にも液体が入ってきた。藍色をしたそれは私から視界を奪い取り発情の方向を音痴にさせた。ぬぐい取れない液体におぼれながらももがく。なかなか光が目に入ってこない。やみくもに顔を動かし続ける。
ただただ行く先も知らず顔を動かす。目に入った藍色の液体を取り除くため。いまだ視界はくっきりとしないものの、だんだんと淡い色をした光が差し込む。
突如、偶然にも目の中を邪魔していた藍色の水滴たちが一斉に跳ねのけた。それと同時に、一球まさにこちらに向かわんとしてきているではないか。
私を執拗に誘惑し、そして魅力的な蕾を宿した。
反射的に一瞬よけようとしてしまったが、再度風船は私に働きかける。私に発情をしろと。
「これこそ私が捕まえなければいけない風船だ。これこそ私が求めていた玩具だ。」
そして私は駆られる。私の顎めがけて投げられたそれを、口でもって今まさに捕まえようとする。
これが多分、最後のチャンスだ。
ちぎれても構わんと、投げられた白を淡くした水風船にかみついた。ついに私の口が欲情しているものを捕えた。
だが、それは思っていたよりも硬く、すぐに弾けなかった。分厚いゴムのようで、吐き気を催した。それを嚙み切ることができない。てっきりほかのと同じようにパッと刹那のうちに割れるものとばかり思っていた。そして作られた戯画の世界は終わりを告げるものだと思っていた。
私は、私の用意した台本を進めるため、なんとかそれを割らんとする。さっきまで欲していたが、もう壊れてよい。吐き気を喉の奥で止めて、今この風船を果てさせてやるのだ。そして消えさせてやるのだ。
左の犬歯が表面にある小さな凹部にちょうど入ったような感覚がした。
「ここだ。」
力点を左の犬歯に集中させる。すると犬歯は何やら風船の中にある液体の層に到達した感触を私に与えた。だが中にある液体は表面を破るように出てくるのではなく、だらだらと犬歯を伝って出てきた。出てきたのは藍色ではなく朱色であった。
私の背後で水風船が破れる音が止みだす。
場はそれまでのざわめきを忘れた。
静寂を破ったのはそこからともなく聞こえてくる泣き声だった。むせび泣くことなく、ただしとしとと…。
それは何らかの敗北を意味しているようであった。
次第に、泣き声に追随するようにして人の鳴き声が増えていく。静かな音からうるさい音まで。泣く音から怒る声まで。それらは脳に入るばかりで、外へ出す手段を私は知らない。
「うぉ…おれを…おれのなかの…蛆を…一気に…殺せ…もろとも…すべて…」
その夢は醒めようと思ってもなかなか醒めることを許そうとはしなかった。私を離すことは絶対にするものかという意識を孕ませて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます