3 忘却術

 「ああ…、俺の人生、終わったな。」

 

 結佑の最後に吐いた「ごめん」は結佑に自分の人生の終着点を予期させた。それだけでなく、最初からしてはいけないことだということを頭ではわかっていたということを今さらながらに思った。

 

 小学六年生の女の子を犯す真似をするはずがない。頭では分かっている。きっとこれは自分ではない。

 未だにやってしまったのか自分なのかどうかを区別できなかった。

 けれどまだ触っていないし…。

 そう自分を守ることを考えるけれども、こうして半裸になってしまった二人を俯瞰して見ると、今ばかりは擁護できない。


 秋風が窓を打ちつける音だけが二人しかいない教室にこだまする。上がり切った体温もすっかり下がり、空気の冷たさを特に頭が感じる。ガリガリ君を頬張った時のようなあのツーンとした。それでいて鈍い。


 「服…着よっか…」

 「うん…」


 いつもの歯切れのいい、それでいて小生意気な言葉遣いは志保から消えていた。

 結佑の言葉に助けられるかのように志保は結佑に従う。服を着る志保の姿をもう、結佑が見ることはない。もう彼女にも自分の恥部が自覚されたところぐらいは結佑にでもわかる。そして自分が彼女が恥部を自覚していないということを利用したことも分かる。萎え始めている自分のを見て、事の重大さをより認識させられる。本当に自分は、生徒である志保に欲情していたのだと。


 「今日はごめんね。あと、今日のことは二人だけの秘密にしてくれないかな。」

 

 何を言ってよいのか結佑の頭ではわからず、脳内にあったテンプレを再生する。


 「うん…わかった。」


 後悔とは、もう駄目であるから、挽回の余地がないのだからするものである。

 自分の教員生活が、今までかけてもらった教育費が、経験が、全部台無しになる音がした。これからすべての物事が瓦解していくのだ。底なし沼に落ちてゆくのだ。


 「じゃあ…また明日。もう外は暗いし寒いから気を付けてね。さようなら。」


 この期に及んで明日また会おう?

 一体自分は何を言っているのか結佑に分からなかった。ひとまずの正解に思えた言葉を並べるが、何一つとしてこの場にふさわしくなかった。


 「さようなら」


 志保の放ったためらいのない「さようなら」は結佑の脳内で何度も反芻された。小学校の時に担任から見捨てられた時のことを結佑に思い出させた。

 

「僕はまた捨てられたんだ。」


 結佑は、一人となった薄明りの照らす教室を見渡す。放課後に掃除をしたばかりなのに、手前の机は配列を乱されていて、椅子の一つはその四肢のテニスボールがこちらに向いているままであった。その近くにはまだ乾いていない水滴が添えられているように見えた。

 自分が守ってきていたはずの秩序は、まさに自分によって安易にも壊されてしまった。その乱れ切った明かりを失いだす教室にただ立ち尽くすことしかできなかった。

 ガラガラっと扉が開く音がした。


 「どうしたんですか?伊東先生、こんな遅くまで教室に。それにまっくらじゃないですか。」


 小川先生が声をかけてくれた。結佑はその助け舟である小川先生の声を邪魔に思った。だが、それに応じないのも失礼なことであると思い、いつもよりも乱暴に返事をした。

 

 「いやぁ…、ちょっとぼおっとしてたんですよ」

 「そうですか。六時からちょっと会議、あるらしんでそれまでには職員室に来てください。」

 「はい。そうします。」


 小川先生は、てきぱきと用事だけを伝え教室を後にしていく。暗がりのせいか、教室の乱れを気にしていないようだ。


 小川先生の言葉は、結佑を急に日常の激務に引き戻した。付いていなかった電球をつけさせ、急いで教室の乱れを整えるために、体を動かせた。ついでに今日の掃除当番が取り忘れているゴミの塊があったのでそれを拾い、隅っこの掃除が行き届いていないところの掃除をした。


 さっきしてしまったことが、やらねばならない仕事に身を任せていると、まるで夢だったように思えた。きっと明日になれば何にもなかったかのように日常が戻ってきてくれるのだ。そのために今のうちから日常に身をさらすのだ。


 時計を見るともう六時を示そうとしていたので、掃除にけりをつけ、走って職員室に向かう。そしていつものように会議が始まる。


 「えー、定例前に集まってもろうてすいません。そんじゃあ、六年二組が昼休みにしとるサッカーのことなんですが、圭君が…」

 

 いち早く余計なことを捨てねばならない。


 日常をこのまま送るために早く現実の仕事へ意識を集中させるのだ。あれは夢だったのだ。

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