2 きっかけ

 結佑は生徒たちのことを性的な目で見たことは決してなかった。からかわれることがあったとしてもそれにはごまかすように答えてきたし、まともに受け入れることはしなかった。


 まさか自分の身に起こるものなどとは思いもしなかった。


 その今思えば過信だったことを崩したきっかけは夏休みにあったサマースクールという、学校が主催で行うイベントが行われている期間であった。


 「センセイ。イトウセンセイ。」

 

 その時はちょうど、自分が担任を持つクラスの新学期の準備を進めていた。クラス三十人分の作品や作文を掲示する入れ物を画鋲を使ってきれいに並べているところだった。いつもは数人の女子を引き連れてからかってくる志保はその時は一人であった。

 

 「どうしたの志保ちゃん。今、先生作業中なんだよ。」

 「センセイ、今好きな人っているの?」

 

 からかうような口調で志保が尋ねた。

 毎度のことであったからいつものように受け流した。


「クラスのみんなだよ。」

「いや、そう意味じゃなくて、好きな女の人いるって話だよ。」

「うーん。今はいないかな。」

「センセイは今までそういう関係になった人とかいないの?」

「からかうのもいい加減にしてくれ。こっちは作業中なんだよ。集中させてくれ。」


 結佑はほぼ反射的に志保の問いかけを遮った。


 「いるかいないかだけでも答えてよ。」

 

 志保はすねるような表情を見せた。

 

 「想像に任せる。これでいいだろ。」


 結佑は志保に経験済みでないことを悟られまいと言い訳まがいの言葉を放ち、志保をあっちの方へとやる。

 「えー、うざ。」


 結佑の画鋲をいじる音だけが響き渡る。


 「センセイのこと、好きだよ。」

 

 急に志保が口を開いて言った言葉は告白だった。


 「もう、からかわないでくれ。お願いだから。」

 「ほんとだよ。」

 「いやほんとだって…。」


 結佑がそう言って志保の方を見てみると、志保は困っていそうな表情を浮かべて結佑の方を見ていた。それを結佑は恋に悶える乙女の表情とみた。実際に見たことはない。ただ、大昔の初恋の人の想像した恋を孕ませた照れ顔がそこにあるように見えた。その人が自分のものになったかのような錯覚を結佑は素直に受け取った。目に映るものがすべてなのだから。そのようにして生きてきたのだから。


 「ほんとなの?」


 結佑は口調を変えて志保に尋ねた。


 「…ほんと」


 返事がどうにもじれったく思え、結佑は志保の発言がどうやら本気のものだと思ってしまった。

 結佑はまだ先生たちの中では若い方で、生徒と一番二番目ぐらいに年齢が近い。生徒が先生に対して恋してしまうということがあるというのを結佑自身聞いたことがあったし、ありえない話ではないだろうと思っていた。

 

 もちろん応じる気はなかった。

 それは自分の生活を守るためでもあったし、そもそも前科が付きかねないからだ。法律を結佑はよく知らないが、やってはいけないことであるとなんとなくはわかる。

 頭では分かっている。


 だがこの想定は平時であるからできるのだというのが分かるのは後の話である。


 「本当だとしても、かなわない恋だよ。だって先生捕まっちゃうし、志保ちゃんもきっと怒られるよ。お互いのためにもそういうことはやめておいた方がいいよ。」

 「えー、誰にも言わないって約束するからさ。お願い。」

 「ダメなものはダメだ。ほら帰りなさい。」


 これで志保も諦めがついてくれるだろう。

 理性を失いかけていた結佑は自分に歯止めが付いたことに一安心をした。その時であった。


 「これでも、ダメ?」

 

そう言うと志保は自分から上着を脱ぎだした。

 志保は羽織っていたカーディガンを脱ぎ捨て、そして水玉のシャツを脱ぎ始めた。結佑はそれを止めることなかった。

 

 体がかつてよく見ていたものに似ているような気がした。なぞった初恋の輪郭に。

 結佑は画鋲をいじる手を止めて、それをまじまじと見てしまった。意識は志保のきれいな指先から何一つ傷のついていないきれいな肌、そしてブラトップへと向かった。

 それは最後の砦であったのかもしれない。


 「やっ、やめろ!」

 

 結佑は脱いでいた志保を止めた。


 「え?ダメだった?」

 「だ、ダメとかそんなんじゃないけど…、ほんとに俺でいいのか?」

 「だからそういってんじゃん」

 「じゃあ…、二人だけの秘密にしよう。約束守れる?」

 「うん…。」

 「けど、今日みたいなことはしちゃいけないぞ。俺も志保ちゃんも大変なことになっちゃうから。」

 「それは、分かってるつもり。」

 

 そう言って、結佑と志保は契約を結んだ。

 

 結佑は志保に訴えられるのではないかという疑いも最初こそあったが、回数を重ねるごとにその疑いも晴れた。そして徐々に行うことも結佑の法律のエンドラインに近づいていった。行う場所、時間も、忙しい合間を縫って、ほかのひとたちにばれないようにやった。それが生徒の帰りが早い金曜日の夕方だった。いくら仕事があっても、その時間だけは空けるように努力した。そして幸か不幸か、空けることができてしまった。それは結佑にとってのストレス発散だったとともに、初めての異性との直接的な接着であった。

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