反面教師

紺野かなた

エンドライン

1 初犯

『…さて私は今まで永々と、幼時からの記憶の無力について述べて来たようなものだが、突然よみがえった記憶が起死回生の力をもたらすこともあるということを言わねばならぬ。過去はわれわれを過去の方へ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々には、数こそ少ないが、強い鋼の発条があって、それに現在のわれわれが触れると、発条はたちまち伸びてわれわれを未来の方へ弾き返すのである。』

    三島由紀夫 『金閣寺』より



 午後五時、結佑は少女との秘密の約束を果たすために、今日も時間を空けてある少女の待つ教室へと向かった。


 教室へ入ってきちっと入り口を塞いだところで結佑が志保に目をやると、志保は教卓に頬杖をついて待っていた。


「じゃあ約束の…」

「分かってるよ。センセイ。」


 少女はそう言うと自分の魅力をわかっているかのように淡い青色をしたカーディガンを脱ぎだした。少女の手は踊るようにして、次々に服をはだけさせた。


 結佑が異性の裸体を見るのは何年ぶりであろうか。普通の人間なのならばきっと大学生ぐらいにはその年相応の裸を拝むことができるのだろう。そして一度はそのきれいな肌に自分の汚さを交えるのだろう。


 思い返すと、初めて見たあの時はまだ十二歳時、二限水泳の後のことだ。ちょうど女子が着替えているところの扉が開いていて、そこを本能的に見ようとしてしまった時だ。その異性の名前や顔は覚えていないが、その裸体は鮮明に覚えている。まだ膨らみかけの胸にきれいな太腿であった。

 結佑が異性の裸体を見た時、そこには決まって恋愛感情はない。あるのはただの性的欲求だけで、本能がその膨らみかけの胸を、滑らかな腿を求めるばかりである。

 ただ前回と明らかに違うのは、結佑がそれを自らの言動によって、働きかけてもたらしたことであった。


 橙の日の光が消えかかった教室にいるのは担任の結佑とその教え子の志保。日差しがスポットライトのように半裸の二人を照らす。身体が十分に成長しきっている男は、初めて女の裸を見る時のようにまだ成長しきっていない志保の体を視線で舐めまわす。重力に逆らうことなく同じ形を保っている蕾はまだ男のそれと間違えるほどだ。

 興奮の加速度を上げだしていた結佑は、スピードに身を任せ、志保に向かって、「触ってみてもいいか」と問う。すると志保は、自分が服を脱ぐよう迫られた時のように、「じゃあ、おんなじことしていいんだったらやらせてあげる」と笑みを含ませ、小生意気な口調で結佑をからかう。  

 

「うん…。それじゃあ」


 結佑は十二歳年の離れていること、志保の担任であることを捨て去り、ただ欲求の赴くほうへと歩みを進ませる。

 志保は自分よりも歳が上の人間を体で屈服させることで一方的なまでの男に対する優越感に浸り、結佑を誘った。身近にいる初心な男から弄んでやるのだと。志保はきっと自分の女としてのデビューにはちょうどいいと思ったのだろう。


 結佑は一瞬のためらいの後、志保に向かって一歩を踏み出した。超えてはならないエンドラインを超えるには自分の性欲の助けが必要であった。一応保たれていた、机を二つ隔てた先生と生徒の距離感を、結佑の欲求が打ち破ってしまった瞬間であった。


 恐ろしいほどに志保に取り憑かれてしまった結佑は、焦点を志保の輪郭に定め、瞬きをすることもなく歩みを進める。太腿に机がぶつかっているのも、結佑がずらした椅子を後ろに倒したことも、なお足首に引っかかったままのズボンにも気づかず。ただ脳の指令のままに。結佑はゾンビのように手を志保を求めるようにして志保に近づく。


 志保から見て結佑の影はどんどん大きくなっていった。視線は一点に定まることなく、だけれども志保自身の輪郭には収まっていた。普段は目につかない指先のペンだこ、ムダ毛が十分に処理されていない太腿に脛、傷だらけの靴が妙なまでに目に入った。


 志保は近づいてくる先生に危機感を感じ始めた。

「やっ…やっぱこんどにしましょう?もう暗くなってきちゃったし」

 男は何かのクスリにでも冒されているのではないかと志保には思われ、これはからかいに応じている顔ではないことを直感した。もうこれ以上からかってはならない。男の求めに応じてはならない。それと同時に、自分の体に危険が、そうまさに担任である伊東先生…、いや、伊東結佑という性に飢えた獣によってもたらされそうであることに気が付く。

「こんなことしちゃいけないよ…。先生なのに…。」

 性に駆られた汚らしい脚はそう話しかけても行進を続けた。


 もうこうなってしまったら、志保もさすがにわかっている。それが男、しかも成人している大人に、からかっていけない領域だったこと。そして、もう手遅れであることに。


 いつもはからかえるほどの大きさに見えていた手はみるみると大きく、巨大になり、今さっき自覚したばかりの恥部に着地しようとしている。


 これから自分がどんな目に遭わせられるのかを志保は知識の範囲内で想定する。

 恥部を執拗に撫でられること。獣の吐息を顔に、体中にかけられること。そして舐めまわされること。

 どの想定にも共通しているのは、いつもと立ち位置の変わった二人の姿であり、それでいてされるままの自分の姿だった。志保が思い描いていた優越感は、結佑のだらしなく大きい体に直面することによって瓦解していき、それが自らの過信であったことを執拗なまでに理解させた。


「そんなこと…しちゃいけないよ…。」

 今の結佑の耳には当然入らない。

「もう…やめて…。」


 ああ。もうだめだ。もう襲われる。男の手が触れてしまうのをただ待つことしかできない。諦めの境地に達した志保は運よく救いの手が教室の外からもたらされることに一縷の望みをかけるしかなかった。結佑の手はいつもより敏感になっている志保の産毛に触れ始めた。


「うっ…いやっ!」


 とっさに出た拒絶反応は、結佑の欲望の間隙を縫い、しばらくなかった音声を結佑にもたらした。


「あっ…。ごめん…」

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