セクハラ上司

「今晩、仕事終わったらちょっと飲んで帰ろうよ」


 上司の加藤が言った。


「は、はあ」

 

 部下の前田美月は曖昧に返事をした。

 二人はいまタクシーで営業先から会社へ帰っていた。

 上司の加藤は、四十歳で結婚もしているが、事あるごとに美月を誘ってきた。

 美月は大学を出てすぐにこの会社に就職したが、無名の私立大学を出ていて、就職活動はかなり苦労した。

 そしてやっと入れた会社で、美月も頑張ろうと思っていたので、初め加藤が誘ってきた時は、こういう付き合いも社会人として大切だと思って行くようにしていた。

 しかし、何度か行くうちに、どうも様子が変わってきた。

 初めは新人の美月にいろいろと会社の事などを教えてくれたし、上司としての姿勢を崩すこともなかった。

 だが、それも初めの数回で、途中からは明らかに美月を口説くようになっていって。

 美月はそうなってからは何度か断ったこともあるが、そのたびに加藤は、


「君を採用するように強くいったのは俺なんだよ」

 とか、

「君を辞めさせるなんて簡単なんだよ」

 とか、

 口調はやさしいが、恫喝するようなことを言ってくるのだ。


 美月としては、この会社を辞めたくはなかった。

 苦労して入った会社ということもあったし、仕事の内容も気に入っていた。それに他の同僚とは楽しくやれている。

 ただ、この加藤だけが問題だった。


「あ、そうだ。なにも会社に戻らなくてもいいか。事務的な事は明日したらいいし、このまま直接飲みに行こう」


 加藤は独り言のようにそう言うと、勝手に運転手に店の名前を告げて、そこに行くように指示した。


「あ、あの、ちょっと、今日は……」


 美月は断ろうとした。


「うん? ああ、これから行く店は、なかなか魚介がうまいんだよ。君のような若い子はあまり食べられないようなところだから、楽しみにしておいて」


 加藤は有無を言わさぬ雰囲気を出した。


「は、はあ」


 美月は結局断りきることができなかった。

 美月は性格的にあまり強く出られないのだ。もともと少し控えめで、それもあり就職活動に苦労したというのもある。

 加藤の方は、そういう美月の性格をよく見抜いているようだった。

 おそらくこういうことに慣れているのだろう。

 実際、この加藤がこれまでに何人も会社の女性に手を出してきたような噂話は聞いたことがあった。


「さあ、店に着いたよ」


 タクシーが加藤の指定した店に着いたようだ。

 美月は仕方なしにタクシーを降りた。そして、加藤について店に入る。

 カウンター席に二人で並んで座ると、加藤は美月になにも訊くことなく、勝手に注文していった。

 加藤が言うように、料理は確かにおいしかったが、嫌な相手と一緒では、それもあまり味わえない。

 加藤は一人で勝手に気分良くなって、途中からは事あるたびに、美月の身体に触れてきた。そして、酒がかなり回った頃には、肩や腰に腕を回す始末だ。

 美月は、それをじっと我慢していた。


「美月ちゃんってかわいいよね。彼氏はいないんでしょう?」


「は、はい、まあそうです」


「君のようなかわいい子が彼氏がいないってもったいないよ。俺なら放っておかないけどな」


「は、はあ。それはどうも」


「俺なんてどうかな? 美月ちゃんのような年齢の子から見ると」


「どうと言われても……」


「ハハハ、まあ、おじさんだよね。でも、俺はこう見えても結構モテるんだよ」


 最近の加藤は飲みに行くといつもこの調子だった。

 会社にセクハラで訴えることも考えたが、仕事上で世話になっているのも事実だ。

 変に事を荒立てて、上司にである加藤に嫌われたら、仕事に支障が出る。それは、まだ一年目の美月にとっては辛かった。


 結局、その日は、ずっとこの調子で二時間ほど飲んで帰ることになった。

 店を出ると、加藤はタクシーを止めた。


「家まで送っていくよ」


 と当然のように言った。

 これまでも何度もこういうことがあったが、その都度断っていた。


「いえ、電車で帰れるので大丈夫です」


 こんな男に送ってもらったらなにをされるかわからない。


「遠慮しなくてもいいよ。さあ、乗って」


 しかし、今日の加藤は引き下がらなかった。

 タクシーの運転手も、早くして欲しそうにこっちを見ている。

 美月は仕方なく、タクシーに乗った。

 そして、美月の一人暮らしのマンションへとタクシーは動き出した。

 タクシーに乗っている間も、身体を寄せてきて、やたらとベタベタと触れてくるのだった。

 美月のマンションの前に着くと、美月はすぐにタクシーを降りた。

 すると、加藤もどういうわけか一緒に降りた。


「あの、帰らないんですか?」


 美月が言うと、


「ちょっとだけ、家に上がらせてよ。お茶がぐらいいいでしょう」


 と、いまのご時世にしてはありえないセリフを平気で言うのだった。

 美月は困ってしまったが、住宅街でタクシーもほとんど通ることがないようなところで、突き返すという事もできなかった。


 その時、加藤のスマホが鳴った。

 加藤はスマホを取りだし、電話に出た。

 なにやら話をはじめ、途中から深刻な感じになっていった。


「せっかくだけど、嫁のお母さんが急に入院することなったらしいから、すぐに帰らないといけなくなったよ」


 加藤はそう言うと、残念そうにブツブツと言いながら帰っていった。

 美月はホッとした。


 翌日、美月のところに加藤が寄ってきた。そして、囁くように、


「今日、君の家に行ってもいいかな?」


 と言うのだった。

 美月はゾッとした。

 一体なにを考えているのかと思ったが、こういう男が考えていることがわからないほど子供ではない。

 美月が言葉が出ずにいると、


「じゃあ、今晩ね」


 と言って、離れて行った。

 美月は、さすがに無理だと思い、信頼できる先輩である米山里香に相談した。

 米山里香は三十前の女性で、テキパキしていて仕事もできるし、気も強かった。

 美月はこれまでいろんなことをこの里香に相談していた。もちろん加藤の事も相談したことはある。


「ええ、そんなのダメよ。絶対断りなさい」


 里香は当然そう言った。


「ですよね」


「それはそうよ。ああいう男は、美月みたいな気の弱そうな子には強引に行けばどうにかなるって思っているのよ」


「でも、私、断る自信がないです」


「わかったわ。じゃあ、今晩私も美月の家に行くわ。それなら安心でしょう」


「いいですか? 助かります」


 その日仕事が終わると、美月は里香を連れて家に帰った。

 加藤は仕事で少し遅くなるから、後からタクシーで来るということだ。


 美月の家で、美月と里香は二人で楽しく過ごしていると、そこに加藤が来た。


「あれ、米山君。どうしてここに?」


 加藤は露骨にがっかりとした顔をした。


「あら、私がいてはいけませんか?」


 里香はあくまで強気だ。


「あ、いや、そういうことではないんだが、どうしているのかと思ってね」


「今日は、前から美月と一緒に飲もうって言っていたんですよ」


 里香は適当な理由をつけた。


「そうか。ま、それなら……」


 加藤は里香を押し返すわけにもいかず、しぶしぶという感じである。


「ところで、加藤課長こそ、どうして美月に家に来たんですか? 女性部下の、しかも一人暮らしの家に来るなんて問題があるんじゃないですか?」


 美月は詰め寄った。


「そ、それは、ちょっといろいろと事情があるんだよ。別に俺は変なことをしようと思ってきたわけじゃないんだ。仕事のことで話があってね」


 加藤はいかにも苦しい言い訳をした。


「でも、君たち二人で楽しんでいるのに、仕事の話も野暮だから、今日のところは俺は帰らせてもらうよ」


 加藤はそう言うと帰っていった。このあたりの引き際は早かった。

 粘ると不利だと思ったのだろう。


「良かったです。すんなり帰ってくれて。ありがとうございました」

 

 美月は喜んだ。


「今日は私がいたからすんなり帰ったけど、今後もあのタイプはしつこく誘ってくるわよ。気を付けてね」


 里香がそう言った時だった。

 

「ギャアア!」


 と外から悲鳴のような声が聞こえた。

 二人は窓から外を見た。

 すると、美月のマンションの下に、巨大なガマ蛙がいた。軽自動車ぐらいの大きさである。暗くて色はハッキリわからないが、外灯に不気味に光っていた。

 そして、悲鳴の主は加藤だった。

 そのガマ蛙が加藤を大きな口で咥えているのだ。加藤の下半身はガマ蛙の口の中で、上半身だけが出ていた。

 腕をバタバタさせて逃れようとしていたが、まったく抜け出せないようだ。


「た、助けてくれ!!」


 加藤が叫ぶ。

 近所の人も窓からのぞいたり、玄関から出てきたりしていた。しかし、あまりの事に誰もなにもできないでいた。


 しばらくすると、ガマ蛙は咥えていた加藤を、ペッと吐き捨ていた。

 吐き捨てられた加藤はアスファルトの道路に人形のように転がった。

 ガマ蛙は、ゲボッとひと鳴きして、そのまま消えてしまった。あとには白い煙だけが残った。


「な、なんだったの? いまの」


 里香が言う。


「さあ、なんだったんでしょう?」


 当然、美月にわかるはずもない。


「加藤課長は大丈夫かしら?」


「あ、そうですね。見に行きましょう」


 二人はマンションの下へ降りた。そうしているうちに遠くから救急車やパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 二人が道に転がっている加藤に近づくと、異様な臭いが漂っていた。生ごみのような、なにかが腐った臭いのようだった。


「うわっ、臭い」


 二人は鼻を摘まんだ。


「あ、ああ、なんだったんだ、いまのは?」


 加藤はどうやら無事のようだ。

 しかし、かなり強烈な臭いが辺り一面に漂っている。どうやら、その臭いの原因はあの巨大ガマ蛙の唾液のようだった。

 加藤の全身がグッチョリと濡れていて、そこから臭っているのだ。


 その後、警察に事情を訊かれて、加藤は説明をしたが警察は信じるはずもなかった。周りの目撃者にも訊いたが同じようなことを言う。

 警察官は困っていたが、とりあえず大した被害者はいないということで、穏便に済ます方向のようだった。

 ただ、その臭いだけが、どうにもならなかった。


 翌日以降、加藤が出社してくることはなかった。

 そして、ひと月も経つ頃、加藤は退職するということになった。

 説明によると、加藤はあれ以来、臭いがまったく取れず、その臭いのせいでどこにも出かけることができなくなっているそうだ。そして仕事も辞めるしかないということになったそうだ。

 奥さんともその臭いが原因で、関係が悪くなり離婚になるということだった。

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