犬を放してはいけません
秋晴れの公園は、家族連れやカップルが思い思い過ごしていた。
そんな中を一頭の大型犬がのしのしと歩き回っていた。リードはしていない。かと言って野良犬ではない。
飼い主はその犬の後は悠然と歩いていた。
犬は十分しつけされているのかと思いきや、好き勝手に歩き回る。
飼い主はそれに対して、なにをすることもなく、むしろそれを楽しんでいるようだった。
「ハハハ、あいつも元気だな。やっぱり大型犬はこうやって自由に遊ばせないと」
「ホント、そうよね。オホホ」
飼い主である二人は、大型犬を放して自由にさせることで、満足しているのだった。
だが、当然、犬好きもいれば、犬嫌いもいる。
「ちょっと、すみません。子供が怖がるのでリードをつけてもらえますか?」
と一人の女性が声をかけた。すると、
「何言ってんだ。犬だって自由に公園を楽しむ権利があるだろう」
と取り合わないのだ。
声をかけた女性は、そう言われて言葉を失い引き下がるしかなかった。
「それに俺のジョニーは人に噛みついたりしないから大丈夫だよ」
ジョニーというのは犬の名前なのだろう。
飼い主の男は恥ずかしげもなしに言った。
一緒にいる女もそれに同調するような顔をしている。おそらく夫婦なのだろう。
二人は服装からして、かなり裕福ではあるようだ。それに、これだけの大型犬を飼えるのだから普通のサラリーマン家庭ではない。
「ほら、ジョニー、おいで」
「ああ、よしよし。いい子だ」
飼い主としては愛犬が可愛くて仕方がないという様子だ。
しかし、そうではない人がいることにはまったく頓着しないのだろう。
水原浩二はそんなやり取りを少し離れたところから見ていた。
水原は、この公園の近所に住む作家である。構想が行き詰った時や、気分転換でよくこの公園に来ていた。
そして、これまでにこの大型犬や飼い主は目にしていた。
いかにも傲慢そうで、話しても無駄だなと思うから、水原も気にはなっていたが、これまで何もいわなかった。
今回、子連れの女性が注意していたが、案の定の対応だ。
以前に公園の管理人が注意をしているのを見たこともあるが、その時は「俺は税金もいっぱい払ってるんだ」とか「お前の給料も俺の税金から出ている」とかそういうことを偉そうに言っていた。
どれだけ社会的に成功しているのか知らないが、これではダメだなと思いながら、水原はただただやり過ごすだけだった。
この手の連中は関わってもろくなことがない。
大型犬は公園を自由に歩き回り、飼い主は相変わらず悠然と公園を散歩していた。
おまけに、大型犬が途中で糞をしても、飼い主はそれを処理するつもりもないようだ。
水原はあきれたが、どうせそれを注意しても、通らない理屈を言うに決まっていると黙って見過ごしていた。
一週間後、また水原が公園のベンチで思索にふけっていると、あの犬と飼い主が来た。
水原は嫌な気分になったが、だからと言って、帰るのも癪であるから、そのままベンチでその様子を見ていた。
飼い主は相変わらずで、犬は自由に走り回り、怖がって泣いている子供もいた。
それでも飼い主の夫婦は知らん顔である。
水原は今回もあきれてそれを見ていたが、問題が起こった。
子供の多くは大型犬を怖がっていたが、中には犬に興味を持つ子もいる。そんな子供の一人が犬に近づいた。
五歳ぐらいのその子供は、犬に近づき撫でようとすると、犬が突然ガブッとその子に手に噛みついた。
「わあああああ!」
子供が突然のことに火が着いたように喚いた。
「ああ、翔ちゃん」
とその子の母親が飛んで来て子供を抱き上げた。
犬は少し噛んだだけで、すぐに放した。別に敵意があったわけではないようだ。いわゆる甘噛みだったのだろうが、子供は当然驚いたことだろう。
「ちょっと、ちゃんとリードしてください」
母親が飼い主に怒った。
「大丈夫だよ。予防接種もしてるし。それにあんたの子供が勝手に手を出したから悪いんじゃねえかよ」
「そうよ。あなたの方こそ、子供をこんな大きな犬に近づけるなんて、不注意なんじゃないの」
と飼い主夫婦のほうは、一向に反省をしている様子もなければ、謝罪する気もないようだった。
水原は、ただただ、その様子を呆然と見るているしかなかった。
手を噛まれた子供の母親も、あまりの返答に呆気にとられ言葉を失っていた。
飼い主夫婦府は、そのまま行ってしまった。
水原は、その手を噛まれた子供と母親に近づき、
「災難でしたね。大丈夫ですか?」
と声をかけた。
「あ、すみません。大丈夫です。それにしても本当に困った人たちですね」
「そうなんですよ。どうやら近くのタワーマンションに住んでいるようなんですが、いつもあの調子でしてね」
「そうなんですか。公園の管理人の人もきちんと対応してくれないと困りますわ」
「まったく。しかし、公園の管理人も事なかれ主義と言いますか、ややこしい相手なんて関わりたくないって感じですよ」
「困りましたね」
そんな会話を二人でして、子供の手を見たが、少し擦り傷のようになってはいるが大丈夫そうであった。
ただ、医者には見せるということだ。
それから数週間、水原は何度かその大型犬と飼い主夫婦を見たが、毎度同じような感じだった。
そんなある日、水原がまた公園を散歩していると、あの犬と飼い主とに出くわした。
水原が歩いているところに、向こうからその犬と飼い主が歩いてきたのだ。
水原はこの夫婦にいい思いを抱いていないので、ひょっとしたらそういう雰囲気が出ていたのかもしれない。
その大型犬が、突然水原に吠え掛かった。
リードをしていたら、大して問題はないことだったのだろうが、この犬はリードをしていないので、そのまま水原の手首に強く嚙みついた。
「グアワアア」
水原の手首に太く鋭い歯が刺さった。
さすがに飼い主も焦ったのか、犬を止めようとしたが、犬はどういうわけか、水原の手首をウーウーと唸りながら放そうとしなかった。
その時だった。
突然、巨大なガマ蛙が現れた。
「えええ!!」
水原は噛まれている痛みを忘れるぐらい驚いた。
なにせ軽自動車ぐらいの大きさだ。そんなものが突然目の前に現れたのだから、驚かないはずはない。
飼い主夫婦も、突然のことに理解が追い付ていないようだった。
水原に噛みついていた犬も、飼い主が止めようとしても放さなかった水原の手首を放した。そして、今度はそのガマ蛙に向かって、激しく吠えた。
しかし、ガマ蛙はまったくそれに怯えることもなく、悠然としている。巨大な目玉をギョロギョロさせた。
そして、大きな口を開けたかと思うと、太い舌を伸ばして犬を絡め取り、そのまま口に放り込んだ。
さすがの大型犬も、何もできずあっさり飲み込まれてしまった。
「ああ、ジョニー! この野郎! ジョニーを返せ」
と飼い主の夫の方がその巨大ガマ蛙にかかって行ったが、ガマは後ろ足で面倒くさそうに、その飼い主を蹴飛ばした。
その脚力はすごく、蹴飛ばされた飼い主は七、八メートル飛ばされて、立ち木にぶつかりぐったりとなった。
「ああ、あなた!」
妻の方が蹴り飛ばされた夫に駆け寄ろうとすると、その妻に向かって、巨大ガマが跳ねて体当たりを喰らわせた。
軽自動車ぐらいの大きさである。妻は当然ただでは済まない。交通事故に遭ったようなものだ。
体当たりされて跳ね飛ばされた妻の身体は藁人形のように飛んで行って、地面に転がった。
水原はそれを呆然と見ているしかなかった。恐怖で腰が抜けていたというのもある。
公園に来ていた他の人たちも、それを目撃していたが、なにもできずにただただ遠巻きに見ていた。
しばらくして警察官が二人来た。
公園の管理人が呼んだようだ。管理人が状況を説明するが、それを聞かされた警察官は、まったく要領を得ないという顔をしている。
周りの人に訊いても同じようなことを言うので、どう処理したものかという感じだ。
とりあえず救急車が呼ばれて、飼い主の夫婦は運ばれたが、素人目に見ても助からないと思われた。
水原の手首はかなりの傷ではあったが、命に別状はなく、狂犬病なども問題なかった。
水原はかかった医者に、噛まれた時に起こった出来事を話したが、「そうですか」と言いながら半笑いであった。そんな反応で当たり前だろうなと水原は腹も立たなかった。
それ以来、水原がこの公園に行っても、犬の散歩に来る人を見ることはなくなった。
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