近所迷惑ご用心
「また始まったぞ」
野田信二が妻の佳代に言った。
「そうねぇ。どうしようかしら。毎日これじゃあ、耐えられないわ」
佳代は眉を歪めた。
「しかし、あんまり近所ともめたくないしなぁ」
「そうよねえ。でも、もう私たちも三か月我慢したんだし、そろそろ 言ってもいいんじゃない。だって、こんな時間に毎日練習されたんじゃ誰だって文句を言うわよ」
「まあ、そうだな。これからもずっとここに住むんだし。じゃあ、ちょっと言いに行くか」
野田夫婦がいまの家に引っ越してきたのは三か月前だ。新築の家をローンで買って、夢のマイホーム暮らしと思っていたら、隣の後藤さんの家から毎日ピアノの音が聞こえてきた。
初めはあまりに気にしないようにしていたが、さすがに毎日となると無視もできなくなっていた。
しかもピアノの音が聞こえてくるのが、いつも夜の八時ごろからだった。昼間ならまだ我慢もできたのだろうが、そんな時間にピアノの練習をされては気になって仕方がない。
信二と佳代は二人そろって隣のピアノの音がする後藤の家に向かった。引っ越してきて挨拶に行って以来だ。
後藤の家は野田の家よりも三倍ぐらいある豪邸だ。
挨拶に行ったときに顔を合わせた奥さんは、四十代半ばの上品な人だった。
おそらく話せばわかってくれるタイプではあるだろう。
二人は後藤の家のインターホンを押した。
「はーい。どなた様でしょう?」
奥さんの声がインターホンから聞こえた。
「あ、夜分にすみません。隣の野田ですけど、ちょっといいですか?」
「はーい、少しお待ちください」
奥さんはそう言うと、すぐに玄関先に出てきた。
「あら、どうなさったの?」
「え、実は、ピアノの音のことなんですが……」
「ああ、うちの子は熱心で困るんですの。毎日ピアノを触らないと気が済まないって。オホホ」
奥さんは野田が何しに来たかのか察していないようだ。
「あ、はあ、それで、ちょっと昼間ならいいんですが、この時間はちょっと控えていただけますか?」
信二は遠慮がちに言った。
「あら、うるさかったかしら? それはごめんなさい。娘に言っておきますわ」
「よろしくお願いします」
信二と佳代は自宅に戻った。
「これで大丈夫ね」
佳代は安心した様子で言った。
「そうだな。これでピアノの音からも解放されるよ。こんなことだったらもっと早く言っておけば良かったな」
二人はそんなことを言って二人で笑った。
しかし、ピアノの音はまだ鳴っている。
「まだ鳴ってない? ピアノ」
「そうだな。ま、切りのいいところでやめるだろう」
信二は楽観していたが、その後ピアノが鳴りやんだのは、夜の九時だった。いつも鳴りやむのと同じ時間だ。
二人は、大丈夫かと不安になったが、翌日まで様子を見ることにした。
しかし、翌日もいつもと同じように、夜の八時になるとピアノの音が聞こえて来る。
二人は、また隣の家に向かった。
そして、昨日よりも強めに夜のピアノの練習を控えるように言った。
「あら、うるさいの? ちょっと神経質なんじゃございません? わたくしの娘にも練習する権利はございますわよ」
と奥さんは悪びれることなく言うのだった。
信二も佳代もその言われ方にカチンと来たが、
「とにかく、私たちにとっては迷惑なんてやめてください」
ときつめ言って家に戻った。
しかし、ピアノの音はやはり夜の九時ごろまでは鳴りやまなかった。
「どうしようか?」
「ホントねえ。あれだけ言ってもやめないのよ。ということはこれからもずっとやめないってことだわ」
二人は絶望感に包まれた。
翌日もまた同じようにピアノが鳴りだした。
信二と佳代はどうしようか話し合ったが、このまま黙っているわけにもいかないと、今日も後藤の家にピアノをやめるように言いに行った。
「ちょっと、あなた達こそ、うるさいんじゃございません? 何度何度も文句を言いに来て。常識ってものがないんじゃないんですか」
後藤の奥さんは完全に逆ギレである。
信二も佳代も頭に来たが、あまり隣の家とはもめたくないという思いもある。なにせこれからずっとここに住んでいくのだ。
そして、二人が怒りに震えている時だった。
急に奥の方から女の子の金切り声が聞こえた。
「キャァァァァァァァァァ!!」
その声はただ事ではないことを表していた。
「ど、どうしたの? マリちゃん!」
後藤の奥さんは、大慌てで声のする奥へと入って行く。
ただ事ではない雰囲気なので、いまはピアノの音がうるさいともめている場合ではない。
信二と佳代も一緒に入った。強盗でも出たのかもしれない。
二人が奥に行くと広いリビングがあり、そこには巨大なガマ蛙がいた。軽自動車ぐらいの大きさで部屋の半分を占拠している。茶色い肌はヌタヌタと怪しく光っている。
「な、なんだ? これは!!」
信二は思わず叫んだ。
後藤の中学生ぐらいの娘はピアノの椅子から転げ落ちて、床に座ったまま、恐怖のあまり身動きができないでいる。
後藤の奥さんも、あまりの出来事に腰を抜かして身体を震わせて何もできないでいた。
信二と佳代もなにもできずにその様子を見ていると、ガマ蛙は舌を伸ばして、中学生の娘の両手を取った。そして、そのまま自分の方へと引き寄せて、その娘の両手をガブリと噛んだ。
「ギャアアア」
娘は恐怖と痛さで悶絶した。
ガマ蛙は、中学生の女の子の手を口から出した。
娘の両手は特に血などは出ていなかった。蛙の口には歯がないので案外どうってことなかったのかもしれない。ただ、巨大なガマ蛙であるから、骨折ぐらいはしているのかもしれないし、べっとりと蛙の唾液に濡れていた。
今度はガマ蛙は巨体をジャンプさせて、壁際に置かれているアップライトピアノに体当たりした。ドーンと大きな音と地響きがして、ピアノは粉みじんに壊れた。
それから、ガマ蛙は部屋の中を跳ねまわった。
ドスン、ドスンと地鳴りをさせながら跳ねまわり、後藤家の高級家具や骨とう品などがぐちゃぐちゃに破壊していった。
「ああ、やめて。ああ、そんな、うちの大事なものが」
奥さんはあたふたするが、どうしようもなかった。
そして、ガマ蛙はその奥さんの方へ向かって跳ねてきた。ドーンと奥さんに体当たりをする。
奥さんは跳ね飛ばされて、壁に激突した。
するとガマ蛙は、急にスーッと消えていなくなった。後にはフワッと白い煙だけが残った。
信二と佳代は、その様子をあわあわとしながら見ているしかなかった。
しばらくして、信二は警察に通報した。
警察が来て、信二と佳代、それから後藤の奥さんと娘は事情聴取をされた。
しかし、内容が内容なので、警察官はバカにしているのかと少しムッとして対応していた。話をまったく信じていないようだ。
ただ、大人三人と中学生一人があまりに真剣に言うので、仕方なしに訊いてあげているという雰囲気だった。
当然、警察としてもどうしようもないのだろう。
話だけ聞いてあっさり帰ってしまった。
後藤の奥さんは、そんな警察官に必死であった出来事を訴えたが、気がおかしくなった人という対応をされていた。
信二と佳代は、どうせ信じてもらえないとすぐに諦めて、自宅に帰った。
それ以来ピアノの音がすることはなくなった。
聞くところによると、中学生の娘は、手はなんともなかったものの、ピアノを弾くのに恐怖心を感じるようになってしまったので、ピアノをすっかりやめたそうだ。
奥さんは完全に精神的におかしくなり、あれ以来入院生活を送っているということだった。
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