第十五話 クールも今となっては套語です

この学園に通い始めてからというもの、俺の日常はすっかり忙しくなった。

ただでさえリリスが魔法の実技と理論で「これくらいできなきゃダメよ」と詰め寄り、アニスが剣術――いや、武術全般で「基礎が大事だ」とやいやい言い、フィオーレが「あなたも芸術に触れなきゃ」と何かと誘ってくる。そんな状態なのに、経済学まで教えるこの学園のカリキュラムは過酷そのものだ。無能を装うためには程よく手を抜くのが肝心だが、手を抜きすぎればただの無能として失格の烙印を押される。それだけは避けなければならない。かといって、うっかりやりすぎて目立てば「やっぱり天才」と評価される羽目になる。絶妙なバランスを取るのがこれほど大変だとは……。


そんな俺に新たな試練が降りかかったのは、ある日のことだった。

リリスの知人、エルネスト・バルフォード講師から呼び出しがかかったのだ。彼は魔法学会で名を知られた青の塔の中でもかなり有名な存在で、特に理論と実践の融合を掲げるその指導法は一部では天才的と評されるが、青の塔内では異端扱いされているらしい。どうも青の塔は理論を優先する学派らしく、そういう意味では実践を重視する黄色の塔と青の塔の間にいるのがエルネスト先生みたいな感じだ。

そんな彼の研究に協力するようにとの話だったが、リリスは猛反対だった。


「エルネストのところに行くの? 彼、実験と実践の境目があやふやになることがあるから、本当に気をつけてね!」

リリスは大げさな身振りで心配を示し、「本当に何かあったらすぐに呼んで。絶対だからね!」と、これでもかというくらい念を押してきた。とはいえ、どうやら彼女とエルネストの間には何らかの裏取引があったようで、最終的に渋々了承した様子だった。


こうして、俺はエルネスト講師の研究室へと足を運ぶことになった。もちろん、先日の魔法暴走の件で彼に手を貸したという名目で呼び出されている以上、俺には断る権利などなかった。


エルネスト講師の研究室は、他の講師たちの部屋とは異なる雰囲気を醸し出していた。棚には分厚い魔導書がびっしりと詰まっており、机には無数の魔法陣が描かれた図面が広げられている。研究室というより、魔法の工房といった方が正しいだろう。


「アルヴィン君、来たね。待っていたよ」

一見柔和な中年男性――それがエルネスト・バルフォードだ。穏やかな声と落ち着いた物腰には親しみやすさすら感じられるが、その目の奥には鋭い知性が光っている。噂通りの人物だと直感した。


「さあ、これを見てくれないか?」

エルネスト講師は手に持った魔法陣の図面を差し出してきた。それは黄金比を取り入れた斬新なデザインで、魔力効率をさらに高めようという意図が明確に伝わるものだった。


「ああ、これは……リリス先生が話していたやつですね?」


「そうだよ。その応用例を作ってみたんだが、実際にどれだけ効果があるか試したい。君も私の『新しい弟子』として、ぜひ協力してくれると助かる」


「……いやいや、俺は弟子じゃないですよ。リリス先生の紹介で手伝いに来ただけです」

俺は即座に否定する。何でも「弟子」扱いされては困る。


「謙遜しなくていいさ。リリスも君の理論の才能を褒めていたし、君なら面白い発見ができるだろう」

エルネスト講師は冗談半分に言いながらも、どこか本気で期待しているようだった。その言葉に俺は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。


エルネスト先生とのやり取りの間も、どこか落ち着かない視線を感じていた。その時は気づかなかったが、これが後の波乱を予感させるものだったのかもしれない。




その数日後――。

一般教養の授業が終わると、俺は突然一人の女生徒に声をかけられた。


「……あなたがエルネスト先生の『新しい弟子』ね」


振り返ると、そこには銀髪を肩まで垂らした少女が立っていた。制服の青い紋章がひときわ目立つ。彼女の冷たい青い瞳は、まるで俺を見透かすような視線を向けてくる。少し背筋が伸びた。いや、こっちに非があるわけじゃないけど。


「えっと……誰?」


「クラリス・ローレン」

それだけを言って、彼女は口を閉じた。続ける気がないらしい。普通ならそれだけで終わるところだが、クラリスの目は依然として俺を射抜いたままだった。


「……よろしく?」

仕方なく間を埋めようと適当な挨拶をする俺に、彼女は一歩近づき、ため息をつくように小さく息を吐いた。


「無駄ね」

静かな声だったが、その一言に含まれる刺々しさが教室の空気を凍らせる。周りの生徒たちも小さくざわめき始めた。


「……何が無駄なんだ?」

俺は思わず聞き返す。


「あなたみたいな人が、先生の目に留まること。それ自体が無駄」

クラリスの言葉は一切感情を表に出さず、ただ冷徹に告げられた。それが逆にこっちの神経を逆撫でする。


「いやいや、俺はただの手伝いなんだよ。弟子でもなんでもないし――」


「黙りなさい」

再びの鋭い言葉。だけど声を荒らげるわけじゃない。ただ冷たい水を浴びせるような声色だった。


「先生があなたを褒めていたわ。魔法の才能があるとか、理論の応用が素晴らしいとか。それがどれほど滑稽かわかる?」


その一言に、俺は彼女の意図を測りかねた。声に感情が乗っているわけじゃない。ただ、それが余計に鋭く響く。


「……悪いけど、俺、先生に褒められた記憶なんてほとんどないよ。むしろ、何がそんなに気に食わないんだ?」

なるべく穏やかに答えるつもりだったが、内心は困惑しかない。俺が一体何をしたっていうんだ?


「気に食わない……?」

クラリスは眉一つ動かさずに呟き、ふっと小さく笑ったように見えた。


「そうね。ある意味、そうかも。だって、あなたみたいな人が、先生の手を煩わせるなんて――くだらない」

その言葉には明らかに侮蔑が混じっていた。とはいえ、それを周囲がどう受け取るかは微妙だろう。冷たい表情で淡々と放たれる言葉は、クラリスが感情的に怒っているわけではないことを印象づけるからだ。


俺が何か言い返そうとした瞬間、周りで様子を見ていた一人の女生徒がそっと友達と話しているのが聞こえた。


「……またクラリスさんだ。怖いよね、あの人……」


「あんなこと言うから嫌われるんだよ」


嫌われている……?

ふと、クラリスを見返す。確かに彼女は美しいし、知性も感じられるけど、その言動の冷たさと刺々しさが周囲を遠ざけているようだ。それを自覚しているのかどうかはわからない。


「……じゃあ、なんで話しかけてきたんだよ?」

俺は素直な疑問をぶつけてみた。


クラリスは少し目を細めた。何かを考えているような仕草の後、口を開いた。


「私は……あなたがどれだけのものか確かめる必要がある。それだけよ」

それだけを言い捨てると、彼女は踵を返して去っていった。冷たい風が吹いたような余韻を残しながら。


「……何だったんだ、今の」


教室に残された俺は、周りから向けられる視線にどう反応すればいいのか分からなかった。ただ、クラリスが何か特別な思いを抱えていることだけは察することができた。


――だが、それがどうして俺に向けられるんだ?


謎の上級生クラリス・ローレン。冷たく、鋭い彼女の態度には何か裏があるのかもしれない。だが、それが俺にどう関係するのかはまだ見えてこない。


リリスの「何かあったらすぐ呼んで!」という言葉が脳裏をよぎったが、今さら頼るのも気が引ける。それよりも、この厄介ごとに巻き込まれないようにする方法を考えないといけない。いや、それも手遅れか……。


――また一つ、余計な問題が増えたようだ。


その後、クラリスはなぜか俺の行動にやたらと干渉してくるようになった。魔法の実技はもちろん、一般教養の授業や実践的な活動でも、どこからともなく現れては何かと言葉を投げかけてくる。


例えば、数学の授業――。

教師が問題を黒板に書き、俺を指名したときのことだ。適当に計算をこなしてみせると、クラリスがすかさず口を挟んできた。


「それは間違いよ」

彼女は冷静そのものだが、その言葉には隠しようのない棘があった。


「あ、そうなのか?」

俺が軽く肩をすくめてごまかすと、彼女は席を立ち、黒板にスラスラと解答を書き始めた。途中で俺に一瞥をくれる。


「……この程度の問題も正確に解けないのに、先生があなたを評価する理由がわからないわ」

その言葉に教室がざわめく。後ろの席にいたリヴィアが控えめに手を上げる。


「でも、クラリスさん……アルヴィンさんは数学が得意じゃないって、いつも言ってるのよ? そんなに責めなくても……」

その声にはリヴィアらしい優しさが滲んでいる。


「得意じゃないなら、どうして計算ミスなんてしない方法を考えないの?」

クラリスの返答は簡潔で鋭い。リヴィアも思わず口を閉ざす。


その横でセリーナが小声で俺に囁いた。

「……ねぇ、アルヴィン、どうしてわざわざ目をつけられてるの?」


「俺に聞かないでくれ……」


俺が小さくため息をつくと、後ろからエリザがつんとした声を上げる。

「クラリスさんはね、口数が少ないくせに言うことが厳しいのよ。おかげで、あんまり友達がいないって噂もあるわ」


その言葉にクラリスが気づいたのか、軽く後ろを振り向き、無言の視線をエリザに投げる。その一瞬で教室が静まり返る。彼女の存在感には妙な圧があった。


また別の日――剣術の訓練。

アニスが「おい、ちゃんと振り切れ! 力を抜くんじゃない!」と檄を飛ばしている中、俺は無能を演じるため、適当に流していた。ところが、ふと目をやると、見学席にクラリスがいた。


その冷たい視線は、俺を真っ直ぐ射抜いている。剣を軽く振り下ろしている俺に対して、ぽつりと呟いた。


「……ふん、ただの見せかけね」


その声量でどうして聞こえるんだというくらい静かな声だったが、耳に残る嫌な響きがあった。


「クラリス、あんた剣術の専門家か? これ、俺の流儀なんだよ」

俺が冗談交じりに返すと、アニスがこちらに駆け寄ってきた。


「おい、誰がそんな流儀を教えた! 甘いぞ、アルヴィン!」

アニスは目を光らせて俺の稽古姿勢を修正しつつ、ちらりとクラリスに目を向ける。


「あんたも見学だけじゃなく、試してみるか?」

アニスの挑発に、クラリスは眉一つ動かさなかったが、短く答えた。


「必要ないわ。私は、魔法だけで十分」

その言い方が妙に高圧的に聞こえたのか、アニスは少しだけ口角を上げた。


「ほぉ、そうかよ」


後ろで見ていたフィオーレが、そっと俺に耳打ちしてくる。

「アルヴィン、クラリスさん……本当に強いの? それともただの気難しい人?」


「俺にもわからん。でも、わざわざ剣術場にいるくらいだから、気になることがあるんだろ」


フィオーレは興味深そうにクラリスを見ていたが、クラリスがふとこちらを見やると、フィオーレは慌てて目を逸らした。


さらに、魔法の実技でも彼女は頻繁に俺に絡んでくるようになった。

リリスが教官として見守る中、俺が簡単な魔法陣を描いて火球を作り出そうとすると、クラリスが横から静かに声をかけてきた。


「……遅いわ」

それだけ言うと、クラリスは自分の杖を軽く振り、一瞬で魔法陣を完成させる。


「こうするの」

彼女が放った火球は美しく、正確な軌道で的に直撃した。


「えーっと……ありがとう?」

俺が困惑しながら返すと、リリスが割って入った。


「ちょっとクラリス! アルのやり方を否定するのはやめてくれる? 彼には彼のペースがあるんだから」


クラリスはリリスを一瞥すると、無表情で答えた。

「先生のやり方には賛成するけど、私はただ、無駄を省いた方がいいと言っただけです」


リリスは肩をすくめてため息をついた。

「だからクラリス、そういう言い方が問題なのよ。もっと優しく伝えなさいって何度も言ったじゃない」


「優しさは、必要?」

クラリスの一言に、場が妙な沈黙に包まれる。俺はそっとリリスに目配せを送ると、彼女は苦笑いを浮かべて首を振った。


こうして、謎の上級生クラリス・ローレンとの妙な関係が始まった。俺が無能を演じるたびに、彼女がわざわざそれを否定するような行動を取るせいで、周囲から見れば、まるで俺と彼女が張り合っているようにしか見えない。


「お前ら、本当は仲良いだろ?」

とアニスにからかわれると、俺は頭を抱える。


俺はただ平穏無事に学園生活を送りたいだけなのに、どうしてこうも波風が立つのか……。





その日は魔法実技の授業で、複雑な魔法陣を描く課題が出された。俺はもちろん、適当にやり過ごそうと考えた。下手に目立てば、リリスだけでなくエルネスト先生にも褒められる羽目になる。それだけは避けたい。逆に失敗しても、周囲には「期待はずれ」と思われる程度で、実際のダメージはないはずだ。むしろ、これこそが俺にとっての理想的な結果と言える。


「よし、次はアルヴィン!」

講師の声が響く。俺はまず起動呪文を唱えた。ちなみに、この起動呪文は俺の実父が使っていたもので、血統的に相性が良いらしいとリリスが説明していた。そのおかげか、比較的スムーズに魔力が流れる。俺にしては珍しい「家の力」の恩恵だ。


次に魔法陣を描き始めた。だが、描き始めてすぐに気付いた――指示された魔法陣の一部に、明らかに危険なミスがある。もしこのまま進めば、魔法は暴発し、教室中がとんでもない混乱に巻き込まれることは確実だった。


ここでプラン変更。元々「失敗する」という目的は変わらない。俺はラインを少しずらし、わざと魔法の起動を不発にさせることで、混乱を防ぎつつも失敗したフリを決め込む。まさに一石二鳥のプランBだ。


案の定、魔法は不発。魔力が空中で弾け、教室中に煙が立ち込めた。

教室のあちこちから笑い声が上がる。


「またアルヴィンだ! 本当にダメだな」

「魔法学科の生徒とは思えないわね」


周囲の声が次第に大きくなり、俺は肩をすくめてみせた。これで終わり……のはずだった。


「静かに」

その瞬間、冷たい声が教室に響き渡った。クラリスだった。


「失敗を嘲笑う資格があるのは、彼より優れた者だけ。あなたたちの中にそんな人がいるの?」


教室が一瞬で静まり返る。彼女の鋭い視線が笑っていた生徒たちを射抜き、誰も何も言えなくなる。周囲の気まずい沈黙が心地よいくらいだったが、それ以上に俺は驚いていた。クラリスが俺を擁護するなんて予想外だったからだ。


しかし、次の瞬間、その理由に気付いてしまった。いや、気付かされてしまった。


「……魔法陣の配置、意図的に変えたのよね?」

クラリスが突然小声で俺に言った。声は静かだが、その視線はまっすぐ俺を見据えている。


「……何の話だよ?」

俺はとぼけるが、彼女は表情を変えずに続ける。


「一つのミスが全てを壊すと気付いたから、あえて不発にさせたんでしょう? 起動すれば爆発していたわ」


その一言に、思わず背筋が寒くなる。俺がわざと手を抜いたことに気付いていただけでなく、その理由まで見抜いていたのだ。


「お前、どこまでわかってるんだよ……?」


「別に、気付いただけ」

それだけを言うと、彼女は再び席に戻った。俺が何かを言おうとしたが、その背中はもう振り向く気がないようだった。


授業後、俺は廊下で彼女を見つけ、声をかけた。


「おい、クラリス。あれ、どういうつもりだよ?」


彼女は一瞬だけ立ち止まり、俺に顔を向けた。


「別に。ただ、無駄な時間が嫌いなだけ」


その返答に違和感を覚えた俺はさらに踏み込む。

「いや、助けてくれたんだろ? ありがとうくらい言ってもいいのか?」


彼女の顔がほんの少し赤くなった気がしたが、表情は変わらず冷たいままだった。


「感謝なんていらない。それだけの価値があると思ってるなら」


そう言い残して去っていく彼女の背中を見て、俺はその場に立ち尽くした。冷たい態度の中に、何か別のものを感じた。自分でも説明がつかない妙な気持ちだった。


「……無能ムーヴが失敗したはずなんだけどな」

俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。助けてもらったのは俺の方だったのかもしれない――そんな気がしてならなかった。



その翌週。学園の実技試験で、クラリスが高難度の魔法を使う場面があった。試験のテーマは「魔法を応用した障害突破」で、参加者はそれぞれ自分の得意な魔法で課題をクリアする形式だった。


クラリスは、例によって周囲を圧倒するような魔法陣を描き始めた。その線の正確さ、魔力の流れの美しさは群を抜いている。しかし、その分消費する魔力量も桁違いだった。


俺は少し離れた場所からその様子を見ていたが、彼女の魔法が異常に膨れ上がっていることに気付いた。周りの生徒たちも何かがおかしいと感じ始めたらしく、ざわざわと騒ぎ出す。


「おい、クラリスの魔法、あれ……ヤバくないか?」

「暴走しそうだぞ!」


講師たちが止めに入ろうとしたが、既に制御不能になっているらしい。魔力の奔流が彼女を飲み込む寸前だった。


「おい、クラリス!」

俺は叫びながら彼女の元へ走った。周りの誰もが足を止める中、俺は咄嗟に起動呪文を唱え、彼女の近くに飛び込んだ。


「何してるの!?

逃げなさい!」

彼女が驚愕と怒りを滲ませた声で叫ぶ。


「うるさい!

余計なこと考えるな!」

俺は短く言い返し、頭の中で焦りながら、以前リリスが魔力暴走を止めた時のことを思い出していた。


以前、魔力暴走の事故があった際、リリスは冷静に魔力の奔流を制御して見せた。彼女が放ったのは、暴走する魔力を逆流させて相殺する高度な応用魔法だった。複雑な魔法陣を即座に描き、魔力の流れを「閉じる」技術は、俺には到底真似できないように見えた。


だが、その時リリスが言った言葉が頭に残っている。

「魔力の暴走を止めるには、余分な力を別の流れに逃がせばいいの。魔法は、全て流れを読むことが基本よ」


――俺にできるのか? いや、やるしかない。


俺はクラリスが放った魔力の奔流に自分の魔力をぶつけるのではなく、流れを「引き込む」形を意識した。自分の魔力を導線のようにし、暴走するエネルギーを別の方向へ逸らす。魔力を反発させるのではなく、調和させて逃がすというやり方だ。


「……頼む、うまくいってくれ!」

俺は渾身の力を込めて魔法陣を描き、魔力を誘導した。

「え、無詠唱?」クラリスが何か言っているが、それどころではない。


次第に暴走していた魔力が弱まり、静けさが戻る。魔法は完全に収束し、教室に漂っていた緊張が一気に解けた。


「お前、大丈夫か?」

俺が肩越しに声をかけると、クラリスは顔を伏せたまま、小さく頷いた。


「……どうして、助けたの?」

静かな声で彼女が呟く。


「そんなの決まってるだろ。

……なんでだろう?」


彼女は何も言わず、ただ俺をじっと見つめた。冷たい青い瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだように見えた。


「……ありがとう」

その声は、かすれるほど小さかった。


事件の直後、慌てた様子でエルネスト先生が駆けつけてきた。


「クラリス! お前、また無茶を……!」

先生の声は怒りと安堵が入り混じった調子だ。俺たち二人を交互に見ながら、彼はクラリスに向き直った。


「お前は優秀だが、自分の限界を見誤るなと言っただろう! これ以上、私の弟子として不名誉なことは――」


「エルネスト先生」

俺は少しだけ声を張って遮った。先生がこちらを見る。


「弟子が優秀で、それを師匠も理解していると言っても、言葉で伝えないと弟子も不安になりますよ」


その言葉に先生は一瞬目を見開いたが、すぐに苦笑しながら頷いた。

「なるほど。二人目の弟子も、最初の弟子に負けず劣らず優秀なようだな」


俺がそれを聞いて肩をすくめると、その意味に気づいたらしいクラリスが小さなため息をつきながら呟く。

「……弟弟子も、師匠同様素直じゃないけど」


彼女の表情はほんの少しだけ緩んでいた。それに気づいたエルネスト先生が顔をほころばせる。


「ふむ、こういうところまで似るとは面白い」


その場の空気が少し柔らかくなった瞬間――。


「エルネスト先生!」

どこからか怒りのこもった声が響き渡った。振り向くと、案の定、リリスが肩を怒らせながらこちらに歩み寄ってくる。


「アルは、あなたの弟子じゃありませんから!」

リリスは指をエルネスト先生に突きつけて抗議する。


「まあまあ、リリス師匠。少しは落ち着いてって」

俺が苦笑いしながら声をかけると、リリスは振り返って睨みつけ、そしてエルネスト先生の方に向き直る。


「黙ってて!

アルは私の教え子なんだから、勝手に弟子扱いしないでほしいわ!」


「それは失礼したな、リリス嬢。しかし彼の実力を見る限り、君より私の方が適しているかもしれないが?」

エルネスト先生が冗談交じりに返すと、リリスはさらにむきになった。


「そんなわけないでしょう!」


そのやり取りを見ていたクラリスが、小さくクスッと笑うのが聞こえた。俺が驚いて彼女を見ると、彼女はすぐに真顔に戻り、何事もなかったかのように視線を逸らした。


ただ……無能アピールとしては微妙だが、なぜか『ハーレム野郎』とか『女誑し』だの言われるのだけは納得いかない。



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