第4話


 仁科にしな優人ゆうとは、堪らず車を路肩に停めた。

 ひゃっ、という驚きの声が車内に響く。


「ちょっと! ……危なっ」


 助手席に座るいぬい沙利奈さりなは、呆れたような視線を仁科に投げかけた。

 沙利奈の膝の上には、先ほど朝食として買ったエッジバーガーの商品が乗せられている。仁科の急停車により、手に持っていたドリンクカップを落としかけ、包み紙が滑り、足元に落ちそうになったバーガーを咄嗟に押さえていた。


「あぁ、ごめんごめん」


 感情の乗っていない謝罪に少々不服そうな沙利奈だったが、バーガーの包み紙を開いて中身を確認すると、そのままかぶりついた。彼女の小顔のせいか、仁科の目には異様にバーガーが大きく映った。

 ふと、カーロケの時刻に視線を移す。午前九時を少し過ぎていた。から、すでに一時間は経過している。

 密行は午前九時半までだ。少し様子を見に行くくらいなら、勤務時間内で収まるだろう――しかし、相棒をどう説得するかが鍵だ。

 仁科はため息をつきながら、視線を沙利奈に戻した。


「ねぇ、沙利奈。やっぱ気になんない?」


 沙利奈は食べることを止めぬまま、じろりと仁科を見上げた。口に入っているものを咀嚼し終えると、紙袋の中からペーパーナプキンを取り出して口元を拭った。


「そりゃ気になりますけど、」言い掛けたところで、まさか、と見開かれた目が仁科に向けられた。「……あの現場、戻ろうとしてます?」


「うん。ダメ?」


 年不相応なきゅるきゅるとした目を向けられ、沙利奈は思わずため息をついた。


「仁科さん」

「ん?」

「わたしがこの世で一番嫌いなこと、なんだと思います?」

「えっ? えっと、何だろう……」


 沙利奈の真剣な表情に、仁科は戸惑ったように首を傾げた。


「説教とか? それか、始末書の作成?」


 沙利奈は目を細めると、違います、と首を横に振った。


「わたしがこの世で一番嫌いなこと――それは、他人の尻拭いです」

「……うん。えっ、それって俺のこと言ってる?」

「仁科さん以外に誰がいるんです?」


 仁科は押し黙った。沙利奈の鋭い指摘に、反論の余地はなかった。

 二人が山梨県警機動捜査隊でコンビを組んだのは、八ヶ月ほど前だった。所轄の地域課から異動してきた沙利奈の指導係として仁科が任命されたのだが、見様によっては仁科が指導されている側だ。

 頭の回転が早く、思考力に長けている沙利奈に対し、仁科は刑事の勘で動くことが多い。そのたびに、上長から「しっかりと仁科を監視しておけ」と、なぜか沙利奈のほうが叱責されるのだ。それも、かなりの頻度で何かしらをやらかすので、沙利奈はうんざりしていた。しかしその分、上から自分への期待値の高さを実感している。機動捜査隊で実績を残せば、警察の花形部署ともいわれる捜査一課への異動も夢ではない。沙利奈が踏ん張るのは、将来の可能性を広げるためだった。

 昇進を念頭に置く沙利奈とは対照的に、仁科はかなりお気楽者だ。今年四十を迎えたばかりだが、養う家族もいなければ、恋人もいない。あっさりとした顔つきと人当たりの良さから、モテるにはモテるのだが、仁科のほうが乗り気ではないのだ。一生独身を貫くつもりらしく、昇進に頓着することもなく、自由を一番に好むのが仁科の性分だった。

 いまも、将来有望な相棒のことより、自身の好奇心や刑事としての勘に突き動かされ、それを優先しようとしている。そんな仁科の軽率な言動に、沙利奈は何度も振り回されているのだ。――が、今回の件については、沙利奈も不審感を抱いていた。

 沙利奈はため息をひとつつくと、バーガーの包み紙をくしゃくしゃに丸め、空になったドリンクカップと一緒に紙袋の中へと突っ込んだ。


「……まぁでも、今回は少し違和感がありました」


 非難を予想していたのだろう。仁科は、沙利奈の言葉に、えっ、と驚きの声を上げた。


「明らかにおかしいです。バス内での暴行事件――といっても、乗客による喧嘩だったみたいですけど、それだけで特殊部隊が出動しますか? バスジャックならまだしも、あんな物々しい出動はどう考えても異常です」


 沙利奈の指摘に、仁科は首肯した。


 通信司令室から無線が入ったのは、午前八時前だった。富士感染症研究センター行きの路線バスで、乗客による暴行事案が発生したのだ。

 現場に一番乗りしたのが、機動捜査隊の仁科と沙利奈だった。バスは片側一車線の狭い道路を走っていたため、道路に隣接する更地に、車体前方を突っ込むように停車していた。更地には軽自動車が一台だけ停められており、近隣住民が臨時の駐車場として利用しているようだったが、その利用者は現場付近で確認できなかった。

 二人が前扉から車内に乗り込むと、運転士は冷や汗をかいたまま硬直していた。バスの中扉付近の狭い通路には、耳から血を流した大学生くらいの男がへたりこんでいた。首にはヘッドフォンを掛けている。若い男の横では、二十代前半と思われる女が止血を試みていた。怖気付いていない様子から、医療従事者であることが窺える。

 そして、その傍らで呆然と立ち尽くす男が一人。三十代から四十代ほどといったところだろうか。頭髪の薄い男が、口を赤く染めてその光景を見下ろしていた。

 乗客は、その三人を含めた二十名ほどだった。ギリギリ、乗客全員が席に座れるほどの数で、通勤ラッシュとは言えないほど車内は落ち着いていた。

 その中での、乗客同士のトラブル。

 一体、何が――?


「とっ、突然、客席から悲鳴が聞こえたんです」


 状況を把握しきれていない二人に、運転士が絞り出すような掠れ声で、説明し始めた。


「『停めて!』という叫び声を聞いて、慌ててバスを停めました。何事かと振り返ってみたら、あの男性が彼の耳に噛みついていたんです」

「……噛みついた?」仁科が、訝しげに眉を顰めた。


 口を赤く染めた男に、視線を移す。目の前の出来事が認識できていないのか、口を開いたり閉じたりしている。時折、その隙間から黄ばんだ歯が覗いた。

 仁科は、沙利奈にその場に留まるように目で合図を送ると、ゆっくりと三人の元へと歩み寄った。そして、口を赤く染めた男の顔を覗き込んだ。


「……山梨県警の仁科です。あなたの名前は?」


 男は、か細い声で上田と名乗った。


「上田さんね」仁科は、なるべく柔和な表情を心掛けた。「で、一体どうしちゃったの?」


 仁科の問いに、上田はぷるぷると首を横に振った。わからない、とだけ答えると、突然耳を両手で覆い、その場に蹲った。現実逃避に走っているのが、仁科にはわかった。


「きっと、これが原因です」


 若い男の応急処置をしていた女が、ヘッドフォンに触れた。女は、村松というらしい。同市内の病院で看護師をしているそうだ。


「彼のヘッドフォンから音漏れしていたんです。わたしを含め、他の乗客はあまり気にしていなかったんですけど、隣に座っていたこの男性はかなり不快だったようで……」

「なるほどねぇ」仁科はその場にしゃがむと、耳から血を流している若い男の顔を覗き込んだ。「おい、平気か?」

「……は、はい。なんとか……」


 けれど、その声は震えが混じっていた。突然、見知らぬ男から噛みつかれ、出血も大量というわけではないが、決して少ないわけではない。軽くショックを受けているようで、顔を蒼白くしていた。


「君、名前は?」

「中井です……」

「中井君ね。学生さん?」

「……はい。山梨中央大学の二年生です」

「りょーかいっ。とりあえず救急車呼ぶから、楽な体勢で待ってて」


 仁科の言うとおりに、中井は看護師の村松に支えられ、空いていた一人席に倒れこむように座った。上田と名乗った男は、いまだなお両耳を塞いだままびくりとも動かない。声を掛けてみても、状況は変わらなかった。

 仁科は困ったようにこめかみを掻くと、沙利奈のほうを振り返った。


「応援を――」


 応援を呼んでくれ。そう言い切る前に、鋭いサイレン音が道路の向こうから鳴り響いてきた。

 バスの窓から外の様子を注視すると、向かいの車線から、赤色灯を回した黒い装甲車が一台と、それに引率されるように白い大型のワンボックスカーが現れた。

 白い車体には『富士感染症研究センター』の文字が入れられていた。

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