第2話


 結局、想乃が勤務を終えたのは午後六時時頃だった。午後五時から出勤予定だった高校生のチャリライダーが飛んだからだ。

 めんどくさがりと言えど、困っている人を見掛けたら放っておけないのが、想乃の性分だ。虹恋の頼みだったとしても、本当に困っているのならば手を差し伸べる。めんどくさがりの想乃が、主婦や社員から支持を集めている理由は、そこにあった。

 流れるように帰り支度を済ませると、早々にスタッフルームを出て、従業員専用駐輪場に停めておいたスクーターに跨った。ブラウンとクリーム色のレトロポップなデザインに惹かれ、貯金を崩して買ったものだ。もう三年は乗っている。

 東に二キロほど走り、左手に見えてくる青色のマンションが想乃の自宅だ。アルバイト先から自宅までは、大通り一本で繋がっている。

 オートロック付きの十五階建てマンションで、管理人も常駐しており、セキュリティ面に長けている。娘を一人にすることが多いため、職場から近く、なおかつ安全性の高いマンションに、という想乃の父・がくの希望に沿った物件だった。


「ただいまぁ」


 想乃が帰宅すると、岳がちょうど夕飯の準備を終えたところだった。

 胸筋のせいで窮屈そうな黒のエプロンを外しながら、岳は「おかえり」と一言返した。

 想乃はふと、掛け時計に視線を向けた。まだ六時半にもなっていない。


「今日早かったんだね」

「ああ、ちょっとな」


 いつもであれば、この時間帯から夕飯の準備を始めているはずだ。想乃のほうが帰りが早いときもあるくらいだが、今日は特別な事情があるようだった。一瞬、何かを話しかけようとした岳だったが、何か思い出したような表情を見せると「手、洗ったか」と想乃に問いかけた。


「まだー」

「すぐ洗ってこい」

「……めんどくさぁ」


 言いながらも、想乃は廊下を引き返し、右手にある扉を引いて洗面所へと向かった。

 手を少し水で濡らし、ハンドソープを出したあたりで、洗面台の鏡に岳の顔が映った。扉に寄りかかり、鍛え上げられた腕を組みながら、鏡越しにこちらをじっと見つめてくる。眉間に皺を寄せているその表情を見て、想乃はつい出そうになったため息を飲み込んだ。しかし、何も気づいていないふりをして、手を洗い始める。


「想乃、父さんの曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんはなぁ――」

「『未曾有のパンデミックで命を落とした』……でしょ?」


 岳の言葉に被せるように想乃はそう言った。いつもより、気持ち長めの手洗いを終えると、タオルで手を拭き、岳のほうを振り向いた。


「もう何百回、何千回も聞かされて耳にタコが出来そうだよ」

「だったらめんどくさいとか言わないで、言われなくても手洗いうがいくらい出来るようにしろ」

「はいはい」


 そう言って岳の横を通り過ぎようとしたところで、想乃の肩は掴まれた。


「うがい」

「……はいはい」


 踵を返し、想乃はふたたび洗面台と向き合った。

 岳がここまで手洗いうがいにしつこいのは、いまからおよそ五十年ほど前に発生した、パンデミックが原因だった。まだ岳が生まれてもない時代の話だが、あまりにも大規模なパンデミックだったために、後世に語り継がれているという。岳の曾祖父と曾祖母も、感染したのちに命を落としたため、岳は幼少期の頃から「手洗いうがい」と、呪文のように言われて育てられてきた。

 しかし、ここ四十年は世界を脅かすようなパンデミックは起こっていない。

 ――めんどくさい。神経質にもほどがある。

 想乃はガラガラとわざと大きめの音を立ててうがいをすると、今度こそ岳の横を通り過ぎて、ダイニングへと向かった。


 柞木田家のダイニングは、他の家庭とは一風変わっている。どのような形態が普通なのかはわからないが、いわゆるダイニングテーブルというものが存在しない。ひとつのテーブルを、ということをしたことがないのだ。

 L字型の対面キッチンに、カウンターテーブルが併設されており、そこには四脚のカウンターチェアが横一列に並べられている。キッチンと向かい合って一番左が想乃の定席で、一番右は岳だ。二人は毎回、二席分の距離を空け、横並びに食事を取っている。だが、決して不和が生じているわけではない。この距離感が、二人にとってはちょうどいいのだ。

 今夜のご飯は、カレーライスだった。ネタが枯渇したときに重宝される、柞木田家の定番メニューだ。


「いただきます」

「いただきまーす」


 最初の何口かまで、お互いに言葉を交わすことはなかったが、やがて岳が深く息を吸い込み、スプーンを皿の上に置いた。想乃はその光景を視界の端で捉えながら、特に気にすることもなく口にスプーンを運び続けた。


「想乃、」

「ん……何?」


 やけに口が重そうな父に対し焦ったさを感じながらも、想乃は次の言葉を待った。


「――父さん、明日から緊急派遣でしばらく家を空ける」

「ふうん。どこ行くの?」

「山梨。富士山の近くだ」

「へぇ」


 引っ張ったわりには、衝撃が少なかった。


「何か困ったことがあったら、ばあちゃんとじいちゃんに頼るんだぞ」

「うん」


 いままで、こういったことは何回もあった。

 岳は、陸上自衛隊普通科連隊で中隊長を務めており、階級としては三等陸佐にあたる。日本国内で災害があった際には、家を空けることもある。片親のため、小さいころは岳の実家に預けられることもしばしあった。かと言って、寂しかったわけではない。岳の実家は茨城県の下妻にあり、毎回小旅行の気分だった。昔ながらの平屋はリノベーションされていて綺麗だったし、祖母の作る料理はどれも豪勢で、祖父はとことん甘やかしてくれた。雑種犬のキンタローと遊ぶのも、楽しみのひとつだった。

 しかし、想乃は今年で二十三になった。独り立ちしていても、おかしくない年齢ではある。そんな大人とも言える立場になった人間が、父が家を空けるからといって、わざわざ都外にある祖父母宅に赴くのは稚拙でいたたまれない。


「帰りも、いつになるか見通しがつかない。平気か?」

「そんなに気にしなくても、平気だよ。もう子供じゃないんだから」

「父さんがいなくても、手洗いうがいはしっかりするんだぞ」

「気にしすぎだよ」


 ふと出てしまった本音に、しまった、と思った。

 スプーンを持っている手の動きは止まり、想乃はおそるおそる岳の表情を窺った。

 また、眉間に皺が寄っている。岳が説教モードに入る際のトランスフォームだ。説教モードに入ると、岳は諭すように想乃に語り掛ける。想乃は父が憤慨しているところを見たことはなかったが、正論で言いくるめられるよりかは、感情的に怒り狂ってくれたほうがまだよかった。現状は反論できる余地がまったくないため、渋々従うことしかできない。それでは、お互いあまり気持ちよくないのではないか、と想乃は感じているのだ。


「ここ四十年、これといったパンデミックは起きていない。近いうちに、一発でかいのが来るかもしれない」

「そんなことばっか気にして生きてたら、疲れちゃう」

「いずれお前にだって家族はできる。自分と大切な人を守るための大事な予防だ」


 ――家族。大切な人。

 ふと、カレーを掻き込むように食べる父の横顔を見る。

 物心ついたときには、すでに母親という存在はいなかった。なぜ自分には母親がいないのか、一度だけ聞いたことがあったが、若くして想乃を産んだという情報だけが知らされ、はぐらかされて重要なことは教えてもらえなかった。想乃が十八になって成人をしても、真相が語られることはなく、そのときにはもう、話したくないほど辛いことがあったのだろう、と思うことにした。きっと、目先の大金に目がくらみ、いざ子どもが産まれれば、怖気付いたように逃げ出したのだろう――と。いまさら母親のことを聞いたところで、何の意味もない。娘を男手ひとつで育て上げてくれた父だけが、想乃にとっては家族であり、大切な人だった。


「家族なんて、お父さん以外にいらないよ」


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